の~んびり タイランド 2

タイの風景、行事や趣味の陶磁器を写真を中心に気ままに紹介しています。

カオ・プラ・ヴィーハン

2014年09月16日 | シーサケット

ウボン・ラーチャターニーの夜明けです。
早朝に「ワット・トゥン・シー・ムアン」のロウソク山車作りを見てから125km離れたタイとカンボジアの国境線上にある「カオ・プラ・ヴィハーン遺跡」(カンボジア名「プレア・ビヒア」)へ行きます。

「カオ・プラ・ヴィハーン遺跡」はタイとカンボジアを隔てるダンレック山脈の、海抜657m、高さ447mの断崖上に建ち、11世紀から12世紀に渡り増改築を繰り返されたクメール遺跡です。



山頂付近は「カオ・プラ・ヴィハーン国立公園」になっています。タイ側の断崖は「パー・モー・イ・デーン」と呼ばれています。

「パー・モー・イ・デーン」の断崖です。この断崖の延長線上に「カオ・プラ・ヴィハーン遺跡」があり、第二次世界大戦中からタイが占有していましたが、領有を主張するカンボジアとの間で国境紛争を繰り返していました。
1962年に国際司法裁判所はカンボジアの領有を認めました。タイは国境画定時のカンボジアの宗主国フランスとの条約でダンレック山脈の分水嶺を国境と定め、かつ実効支配下にあって楽観視をしていたようです。
タイは判決を拒否するるも、カオ・プラ・ヴィハーンから撤退します。

断崖の上から見るカンボジアの平原です。

断崖を下りる階段が設けられています。

階段の先の岩壁に3体の神像が彫られています。中央が男性で左右は女性になっています。

その横には中国人の落書きです。

「パー・モー・イ・デーン」から見る「カオ・プラ・ヴィハーン遺跡」です。

タイ軍の塹壕です。

「カオ・プラ・ヴィハーン」へ通じる道路です。

道路が終わり岩盤の上をしばらく進むと小川が流れています。
小川に架かった橋の上に門があり国境となっています。
2008年7月にカンボジアが単独で申請したユネスコ世界遺産に登録されます。前後してカンボジアは周辺の守備軍を増強、10月には交戦に入り、死傷者がでます。またカンボジアから発射された多数のロケット弾はタイ側の麓の学校や寺院、民家に着弾します。
以来、国境は閉じられたままです。
断崖に建つ「カオ・プラ・ヴィーハン遺跡」へ通じる道はここしかありません。タイからしか訪れることができないカンボジアの遺跡です。
カンボジアは自国から行ける道路を急遽造ったようです。



「カオ・プラ・ヴィハーン」(カンボジア名「プレア・ビヒア」)の入り口です。パスポート、ビザは不要で入国料50バーツを支払うだけです。
1992年にパリ和平協定でカンボジア内戦が終結、遺跡が一般公開されますが、翌年にはポル・ポト派が遺跡を占拠します。
1998年、ポル・ポト派の投降によって遺跡を公開。2001年、カンボジアからの不法入国が絶えず、対抗処置としてタイ側が3カ月間ゲートを封鎖。2005年にも封鎖、解除が繰り返されて後、2008年の世界遺産登録に対するタイの反対運動以降に両国がゲートを閉ざしたままです。

山道です。崩れた急な階段を登って行きます。
階段は幅8m、75.5mで62段あります。ここから主祠堂までは約800m、高低差で120mほどを進みます。

参道入り口の獅子像です。





第一楼門です。カンボジアの国旗が翻ります。





第一楼門から振り返りナーガのテラス(又は橋)を望みます。ナーガは真北の方角を見ています。
幅7m、長さ31.8mのテラスです。









参道脇にはポル・ポト派の地雷が埋められたままです。
何年もかかって日本のNGOが地雷を撤去しましたが、2008年にカンボジアはタイとの国境紛争で新たに地雷を埋設したようです。
かってはこの近くに墜落した軍用ヘリコプターが横たわっていたのですが、撤去されています。

第一楼門と第二楼門を結ぶ参道が一番長く、幅11m、長さ275mで山の勾配に沿った緩やかな登り道となっています。
左右の石柱は2.15m間隔で立っていました。

第二楼門手前にあるバライです。

バライの前に建つ獅子像です。もとはたくさん並んでいたそうですが、ほとんどが盗難にあったようです。



第二楼門です。



振り返って見る第一楼門です。





入口の向うに見える破風に角穴が彫ってあります。木製の梁が通してあった跡です。屋根は瓦で葺かれていたようです。材木は朽ちて石造部分が残るだけです。



破風の大蛇と闘うクリシュナ神です。



破風の彫刻は乳海撹拌です。

その下のまぐさ石は、大蛇アナンタの上に横たわるヴィシュヌ神です。

振り返って見た第二楼門です。





第三楼門へ進みます。

第三楼門です。



クリシュナ神です。





シヴァ神とウマーです。

第三楼門の南側破風に彫られた、ナンディンに乗るシヴァ神とウマーです。

第四楼門です。


第四楼門は入口付近の崩壊が激しく、通過できません。左の絶壁側へ迂回をします。

内戦時代に、この地に立てこもったポル・ポト派の中国製大砲です。以前の砲身はカンボジアの平原を向いて砲弾も置いていましたが、現在はタイ側を向いています。



タイ領です。



カンボジア軍の塹壕です。駐屯しています。







少女は第一楼門を過ぎたところで土産物を売っていた少女です。買うのを断るといつまでも一緒に歩いてきます。
下山の時にチップをあげようと思っていたのに、途中で姉に食事だと呼ばれて消えてしまいました。

崩れて地中に埋まってしまった破風です。

主祠堂です。

主祠堂の内部です。



主祠堂を囲む回廊です。



回廊内部です。保存状態は良好です。

祠堂の先は約547mの断崖となってカンボジアの平原を一望できます。















内戦時の弾痕がたくさん残っています。2008年の銃撃戦でも新たな弾痕が出来たことでしょう。

窪みの奥には弾丸がめり込んでいます。
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「カオ・プラ・ヴィーハン」へ行く山道の手前を南へ数キロのところにある「プラサート・ドゥ・トラーン」です。
砂岩の柱に1002年建立を示す碑文が残っています。


■訪問したのは2006年7月9日。アーサーンハ・ブチャーの前日で、シー・サケット、ウボン・ラーチャターニーと泊まった第3日目になります。