の~んびり タイランド 2

タイの風景、行事や趣味の陶磁器を写真を中心に気ままに紹介しています。

タイ・プアン族の出家を見にハー・シオ村へ行く (3)

2014年04月30日 | スコータイ
■「プラ・ペニー・ヘー・チャーン・ブアット・ナーク・タイ・プアン・バン・ハー・シオ」(伝統的なハー・シオ村のタイ・プアン族の踊りながら象に乗って行なう出家儀式)という看板が上がっています。シー・サチャナラーイのハー・シオゥ区域には、1844年頃にラオス北部から移住してきた「プアン族」が現在7200名ほど居住しています。
出家する少年の衣装は、写真で見るビルマやメーホンソーンのタイ・ユアン族と非常に似ています。

昼間の気温は摂氏40度前後、明け方でも32、3度という季節です。友人が自宅に泊まれと言うのを丁重に断って、スコータイ王朝時代の住居跡でサトウキビ畑から当時の遺物がたくさん出土する「サラチット」の「サックトーン・リゾート」に泊まりました。朝食はトースト、コーヒーで一泊400バーツです。ちなみに、友人の家にはクーラー、温水シャワーがありません。

「サックトーン・リゾート」から友人宅へ朝食に行く道すがら、朝陽に映る遺跡を見ていきます。各遺跡の説明は過去にしていますので省略して、朝陽の遺跡写真を掲載します。
クメール人から建築技術を学んだスコータイの寺院は東向きが基本で、朝陽が差し込む朝の写真は映えます。(過去に掲載した写真は午後以降に撮影したものが多かったです。)

宿泊した「サックトーン・リゾート」です。

■午前8時10分、まず最初に訪れたのが「ワット・チェディ・カオ・ヨッド」です。
遺跡公園から連なる「カオ・ヤイ」の中腹あたりに建っています。ただ、国道1201号線が「カオ・ヤイ」を越えて「ワット・カオ・ヨッド」の前を通っていますから訪れるのは楽です。











寺院跡の前を走る国道です。
大型車も通行するようですが、車両通行時の振動が石積みの遺跡に及ぼす影響が心配です。

■そのまま山を登って「ワット・チェディ・エーン」になります。
さらに登って行くと「ワット・カオ・ヤイ・1」「ワット・カオ・ヤイ・2」と続きますが、今回は行くのを見合わせておきます。





チェディ(仏塔)は四重基壇の上に聳えています。





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■「ワット・フア・コーン」です。

礼拝堂横のマンゴーの巨木に実がたくさんぶら下がっています。









「カヌン」(ジャックフルーツ)も実をつけていますが、まだまだ小さいようです。

寺院の除草していた人たちです。
彼女が突き出している造花は、ソンクラーンにこの一帯で行われる習慣でしょうか、各家の門脇の木に飾り付けられています。

除草の一団は「ワット・チェディ・ヨッド」にいるとき走り過ぎたのですが、すでに「ワット・フア・コーン」も草刈を終えたようです。
6カ月間雨は降っていませんから、枯草ばかりで草も成長しないのですが、実に手際のよい作業です。

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■「ワット・チェディ・ヨッド」と「ワット・フア・コーン」の中間にある寺院遺跡です。
「遺跡番号・6」の表示板が立っています。




チェディの基壇部ですが、掘った跡があります。

寺院の柱は将棋倒し状態です。

700年前の骨壺の破片です。

壺の底に当たりますが、非常に珍しい形をしています。
サンカロークで焼かれた壺は底から立ち上がるのが一般的で、多少膨らませたものもありますが、この陶片は鍔状に大きく張り出しています。

貯水池のある寺院です。

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■「ワット・サ・カーイ・ナム」、仏堂が特徴的な寺院です。










食用にもなる「ドク・ケー・パ」の花です。
先日もガソリンスタンドで落ちている花をたくさん集めている夫人を見かけました。

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■「ワット・ヤフー」です。ここで午前9時20分になりました。










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■「遺跡番号・3」です。前回訪れた時には表示板はなく、説明も寺院名を失念、としておきましたが、元々番号しか与えられていない遺跡でした。








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■「遺跡番号・4」です。
外周を28mX54mのラテライトの壁が取り囲み、その周りを堀で囲んだ跡が残っています。



礼拝堂は重層基壇の上にあって煉瓦積みの跡が残っています。このことから現在の礼拝堂は、建立後の間もない時期に改築されたものだと推定されています。



チェディは礼拝堂と同じ基壇の上に建つ珍しい構造です。8m四方のチェディの基壇に煉瓦積みの形状がはっきりしないチェディがたっていました。

後方にも小さなチェディがあります。

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■遺跡番号・5」です。


礼拝堂は10mX30mで前後に柱廊玄関を備えています。

13m四方の四層基壇から推定して蓮の蕾形の尖塔が建っていたと考えられています。

将棋倒しの柱です。全て同じ方向に倒壊しています。

友人宅へ到着したのが午前9時40分、到着があまり遅いので、病気になって倒れているのではないかと心配して、リゾートの部屋まで覗きに行ってくれたようです。
遅い朝食を食べ、ハー・シオまで出家儀式を見に出かけます。

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■食後近所の人が古い陶片を持ち込んできました。出発前に見て行きます。
「サンカンペーン窯」の陶片です。サンカンペーンで高台に陰刻されているのを初めて見ました。
文様上部の付着物は、文様の型取りをした粘土の残滓です。
サンカロークの鉄絵です。

メーホンソーンで掘り出された青銅コイルです。手前のコイルの内側には極細の鉄線の束がはいっています。
混じっている陶片はカロンです。

■次回からタイトル通りの出家の行列を紹介です。

タイ・プアン族の出家を見にハー・シオ村へ行く (2)

2014年04月29日 | ピチット
■明日、タイ・プアン族の出家儀式がシー・サチャナライのハー・シオ区域(T.Hat・Siao)で行われます。出家に関わる行事は本日も行われているようですが、取敢えず本日中にシー・サチャナライに到着する予定です。
ナコーン・サワンからシー・サチャナライまでは200km足らずです。
朝をゆっくり寛いで、午前9時23分にスタートしました。

「マイ・ホム・リゾート・ホテル」の玄関です。

国道117号線を北上します。市街を過ぎると道沿いに「フャラン」(グァバ)を売る店が並びます。

シー・サチャナライでは友人宅で食事の世話になる予定なので、手土産に購入します。1個50円ぐらいです。

■ピチィットで117号線から外れて国道1070号線、国道1068号線、国道1300号線で「ワット・ポー・プラタップ・チャーン」に寄ることにしました。ナコーン・サワンから87kmです。

「ワット・ポー・プラタップ・チャーン」は古いナーン川の川岸にあり、アユタヤ年代記の王室日誌編に後期アユタヤ王朝時代の1699年から1701年に、この地で生誕した第32代国王スア王の治世に建立されたと記載されています。(※スア王の在位は1703年から1709年となっており、説明書きの建築時期と統治時代にずれがあります。)
寺院は西向きで、本堂を中心に仏塔、サラ(東屋)等の遺構があり、その周りを横行き57m、奥行き100mの塀に囲まれています。塀には四方に門を配して、塀の南に仏殿、仏塔、塀の北側にも煉瓦の基礎部が残っています。
これらの伽藍を仏教区域として堀で囲んでいます。堀の南北をサンガ(僧伽)区域とし南側には庫裡跡、北側にはやはり塀に囲まれた大きな東屋跡の柱が残っています。

寺院の解説にはナーン川と記載されています。かってはナーン川の本流だったのでしょう。現在のナーン川は位置を変えています。



西向き寺院です。本堂の壁が陰になっています。
手前の木は「トン・タキアン」という樹齢200年以上の鉄木(Malabar Ironwood)です。幹は大人7名が手を繋いで取り囲んだ太さがあります。



本堂の内側です。「ルアン・ポー・トー」と呼ばれる本尊に、朝から参拝の人が絶えません。


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■往路に訪れたのが午前10時50分、西向き寺院の正面が陰になっていましたから、帰路にもう一度寄りました。午後3時15分です。本堂正面に日が差し、陰影がはっきりしています。
正面写真は帰路に撮影したものを掲載します。
















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本堂の背面です。

側面から見ます。七つの窓があり、周りに漆喰の花飾りがされています。

左端はクメール風仏塔です。



塀の外へ出てきました。



右が仏殿跡です。

仏殿の内側です。仏像の台座だけ残っています。

仏殿内側から本堂を望みます。

堀を越えて南側へ来ました。庫裡跡です。

西門を内側から見ます。四方門のうち西門が一番大きく仕上の漆喰に蓮の花をあしらった模様が残っています。

堀の北側のサンガ区域です。解説では「9間の東屋」で集会所となっています。

空堀を越えました。振り返って本堂を見ます。



散乱している屋根瓦です。

ナーン川沿いにスア王を祀るお堂があります。

人を殺すのが好きな王様だったようで、スア(虎の意味)王とあだ名されています。



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「ワット・ポー・プラタップ・チャーン」を後にし国道113号線から国道115号線に出て、国道117号線に戻ってピサヌロークを経由してシー・サチャナライへ向かうため、まず国道1300号線を東へ走行します。街路樹のラチャプルックの黄色い花が満開です。

国道113号線の道路沿いで「ソム・オー」と呼ばれるザボンが売られています。これも手土産に購入、5個で600円です。

1個はすぐに食べられるように実を取り出してもらいます。水分が多くて甘味があります。
スーパーで売っているのは酸味が強くて捨ててしまうこともありますが、美人が売っているのは美味しいです。



ピサヌロークのガソリンスタンドで給油、昼食を済ませ、午後3時15分にサワンカロークの市街へ入ってきました。ここでヨム川を渡り、西岸を北上します。
サワンカロークにも国立博物館があり、まだ行ったことがないので見ていく予定をしていましたが、改装工事中でした。今週末に開館するとのことでした。

午後3時40分に友人宅に到着、門の脇に植えられているマンゴーが豊作です。

午後4時半、少しは涼しくなったのを見計らい、旱魃で水の干上がったヨム川へお宝探しを見に出かけます。

ヨム川です。川向こうの黒い筋がシー・サチャナラーイ遺跡の都城壁です。

収穫があった様です。青銅のリングをかざしています。





本日の収穫です。釣りの重り、摩耗した古銭、青銅の塊です。探し求めている黄金の装身具はまだ見つかっていません。

今年は各地で水不足が発生しています。

かってのヨム川です。上流にダムが建設される以前の、川が往来の主要な手段だったころの写真でしょうか・・・。
しかし、雨季になれば川水は、土手の上の民家を襲います。

帰りにお宝探しをしている人の家の前で泥落としをしているたらいを覘きました。

本日の夕食です。
結局本日の走行距離276.2km、累計で575.4kmとなりました。

ロッブリー カオ・サモ・コーンに寄道する

2014年04月26日 | ロッブリー
■「ワット・ライ」から6km離れたところに「カオ・サモ・コーン」という石灰岩の小高い山が連なっています。
博物館で行き方を尋ねて出発したのはいいが、どうも道を間違えたのか、教え方が違っていたのか予想以上に走行しています。引き返すかどうか迷いながら走っていると案内表示にでくわしました。結局は倍以上の遠回りをしてたどり着くことが出来ました。

「カオ・サモ・コーン」は古い歴史を持つ土地で、王立協会刊行の地誌辞典にはこの地の伝説として、「カオ・サモ・コーン」山系にはヨノック・チェイン・セーンのノーン・セー王朝以来から隠者「スッカタンタ・ルーシ」の居所があり、若き日のラームカムヘーン大王、パヤオのガーン・ムアン王、ロッブリー王が学ぶために滞在していた。と記載されているようです。

「カオ・サモ・コン」には古い四つの寺院があります。ワット・ライからの道順に「ワット・バンダイ・サムセーン」、「ワット・ターム・タコー・プッタソッパ」、「ワット・ターム・チャーン・プーアク」そして山頂近くまで登って「ワット・カオ・サモ・コーン」となります。
まず最初に出会う「ワット・バンダイ・サムセーン」は外壁を新しいラテライト積み上げた寺院で、寺門から内側を眺めると参道が山に向かって伸びています。寺の名前を直訳すれば「30万の階段寺」ですが、実際には30万段もの階段はないにしても、相当登らなければならそうで参拝を断念しました。寺院の建立は古く、境内には鍾乳洞があって、その前に礼拝堂とアユタヤ様式の古い布薩堂が建っているそうです。

「カオ・サモ・コーン」山系の一つでしょうが、道を間違えているためなかなか近づくことができませんでした。

石灰岩の山の上にはお堂が建っています。

■まず立寄ったのが「ワット・ターム・チャーン・プーアク」です。
「ワット・ターム・チャーン・プーアク」の寺門です。山頂の岩の上にお堂が見えます。

麓の岩に鍾乳洞が見えます。



扉がしてあり入って行くことができません。扉の隙間から見た洞窟内です。

山の上へ車で行こうとしたのですが、木陰で休んでいた地元の人が、階段を上った方が早い、と言うので歩くことにしました。山頂から見た麓の風景です。真ん中に見える池は、13世紀に造られた貯水池で、あたりには堤防も築かれているようです。同様の遺構は「タレー・チュップ・ソン」という所にも築かれているようです。
近くに川があって山があるこの地形はモン族が好む聖地と一致します。貯水池や堤防を築いたのはモン族のようです。

山頂の仏陀にお参りをしました。

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■「ワット・カオ・サモ・コーン」四寺院で一番奥の山の上にあります。
「ワット・カオ・サモ・コーン」へ向う山道の途中から全体を見ます。

山頂で巨大なハヌマーンが「カオ・サム・コーン」の山を担ぎあげています。

左手の岩山の上の堂内に仏塔が安置されています。

鍾乳洞があって、洞内に寝仏が安置されています。
門には「ターム・プラ・ノーン」(寝仏の洞窟)と書かれています。

鍾乳洞の入り口から、かなり降りて行きます。

安置されている寝仏です。

鍾乳洞の外でも破損した古い仏像を見かけましたが、洞窟内にも砂岩の古い仏像が数体安置されています。

鍾乳石のくぼみに壊れた石仏が置かれています。





こちらには隠者の祠があります。

鍾乳洞の内部は幾本にも枝分けれしています。







地上へ上がってきました。こちらは礼拝堂です。

ガイドブックには「釣鐘状の仏塔があって、12の壁龕を備えて、蓮の花が支えている。」と書かれていますが、この仏塔のことでしょうか、他には仏塔が見当たりません。



仏塔の建っているテラスから先に参拝した「ワット・ターム・チャーン・プーアン」を眺望します。

同じくハヌマーンを見ます。

寺院のお祭りがあったようです。麓に山車が置かれていました。

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■午後2時20分、まだ時間があるので戻り道に「ワット・ターム・タコー・プッタソッパ」に寄ります。



「ワット・ターム・タコー・プッタソッパ」」の境内の裏山に「パトゥー・ムアン・サン・カット・サ・ナコーン」と書かれた門があります。山頂にはモンドップや仏塔が見えます。
本堂は1914年に建立されビルマ様式の壁画が描かれているそうです。

山頂の仏塔です。寺名の由来の鍾乳洞も山の上にあるようです。ただ、40度近い暑さで登るのは見合わせました。

寺内の案内を見ると博物館があるようなので見学していきます。

入ってすぐに民具が展示されています。
日本でもかっては使っていた石製の粉引です。

1階は陶磁器で、近世の中国製磁器がほとんどです。

ベンジャロンです。

二階は仏像中心の展示になっています。

クメール時代からアユタヤ王朝時代の仏像が安置されています。

磚仏が展示されています。展示棚に鍵がかかっていますが、ガラスが割れたままです。写真を撮るには反射がなくていいです。





前史時代の装身具、もしくは紡錘です。

陰刻された黒色土器で前史時代のものです。その隣は赤色土器です。この一帯で出土したようです。



仏像の展示です。仏像の首にぶれ下げられているのは、仏像の説明書きです。
床も埃だらけで裸足で歩くのを臆する状態で、放置状態でした。





博物館を出てくるとシルエットになって、ネン(小坊主)が剣を振り回しているように見えたのですが、よく見ると乗用車のサイドモールでした。聞くところによると猿がサイドモールを剥がして逃げ去ったとのことで、1本は取り返したが、もう1本はどこへ持ち去ったかわからないという話です。

石灰岩の山を背後に控える広い境内をサイドモールを探して歩き回りました。
犯人を見つけました、サイドモールを盗んで山へ向かう猿です。
見つけた時は「おサルの籠屋」のように二匹の猿がサイドモールの前後を担いでいたのですが、途中で一匹が逃げ去り、写真のように一匹の猿が担ぎ直して立去ろうとしていました。



サイドモールを剥ぎ取られた乗用車です。

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■午後3時に「ワット・ターム・タコー・プッタソッパ」を後にし本日の宿泊地、ナコーン・サワンへ向かいます。
午後5時「マイ・ホム・リゾート・ホテル」にチェックイン、朝食付き800バーツです。このホテルはいつも団体の宿泊客が多いようで、今回もたくさんの男子学生がたむろしていました。

午後6時10分、部屋から見る落日です。

タイ・プアン族の出家を見にハー・シオ村へ行く (1)

2014年04月25日 | ロッブリー
■4月13,14,15日はタイの正月、ソンクラーンでした。「ソンクラーン」は別名「水掛け祭り」とも呼ばれ、年間を通じて猛暑の時期になりタイ全土が水の掛け合いに熱狂します。
その1週間前の4月7日にシーサチャナライのハー・シオ区域でタイ・プアン族の出家儀式が行われたので見物に行ってきました。
4月5日の土曜日に出発、途中の寄り道を含めて紹介します。

午前8時30分スタート、アウターリングロードから国道32号線でアユタヤを経由してシンブリーに入り、国道311号線を右折、さらに国道3028号線を左折して進むと「ワット・ライ」という古刹があります。
ひまわり畑で有名なロッブリー県の西に位置し、ロッブリー市街からは北西23kmの所にあります。
この寺院の礼拝堂の壁面にはアユタヤ王朝時代の漆喰レリーフが残っています。

「ワット・ライ」の寺門です。

地図内の星印が「ワット・ライ」の所在地です。

バンヤンの木陰に駐車します。

寺院内に博物館が併設されています。

まず博物館の見学からして行くことにします。訪れる人が少ないようで、入口には夏休み中の少年が寝転がっていましたが、玄関まで行くとあわてて館内の照明や扇風機を点けに走り去りました。

玄関を入った所に掲げれれている古い寺院写真です。かっては寺院裏には運河が通っていてラーマⅤ世がバンコクから船で訪れているそうです。

入口を入った所にテーブルがあって休息できるようになっているのですが、その横にさりげなく置かれていました。
この博物館の建設を発願した僧侶と僧侶が保持していた遺物のようです。
最近は仏陀の教えに反して僧侶の金ぴかの大きな像が安置されているのによく出会います。なかには仏陀像を凌ぐ大きな僧侶像もあります。是非はともかく、このような謙虚な展示にホッとします。

展示室に進み右手には陶磁器、古裂等が展示されています。
こちらはバンコク王朝初期に中国から輸入された五彩磁器ベンジャロンです。

このベンジャロンは2階に展示されていました。

サンカローク陶器です。

アユタヤ王朝時代にアユタヤ近郊で焼かれた低温焼成土器類です。

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二階へ上がってきました。まず正面には仏陀です。
「五仏」で「Kakusandha」(拘留孫仏・くるそんぶつ)、「Konagamana」(倶那含牟尼仏・くなごんむにぶつ)、「Kassapa」(迦葉仏・かしょうぶつ)、「Gautama」(釈迦牟尼仏)、「Maitreya」(弥勒菩薩)と解説されています。

中央は釈迦牟尼仏です。

左右の四尊はいずれが解説の仏像か分かりませんが、アユタヤ時代の等身大の青銅仏です。頭部、胴部、脚部と三分割して鋳込まれています。





五仏の右手に配置されているクメール様式の仏像です。砂岩で造形され黒漆が塗られています。本来はその上に金箔が貼られていたのでしょう。





五仏の左に配置された仏像です。

ウートン様式の金銅仏です。
凛々しいお顔立ちの仏様です。

中央にはアユタヤ時代に焼かれた壺が展示されています。アユタヤ近郊で焼成されたと思われますが窯址は特定されていません。
現在同様の焼き物はバンコク近くのクレット島でモン族が生産しています。

手稿本です。



手稿本の解説です。

23体の仏陀が浮押しされた磚仏です。
保存状態の良くないドヴァーラヴァティー王国時代の磚仏からアユタヤ王朝時代のものが展示されています。

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入口には来館者にふるまわれる「ミアン」が置かれています。

コーヒーや嗜好品もありますが、今回は暑いので冷水を頂きました。
勿論博物館は入場無料ですし、解説がタイ語、英語でしっかりとされているのに感動しました。


この方が色々と説明をしてくださいました。

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■博物館の次に礼拝堂の漆喰レリーフを見に行きます。
「ワット・ライ」の建立は、建築様式、美術様式から後期アユタヤ王朝の第30代国王、ナーラーイ大王(在位:1656年~1688年)統治時代と推定されています。
ナーラーイ大王は侵略を繰り返すビルマを撃破、逆にビルマへ侵攻、ペグーを支配下に置きインド洋側のメルギー等の港湾都市を活用し貿易国家として発展させました。またギリシャ人「フォールコン」を大臣に徴用し西洋諸国と外交関係を構築、とくにフランスへは数次に亘る使節団を派遣し西洋の新しい技術導入を図っています。ただフランスはナーラーイ大王が望む対等な関係ではなく、軍隊を派遣し貿易拠点としてバンコク、メルギーの割譲を要求してきました。
フランス勢力の台頭でアユタヤの独立を危惧した「ペートラーチャー」がクーデターを敢行、フォールコンを処刑、バンコクに駐留するフランス軍を兵糧攻めで撤退させます。こうしてアユタヤ王朝の第5番目の新王家が誕生します。
ナーラーイ大王はアユタヤの北50kmのクメール帝国の要衝であったロッブリーに副都市を建設しました。「ワット・ライ」はロッブリーから北西23kmの所に位置しています。
また、第34代国王ボーロマコート王(在位:1733年~1758年)統治時代に大補修が行われています。この時代は「平和なアユタヤ」と称され、仏教が繁栄しています。
しかし、ボーロマコート王のあと2代の1767年にビルマの総攻撃によってアユタヤは灰燼に帰することとなり、400年間続いたアユタヤ王朝は幕を閉じます。

現在残っているアユタヤ王朝時代の遺跡はビルマ軍によって破壊されつくしていますが、「ワット・ライ」はビルマ軍の進軍経路から外れていたのでしょうか、当時の装飾が美しく残っています。

礼拝堂正面です。

正面壁面の漆喰レリーフです。

博物館内に掲示されていた古い写真です。像の顔部が残っているのが分かります。管理人の説明では現在の彫像で顔部がオリジナルのものは2,3点しかなく他は夜間に盗難にあったようで、補修された顔がほとんどのようです。
あきらかに石膏の色調が異なっています。

壁面上部です。中心は天界で雨安居の三か月を過ごした仏陀が、聖地サーンカーシャに帰ってくる「従三十三天降下」を表し、周りの十の枠内にはタイの寺院壁画に好んで描かれるという「10ジャータカ」が施されています。

※10ジャータカについてはこちらのサイトに詳しく載っています。
「http://www.buddha-images.com/10jatakas.asp」(Thai Buddha images:The 10 Jatakas(Past Lives of the Buddha)

上部には18の天部が覗き込んでいます。







透かし窓の柱に施されている漆喰レリーフです。

礼拝堂に入る中壁の上部を飾る漆喰レリーフです。太子の出家が表されています。





柱装飾も精緻です。

高さ3.8mの本尊で、アユタヤ王朝時代の特徴を良く備えています。

礼拝堂の側面壁に安置されている仏像です。いづれも秀逸な顔立ちです。





礼拝堂後面を飾る漆喰レリーフです。











後方へさがって礼拝堂全体を見てみます。



境内には壊れた石仏もたくさん置かれています。

アユタヤ王朝時代のモンドップです。
「モンドップ」は寺院伽藍の一つで、尖塔をもつ四角い建物で、仏足石などが納められています。



上部には漆喰の装飾が残ります。

モンドップの内側です。隅に台座がおかれているだけです。

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一回りして博物館に戻ってきた時に、木造建築の彫刻を写真に撮ったか?という管理人の問いに「場所が分からない」と答えると、この場所まで来て説明をしてくれました。
1923年に建築された木造3階建の建造物で、当初は礼拝堂として建造されたようですが、現在は僧坊として使われているようですが、あちこちに補強が入り崩壊寸前のようです。

管理人が推していた四方の破風に飾られているガルーダに乗るヴィシュヌ神像です。

金ぴかに仕上げられた本堂です。



新しいモンドップです。
ガイドブックによるとラーマⅤ世の治世に礼拝堂が火災にあって、被害を受けた弥勒菩薩をラーマⅤ世はバンコクで補修、その後「ワット・ライ」へ戻しました。その弥勒菩薩を安置するために建築されたモンドップです。
扉は施錠されていて弥勒菩薩に参拝できませんでした。

四方の木製扉には精緻な彫刻が施されています。

池に浮かぶお堂です。ブラフマー(梵天)が祀られています。

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礼拝堂の外壁に立てかけてあった砂岩の彫像です。古いもののようですが、現代彫刻のような抽象的な形状がおもしろくて2体を紹介します。


コーン・ケン (ワット・サ・トーング・バン・ブアのシム)

2014年04月10日 | コーン・ケン
■コーン・ケンの2日目です。

「チャルーン・ターニー・ホテル」の部屋から見るコーン・ケン市街です。

ホテルのロビーです。

午前7時40分、少し遅めの朝食です。
本日の予定は何もなく、チェックアウト後にまずブン・ケン・ナコーン畔にある「TAT」へ行き、コーン・ケン周辺のガイドブック、地図を入手してから決めます。



ホテルの全景です。

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「TAT」で入手した、イサーン中央4県の観光ガイドブックです。いずれもの県もコーン・ケン博物館に展示されていたドヴァラヴァティー遺跡の遺物が出土しています。

コーン・ケンの観光地図です。朱書きの経路でバンコクへ戻ることにします。

「TAT」の並びに「プタ・タート・ケン・ナコーン」があるので参拝してから出発することにします。

堂中央に安置されている仏舎利ですが、今朝は天蓋に明かりが灯っています。



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■国道2号線を南下、チャイヤプームへ向かう国道2131号線から国道2062号線で「マンチャ・キーリ」の「ワット・サ・トーング・バン・ブア」へ行きます。およそ45kmの距離です。

「シム」と呼ばれる布薩堂で1831年建立の煉瓦積みの建屋です。外壁に漆喰で浮き彫りにされたプリミティブな絵柄に青色と黄土色で彩色され、所々にガラスがアクセントとして嵌めこまれています。
「シム」とは布薩堂で「ウボソット」の小さなものを呼びます。本来は東屋のような意味合いを持つ言葉のようです。

光の加減で陰影が弱くて分かりにくいのですが、棟下にたくさんの天人像か人物像があります。







表面の漆喰が剥がれて、煉瓦がむき出しになっています。絵柄はイサーンの土着的な宗教画です。(解説には創建時の風俗が描かれている。と書かれています。)

















「シム」の中です。白壁の実にシンプルな内陣です。

ラーン・チャーン様式の石仏がご本尊です。

本堂横に二本の角柱が建っています。誰に聞いても柱の持つ意味が分かりませんでした。「入口の門」という意見が多かったのですが・・・。

柱には象の彫刻がされています。

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■走行中に祠を発見、立ち寄ります。「ボラーン・ノーン・シーラー・レー」

「ボラーン・ノーン・シーラー・レー」と所在地の「マンチャ・キーリ」の表示です。



結界石を集めて、祀られています。「石の丘」という意味を持つ遺跡のようですが、周りには荒れた土地があるだけで何もありません。

赤色砂岩の表面は摩耗していますが、仏陀の姿が彫られていることが分かります。

こちらも彫刻はほとんど摩耗しています。

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■マンチャ・キーリからチー川が大きく川幅を広げ、ケン・ケーオ湖になっています。湖に沿ってチョンナボット市街に入る手前に「サラ・マイ・タイ」があります。女王陛下の60歳の誕生日を記念して建設されたイサーンの絹布(マットミー)の展示館です。
また、女王陛下は、イサーンの絹布の伝統保存と育成にも取り組んでおられます。




大花百日紅(ドク・インタニン・ナーム)の花が満開です。日本の百日紅と花の形は同じですが、花の大きさは数倍はあります。

一階は絹布や衣類、小物を販売しています。

こちらは販売品です。6500バーツの値札が付いています。2万円弱です。



こちらは3350バーツ、約1万円です。すべて工程が手作業です。作る工数を考えると非常に安い価格だと思います。



二階が展示場になっています。イサーン各地から集められた絹布が展示されています。

それぞれの絹布に模様の名前が付いています。





博物館を出たのが午後3時10分です。国道2199号線を南下し、国道2233号線で「ポーム」で国道2線に合流し、ナコーン・ラーチャシーマーから国道2号線の渋滞を避け国道304号線を「カビン・ブリー」経由でバンコクへ戻ります。帰宅は午後9時40分、本日の走行距離529km、総走行距離は1011kmでした。