の~んびり タイランド 2

タイの風景、行事や趣味の陶磁器を写真を中心に気ままに紹介しています。

ムアン バン クラン

2022年12月31日 | スコータイ

スコータイ都城とシーサチャナライ副都城を結ぶ古道に中継地としてムアン バン クランがあります。南北をヨム川の支流、ラム ナム ファ クラダンと西側をヤング運河に挟まれ、幅25~30mの土塁が築かれた、一番長い東側城壁は1,165m、北側城壁625m、西側城壁600m、そして南側城壁300mの不等辺四角形の都市遺跡です。周辺には23ヶ所の遺構が残っていますが、殆どが城外で一番重要な寺院遺跡、ワット ヤイ チャイ モンコンは北城壁の北200mにあります。またワットボートは南城壁の南700mに位置します。ちなみに、2寺院は2.8km離れています。

日本人観光客が訪れるスコータイ遺跡、主要な遺跡を全て回ろうとすれば2、3日は必要です。北へ50km離れたシーサチャナライ遺跡でも最低2日は要するでしょう。両遺跡の中間地点にあるとは言え、ムアン バーン クラン遺跡を訪れる人は、まずいないと思います。



まず訪れたのはワット ヤイ チャイ モンコンです。9年ぶりの訪問となりますが、その時は基壇だけが残る寺院遺跡でした。
前日の日暮れに訪れたときは中央に仏塔が建っており、別寺院と思っていました(他にはこんな大きな遺跡はないはずですが)。

東北を向いた寺院で14世紀から15世紀に建立されています。礼拝堂は16世紀から17世紀のアユタヤ王朝時代に建築されたようです。中央のスコータイ様式の蓮の蕾型の仏塔は2013年の最後の訪問以降に再建されています。







次ぎに訪れたのがワットボートです。
東向きの寺院で、東と西に門にある26m四方の外周壁の中に、14m四方のモンドップ(仏堂)が建っています。
もとはクメール神殿が建っていたと言われていますが、14世紀から15世紀に仏教寺院として建立され、その後15世紀から16世紀に改築されています。
モンドップ内にはラテライトの大仏座像の膝が残るだけで、その前には新しいクメール様式のナーガに守られ瞑想する仏陀像が安置されています。また、南西北の壁龕には仏陀立像の基礎部が残るだけです。
外周壁、モンドップともに漆喰で仕上げられていましたが、モンドップの東南角に一部残るだけで、往時を偲びます。








東南角に漆喰が残っています。


南壁面です。




西門外から見ます。




北壁面です。


モンドップの真東に矩形の貯水池があります。クメール統治時代のバライでしょうか。池の周りには創建時の竈跡が数カ所残っています。
かって訪れたときは、池の横に僧坊があり、竈は寺院から出たゴミの焼却場になっていました。池もガマが茂り、ただの湿地だと思っていました。
現在は整備されて広大な寺院敷地となっていますが、9年前は遺跡以外は雑草と木々が茂り足の踏み入れようがない荒廃した場所でした。





池に東には15世紀から16世紀の補修時に建てられ礼拝堂基壇と仏塔があります。礼拝堂基壇の上には新たな布薩堂が建てられていますが、かなり老朽化しています。





新しい礼拝堂を建設中です。完成間近で堂内には立派な壁画が描かれています。






背面の仏陀立像です。


正面(東面)の入り口です。




入り口上の壁画です。



ワット ボートから西に2kmの山中にワット カオ ドゥア遺跡があります。未だ行ったことがなくグーグル マップに投稿された写真を借用しました。









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ムアン バン クランで発掘されたお宝です。6点の青銅製耳飾りです。精緻な模様が施されていますが、製作年代などの詳細は不明です。右下の1点は緑青が発生しておらず、金が含有されているのかと思います。



パー クム コーのサトウキビ畑でお宝探し

2022年12月28日 | スコータイ

シーサチャナライ旧都城の南3kmにサラチットがあり、農地からスコータイ王朝時代(13世紀~15世紀)の遺物が出土することはよく知られています。
今回はさらに5km南でヨム川沿い、サワンカロークのバン パー クム コーのサトウキビ畑を訪れました。
水田が多い地域ですが、スコータイ王朝時代の集落は洪水を避けるために丘陵地にあったようで、現在は水利が悪くサトウキビ畑となっています。
サトウキビ収穫後にトラクターで鋤入れされた畑でお宝探しです。







休んでいる人の金属探知機を借りてお宝を探してみます。
赤土と黒い土があり、黒い土の上を探せと教えてくれます。黒い土はスコータイ王朝時代以降に堆積した土のようです。
結構、金属反応をしますがお宝にはたどり着けません。ちなみに、金属探知機は3万バーツほどするそうです。



近くの人がリングを掘り当てました。青銅製で価値の有る物ではありませんが、皆さん気になるらしく集まってきます。





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掘り返された畝を少し歩くだけでたくさんの陶片が見つかります。スコータイ王朝時代に生産が始まった陶器の破片や中国から持ち込まれた磁器片です。
ただ、残念なことは耕作によるロータリーの爪で何度も叩かれ粉々になっていることです。特に磁器は薄いため小さく砕かれています。

日本なら鎌倉、室町時代の遺構跡で丁寧な発掘調査がされるのでしょう。









5、6m歩くだけで、地表に出ている大きな陶片がこれだけ集まりました。日常生活に使われたすり鉢の陶片が多いようです。小さな破片は至るところにありますが集めていません。
土の下にはまだたくさん埋まってそうです。



発掘人の1人が小さな象(全長 7.3cm、全高 5.5cm)をここで見つけたと持ってきました。彼はこの近くで金製指輪を3点も見つけたそうで、スマホの写真を見せてくれました。指輪の細工からアユタヤ王朝時代のものだと思われます。彼は3点を10万バーツで売りたいようだが、未だ買い手が見つからないそうです。

象の肖形は顔見知りとなった記念に彼の言い値の2/3で入手することにしました。小生の電話番号をしつこく聞いてきますが、お宝が出るたびに連絡されても困るので、何かあったら友人に連絡するように収めました。



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地表に出ていた陶片を持ち帰り、洗ってみました。
窯業開始初期の青磁鉄絵から青磁、鉄絵、白釉と全ての期間を通した陶片があります。
無釉のすり鉢の破片や壷の破片もたくさんありましたが、日常生活に使用した陶片で、身分の高い人の住居跡だったと思われます。





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技法毎に分類した写真です。





















それぞれの陶片の破断面を撮してみました。どれも新しい破断面で、完品であればと惜しまれる陶片ばかりです。



象肖形です。尻尾に小さな打ち傷がありますが、耕作で上手に掘り起こされたようです。





ここから25km南にスコータイ都城とシーサチャナライ副都城の中継地、ムアン バーン クラン遺跡があります。昨日は暗くなってから訪れたので午前中に再訪することにします。

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翌朝友人宅を訪れると、バン パー クム コーの発掘人が3個所有していた金製指輪の一番出来が良い1点が彼の元に移動していました。
また、数日後に友人経由で発掘人から送られてきた写真です。





スコータイからペチャブーンへ(1)

2022年12月24日 | スコータイ

12月にはいり、テレビでは気温が下がり雲海が立ち込め、観光客で溢れる北部山岳地帯のニュースが連日放送されています。

12月5日(月曜日)のラマ9世生誕日の祝日を利用して、スコータイ、ウタラデットからピサヌローク経由の国道12号線でペッチャブーンを5泊6日で回ってきました。走行距離は1700kmでした。

出発は9月3日(土曜日)の午前6時でしたが、アントーン手前のアユタヤで新しい道路標識を見かけました。文字が小さく読めませんでしたが、国道32号線から3kmにあり、取りあえず寄り道することにしました。
「独立広場109記念公園」です。ビルマから独立を果たしたナレースワン大王の大きな像が建っています。
公園は建設中で他に人はいません。
巨大像の横には売店と礼拝所があり、裏に建設中の建物が何棟か有ります。









国道32号線の入り口近くには、ルワン プー トゥァド師を祀るマハラート仏公園があり、池の周りの参道に市場が並んでます。駐車場も広く寄ってみました。

参道に沿った市場は歴史を感じる大木で覆われ、木陰を気持ち良く歩けます。市場の価格も良心的です。













どれでも1個10バーツの駄菓子屋です。



こっちも1個10バーツの鯛焼きです。餡とクリームを買いましたが、カステラ状の皮ばっかりでした。10バーツと言うことで納得しました。



お土産用にイチゴワインと桑の実ワインを購入。コラートで製造されています。



まだ午前10時ですが、クイッティアオ、20バーツの看板につられて着席です。バミーナム(汁あり中華麺)の二玉を注文しました。





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夕方の5時20分に前回訪れることが出来なかった、スコータイ都城とシーサチャナライ都城の中間にあるムアン バーン クラーンに寄ります。
陽は未だ西空に残っているが、木々に日差しは遮られ写真撮影には不適です。翌日に再訪することにします。
暗くなったワット ボートとワット ヤイ チャイモンコンをアップしておきます。
かって訪れたワット ヤイ チュモンコンは仏塔の基壇だけの遺跡でしたが、中央にスコータイ様式の蓮の蕾型の仏塔が再建されていました。

過去の訪問記事「スコータイの2日目・シー サチャナライ(2)





陽も沈み、すっかり暗くなった午後5時50分にワット ヤイ チャイモンコンをスタート、晩飯を食べに来いといういう友人宅へ向かいます。約30kmですが、暗くなって灯りのない田舎道でグーグルナビを使ったのが大間違い、対向車と行き交うのもやっとな集落内の道路ばかり指示されて、1時間近くを要して到着です。

シーサチャナライ古窯 1

2022年09月24日 | スコータイ
シーサチャナライ都城内のカオ・サワン・キーリ山から西に連なり、横断する国道1201号線から山頂まで4つの寺院遺跡があるカオ・ヤイ山の西にスコータイ都城を結ぶ古道が通るサラチットと呼ばれる地区があります。一帯はスコータイ時代の集落跡だと考えられていますが、現在はサトウキビ畑で草木の茂った古道がある以外の遺構はありません。古道も表示がなければただの木が茂る荒れ地です。





このサトウキビ畑の耕作にトラクターが使われるようになり、かっての牛馬による耕作より深く土が掘り起こされて、地中に長年眠っていた遺物が地表に出るようになりました。
また、金属探知が一般に出回るようになり、容易に地中に眠る遺物を探索できるようにもなりました。

そんな背景でサラチットでは古銭や青銅器、陶磁器の出土も相次いでいます。ただ陶器の優品は王宮や貴族、寺院に納められており、庶民の暮らした集落跡からはたいした品は出土しないようです。
庶民の生活と関係が深かった、首の折られた陶人形や動物の陶像、小壷や合子等の小物の出土は多いようです。
陶人形は病気平癒や乳児の無病息災を祈った身代わり人形として集落出入り口の三叉路から大量に出土します。(一部に明器=副葬品との記述を見かけますが、私の知る限りでは墳墓遺跡から出土したことはありません)
ドヴァラヴァティー時代の環濠遺跡からも首の折られたテラコッタ人形が出土しており、モン族から伝わった風習でしょうか....
日本の郷里でも昭和の頃は、はしか等が治癒したときに村はずれの三叉路に人形に切った半紙を細竹に挿し桟俵に立て、赤飯のおにぎり、お茶等を供えた風習とよく似ています。






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サラチット出土の陶片です。
一点目は鉄絵鯰紋盤で、爪付きハマを用いて重ね焼きをした爪痕が見込みに残っています。
二点目も魚文盤ですが、立ち上がりが鳥文になっています。破損状態で土中にあったようで、これ以外の破片は見つかっていません。
三点目は青磁騎象形燭台でしょうか、象の背に置かれた座部とその後ろにいる二人の兵士(一人は逸失)の陶片です。
このような、騎象の背中には皿状の燭台が置かれて灯火器として造られたようですが、出征する家族の無事帰還を祈願して、騎象する人物の首を折り庭の木の下に埋められることもあったようです。


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サラチット出土の鉄絵青磁長頸瓶です。
鉄絵で口部に四本、頸中間に三本、頸付根に二本、胴上部に二本、肩部に三本、下部に五本の線を引き、その間に蕨文を入れていますが、釉薬の青磁釉とともに流れて不鮮明になっています。
発掘は鍬や鋤でガンガンやりますから、頸部に鍬の当り傷が出来ています。










過去にサラチットで出土した陶器です。
以前に投稿した白釉褐彩刻花花鳥唐草文水注(ケンディ)全長18.0cm、胴径14.4cm、高さ14.0cmです。
その下の青銅製石灰入れ(高さ10.6cm、胴径3.8cm、底径3.5cm)に金属探知機が反応して無事地上にでてきました。








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鉄絵灯火器(ガー・タキアン)、全長16.4cm、胴径14.0cm、高さ8.0cmです。
頂部に装飾としての摘まみがありますが蓋はなく、口が付いています。耳が三つあり、吊して用いるようになっています。
水差し(ガー・サン)と表示された資料もあります。
口の一部が欠けて補修をしていますが、タイの補修技術も低下したのか補修部の肉厚が不均一で痕跡がよく分ります。







リタイ王公園

2016年02月11日 | スコータイ
宿泊はサラチットの「サクトーン・リゾート」です。一泊400バーツで、朝食はトーストとコーヒーのサービス付きです。

宿泊施設の奥は、広いマンゴー畑です。

友人宅へ朝食に向かう途中でリタイ王公園に寄ります。
後ろの山は歴史公園から連なる「カオ・ヤイ」です。麓から山頂まで、いくつもの寺院遺跡が連なっています。
【2013年9月24日上梓のシー・サチャナライ西側遺跡 (1)を参照してください。】



シー・サチャナライを治めていた若きリタイ王です。
吉川利治先生の論文「スコータイに対するクメールの影響」でマンゴー林寺院(ワット・パー・マムワン)出土のリタイ王の事績が刻まれた5基の石碑から、リタイ王は1347年、シー・サチャナライから兵を率いてスコータイの城門を破り入城、父の代わって即位します。2年後の1349年にマンゴー林のマハー・カセート神殿にシヴァ神像とヴィシュヌ神像を奉納、バラモン僧が供養します。
1361年スリランカから大僧正を招き出家、退位しました。
王位に就いて22年が経っていたといわれていますから、14年間がスコータイ王、その前の8年間、1339年からシー・サチャナライの王位にあったことになります。

マンゴー林石碑は1361年の製作で、スコータイ文字、タイ語碑文が2基、クメール文字、クメール語が1基、クメール文字、パーリー語が1基、そしてクメール文字、タイ語が1基となっており、14世紀中頃のスコータイ王朝の公用語、公用文字はクメール語、クメール文字だったとしています。

石碑はリタイ王の退位の年に刻まれた王の事績を讃える碑文ですが、ここで分かるのはリタイ王のスコータイ王としての異常な即位です。スコータイ城内に異変が起き、軍を率いて城門を破って入城していますから、決して平和裏の王位禅譲ではなかった事が窺えます。また当時の王家ではヒンドゥー教が信奉されていたようで、仏教寺院が盛んに建立されるのは14世紀後半になってからとされています。

午前8時45分、友人宅で朝食です。
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食後、出発まで骨董品を鑑賞します。
石灰の詰まったモン陶の黒釉小壺です。

同じくモン陶の黒釉小皿です。

褐釉線刻瓶は珍品です。青磁瓶は多いですが、褐釉は初めて見ました。

タオ・ヤックの陶片です。鳥(ガルーダ?)の足です。

同じくタオ・ヤック出土の陶片です。

光背のある降魔印の仏陀です。

銀板に型押しされた仏陀立像です。

青銅製の奉納仏です。

午前10時30分、シー・サチャナライを出発です。