の~んびり タイランド 2

タイの風景、行事や趣味の陶磁器を写真を中心に気ままに紹介しています。

アンコール・ワット(十字回廊の女神)

2015年07月30日 | カンボジア
第一回廊から十字回廊へ入ります。出迎えてくれるのは豊満な肉体のデヴァターたちです。



3人のデヴァターです。左に立っているデヴァターは隣のデヴァターの腰に手を回しています。人間くさい仕種の女神たちです。



こちらは肩に手を回すデヴァターです。



腕を組むデヴァターです。





十字回廊で囲まれた四カ所には沐浴の池があります。

疑似窓です。壁面の単調を避けるために連子格子を付けた疑似窓がクメール建築では多用されます。







天井は全面彫刻で蓮華が彫られ彩色されています。

梁や柱にも彩色が残っています。
アンコールは新興国アユタヤの再三の侵略で1431年頃に放棄され、王都はカンボジア東部を転々とします。
スールヤヴァルマン2世の墳墓となっていたアンコール・ワットは、その後、残された住民によって上座仏教寺院として生き残ります。
ビルマの台頭でアユタヤの覇権が弱まり、カンボジアはアンコールを奪還します。
アン・チャン1世(在位:1516年~1566年)は密林に中でアンコール・トムを発見、覆っている樹木を伐採し、一時期王宮とします。1546年から1564年にわたってアンコール・ワットを修復、未完成であった第一回廊の北壁、東壁北側の浮彫りを完成させます。
アンコール・ワット境内に上座仏教寺院が建立され、各地から仏教徒の訪れる聖地となります。

彩色は創建時のものか、修復されたものかは不明です。



天井に木造建築のように張り巡らした砂岩製の棟木です。石屋根の荷重を分散させる構造です。
蓮華の彩色もきれいに残っています。

墨で黒く塗り潰されて判読困難ですが、よく見ると漢字が目につきます。
寛永9年(1632年)に天竺の「祇園精舎」と信じて参詣した日本人武士「森本右近太夫」の落書きです。寛永9年正月に熊本から父の菩提を弔い、老母の後世を祈るため一千里の海を渡って参詣、4体の仏像を奉納したことが墨書でしたためられています。他にも同時代の日本人による落書きが14か所あるようです。
当時の日本でも、御朱印船貿易によってアンコール・ワットは知られていたようです。
徳川家光は鎖国令を出す前に長崎の通詞「島野兼了」をオランダ船に便乗させ、祇園精舎の調査に派遣しています。水戸の彰考館に祇園精舎図として、島野兼了の下絵を基に描かれたアンコール・ワットの見取り図が残されています。





こちらのデヴァターは腰に手を回しています。












アンコール・ワット(ラーマーヤナ)

2015年07月29日 | カンボジア

第一回廊の内壁は高さ8m、東西200m、南北180mで、全面に神々と王の物語が隙間なく彫刻されています。
創建時のアンコールワットは寺院全体が金箔で彩色され、熱帯の太陽のもとで燦然と輝いていました。回廊の浮彫りは漆で下地処理をして金箔が貼られていたようです。部分的に彩色の痕も残っています。
一篇が90mから100mになる巨大な絵巻物は上下3段に分かれ、上から遠景、中景、近景となっています。西壁面にはインド古代の二大叙事詩のラーマーヤナ、マハーバーラタの躍動感がある場面が展開しています。

西壁面の北隅は神馬スールヤに乗るクリシュナです。









西壁面の北側には長さ90mになる、ラーマーヤナの絵巻物が展開します。

ラーマーヤナの猿軍と羅刹軍の戦闘場面です。



猿軍と羅刹軍の乱闘場面です。

天井の蓮華模様です。





猿軍の兵士が羅刹軍の兵士の顔面に噛み付いています。
羅刹軍は剣や槍、棍棒で武装していますが、猿軍の武器は木の枝や石で、最大の攻撃は鋭い歯での噛みつき、鋭い爪の引っ掻きです。

猿将ハヌマーンの肩に乗り、矢を射るラーマ王子。左はラーマ王子の弟ラクシュマナとヴィビーシャナが立っています。

ラーマ王子の容貌は、創建者スールヤヴァルマン2世です。



羅刹王ラーヴァナが乗った戦車の登場です。戦車を牽くのは2頭の獅子馬です。

羅刹王ラーヴァナの拡大です。10の頭、20本の腕、4本足を持っています。



羅刹軍の武将ナラーンタカと一騎打ちする猿軍の武将アンガダです。



ここを通り抜ける人たちが乳房を撫でていくため、手の脂で乳房が異様に黒光りしています。



アプサラの線刻です。十字回廊に寄ります。

アンコール・ワット(西塔門の女神)

2015年07月27日 | カンボジア
昼食です。生身のデヴァターのお出迎えです。






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午後3時に再びアンコール・ワットへやって来ました。

幅190mの環濠の向こうにアンコール・ワットの伽藍が見えます。環濠は南北1300m、東西1500mあり、広大な敷地の中に三重の回廊、高さ65mの中央祠塔と4基の祠塔が建つ巨大寺院です。



西塔門です。塔頂部は崩壊しています。
左右に延びる歩廊の屋根を支える石柱がきれいに並んでいます。



参道の入り口はテラスになって、四方には獅子像が鎮座、左右をナーガの欄干が囲んでいます。

190mの環濠に架かる石橋を渡ります。参道入り口から主祠塔の建つ本殿まで540mです。

西塔門です。



西塔門の破風はマカラから誕生するナーガに縁どられたマハーバーラタの戦闘場面です。

ピラスターに彫られたデバターは彫が浅く風化がかなり進んでいます。



西塔門の南側に祀られている4mのヴィシュヌ神です。現在は土着神として、参拝る人が絶えないようです。

西塔門の女神たちです。アンコール・ワットのデヴァターは、他の寺院と異なり壁龕に立っていません。壁面全体を削り浮彫にしています。また、アンコール・ワットのデヴァターは薄絹のスタートを纏っているため脚線がはっきりしています。





有名な西塔門内側の歯を見せて笑うデヴァターです。





欄干のナーガの背面に彫られた模様です。

参道を進みます。





北側の経蔵です。



聖池に浮かぶ祠堂です。





聖池の横の木陰で休憩です。お巡りさんも木陰で休息中です。

観光客が捨てたヤシの実から、果肉を一生懸命にとるお猿さんです。



北口から第一回廊へ入っていきます。






王宮、そしてライ王のテラスへ

2015年07月26日 | カンボジア
南北300m、東西600mの周壁に囲まれた王宮跡の中心に「天上の宮殿」ピミアナカスがあります。
10世紀末にジャヤヴァルマン5世(第10代国王、在位969年~1000年頃)によって建立が開始され、11世紀のスールヤヴァルマン1世(第13代国王、在位1015年~1050年)によって現在の形になりました。
東向きのヒンドゥー神殿で底辺部の幅28m、奥行き35m、3層構造で最上段には回廊を巡らせ、中心に1基の祠堂が据えられています。
メール山(須弥山)を宮廷内に据え、王の儀式が執り行われました。
周達観の「真臘風土記」には、「ピミアナカスの塔の中には、カンボジアの主で9つ頭の大蛇の精が宿っており、王は毎晩、女性に化身した精と寝して交わらなければならなかった。一晩でも怠ると災いが起こる。」という伝説が記されています。
国王は、精力絶倫でなければ務まらなかったようです。
三島由紀夫は真臘風土記のこの一文をもとに戯曲「癩王のテラス」を書きました。

王宮の東塔門から入ります。

まぐさ石です。


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東塔門を真っ直ぐに進むと「ピミアナカス」に至ります。王宮はピミアナカスの西に建っていたようですが、1431年のアユタヤ軍の猛攻でアンコールは陥落し、徹底的に破壊されました。宝物も人もアユタヤへ持ち帰られました。
ピミアナカスの他には崩れた石材が散乱するだけです。



地上から眺めると、急な階段が天空へ延びているようです。

最上層の回廊です。

最上層の祠堂です。王は毎晩ここへ登ってきました。
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ピミアナカスの北に大小二つの沐浴場があります。男池、女池と呼ばれ、大きな男池の淵の石組には上段に男女の神像、水淵になる下段には魚やワニが彫られています。




















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王宮壁近くで発掘作業をしています。



発掘の責任者です。
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再び象のテラスへ戻って来ました。象のテラス北端は二重壁となっています。



5つ頭の馬です。



蓮華の上で踊るアプサラたちです。
















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象のテラスからライ王のテラスを見ます。テラスは高さ約6m、一辺25mで古い壁面を覆い隠すように新しい壁面が造られていましたが、1996年にフランス極東学院の修復で新旧の壁の間を通路となるよう工夫して修復されています。



テラスの上に祀られているライ王像です。オリジナルはプノンペンの国立博物館に安置されています。









内面の彫像です。




















象のテラス

2015年07月25日 | カンボジア
バイヨンの北門から出て、次に象のテラスを通り王宮跡へ向かいます。
象のテラスは王宮前を飾る高さ4m、長さ300mのテラスで、南北両端と中央部に凸型で広くなっています。中央テラスにはガルーダ、南北に延びるテラスの壁面には象がびっしりと彫り込まれています。
アンコールを占拠していたチャンパ軍から1181年に王都を奪還したジャヤヴァルマン7世はアンコール・トムの建造に着手します。
王はチャンパに進軍、チャンパを占領し勢力をインドシナ半島全土に広げます。
象のテラスは、度重なる出征の閲兵や凱旋軍が真東にある「勝利の門」から進んで来るのを迎える場所であったと言われていますが、真の目的は不明です。

バイヨンの北に大仏があり、参拝に地元の人もたくさん来ています。



王宮の南にウダヤディティヴァルマン2世(在位:1050年~」1066年)が建立した「パブオン」があります。楼門のデヴァターです。



彫が深くて豊満な乳房に表現されています。宝冠やスカートの腰位置、着付けがバイヨンのデヴァターと異なるのがよく分かります。時代が下がるにつれ、スカートの留め位置も下がってきます。


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象のテラスまで来ました。



象のテラスの東に12基の「プラサート・スール・プラット」が建っています。「綱渡りの踊り子の塔」と呼ばれ、正月に塔の間に綱を渡し、その上で踊り子に綱渡りをさせたそうです。
真臘風土記には裁判に利用されたと書かれているそうです。



半分土に埋まった屋根飾りには、仏陀像が残っています。バイヨンの屋根飾りの仏陀像は全て削り取られていました。

テラスから下りて、壁面の象の彫刻を見ます。







シンガポールから観光に来ているそうです。壁面の高さが分かるように記念撮影をお願いしました。



小象もいます。







この象はライオンと戦っています。











中央テラスの周りは、テラスを持ち上げるガルーダ像です。





天敵ナーガを踏みつけています。





顔はシンハです。ライオンとガルーダが一体化した「ガジャシンハ」です。



王宮の塔門です。