の~んびり タイランド 2

タイの風景、行事や趣味の陶磁器を写真を中心に気ままに紹介しています。

ポントゥク遺跡

2015年01月28日 | カンチャナブリー

バンコク国立博物館に2点の青銅製ランプが展示されています。全高27cm把手が鳥の尾っぽのよう開き、蓋にはセイレーンの顔が彫刻されています。1点はレプリカですが、1点は1927年にカンチャナブリーのメークローン川沿いにあるポントゥク村のバナナ畑から発掘されたものです。
発掘当初は2世紀の東ローマ帝国時代のものとして話題になったようですが、その後の調査で5世紀から7世紀のビザンチン製品と改められています。(バンコク国立博物館のレプリカに付いた解説では4世紀のローマ製青銅ランプとなっています。)
当時は地中海地方との直接交易はなく、インド人商人によって古代の交易ルートである、ミャンマーの港湾都市から、カンチャナブリー北部のスリー・パゴダ峠を越え、クウェー・ノーイ川、メークローン川を下ってもたらされたものと考えられています。
ポントゥクから東へ向えば、当時はタイ湾に面した港湾都市で、ドヴァラヴァティーの中心都市ナコーン・パトムへ至り、メークローン川を下ればクー・ブアの環濠都市に至ります。

写真はナコーン・パトムで発掘された、青銅ランプをモデルに造られたと思われるドヴァラヴァティーの土器製のランプです。

バンコクの西約110kmにあるポントゥクは書籍などでよく見聞する土地ですが、まだ行ったことがないので訪れることにしました。

首都高速道路をヤマラートで下り、民主記念塔からピン・クラーオの高架道路を通って国道338号線、国道4号線、そして国道323号線でポントゥクへ向かいます。
ポントゥクの手前9kmにラチャブリーのクメール遺跡「サ・コシーナラーイ」があるので寄ってみます。

国道から1kmほど入ると、サ・コシーナラーイと書かれたゲートをくぐります。ゲートをくぐり右へ進むと池の周回道路です。

「サ・コシーナラーイ」または「ネウ・カンぺーン・ムアン」と呼ばれるバライです。
また、一帯には960m四方の「チョム・プラサート」と呼ばれるクメール都市があり、メークローン川から南北に運河が引かれていたようです。



バライの東には新しい祠堂があり仏陀が祀られています。
祠堂の前で供物を売っている女性から、バライ横の工場の中に遺跡があり、申し込めば案内してくれるという話を聞きました。バライを一周してから行きます。



北西のゲートです。



ゲートの手前、バライの南に「コシーナラーイ博物館」があるので寄ってみましたが、窓から館内を覗くと展示物はなく、扉にも鍵がかかったままです。




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バライの南に製紙工場があります。門の外に腰かけている警備員に遺跡見学を申し込むと、手続きをしてくれます。警備責任者が案内するので来るまで待機します。

工場の一角に木々に囲まれて遺跡があります。





祠の中には仏陀と一緒に摩耗した石板が立てかけてあります。よく見ると右腕が二本もち、揚げた腕には巻貝を持ったヒンドゥーの神像のようにも見えます。

ジャヤヴァルマン7世の建立した施療院があったようですが、今は石材が散乱するだけです。



まぐさ石も発掘されたようです。

遺跡の横に水をたたえた池があり、案内人に古い池かどうか尋ねると、新しく掘った池とのことで、写真に撮らなかったのですが、後で調べるとチョム・プラサートの聖地でした。
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国立ラチャブリー博物館に展示されているチュム・プラサートから出土した菩薩像です。カンチャナブリーのクメール遺跡、ムアン・シン出土の菩薩像と非常によく似ています。チュム・プラサートとムアン・シンの距離はおよそ80kmでメー・クローン川の上流に位置しています。



チョム・プラサート出土の屋根瓦です。他にも建築装飾の遺品が出土しています。また、ラチャブリーの各地からクメールの仏像が発掘されているようです。
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国道323号線のポントゥク遺跡への標識です。

国道から500m入るとメークローン川に出ます。「サパーン・チャルーン・パッキア」橋を渡ります。



メークローン川です。現在は上流に幾つかのダムが出来ていますが、水量は豊富です。

橋を越え400mほど行った右手に「ポントゥク遺跡、サイト1」があります。



1mほど掘ったところに24mX14mのラテライトの基壇があります。基壇の南には壇上へ上る階段があります。基壇の上の構造物は何もありません。
ビザンチン製青銅ランプはここで発掘されました。







遺跡の横には石灰岩の石鐘がぶら下がっています。
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下流に向かって800m進むとサイト2があります。

発掘された後の窪みに、ラテライトの石材や漆喰の付着した石材が転がっているだけです。







その横にも遊歩道が整備され、鎖で囲まれた窪みがあるのですが、写真のように繁殖した草で埋っています。
この位置から、メークローン川畔までは数十メートルのようです。



遺跡の横に工場があって、道路で組み立てをしています。工業用のオーブンとのことです。作業をしている人に、他に遺跡があるのか尋ねると、橋を越えたところの寺院にあるとのことで、早速引き返すことにします。
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「ワット・ダーン・サック」です。広い敷地を車で走りますが、遺跡らしきものは見当たりません。敷地内で人に聞いても遺跡はない、とつれない返事です。
その時目に留まったのが写真の石鐘です。作業をしていた人が教えてくれたのはこれだったのです。
彼が言ったのは遺跡でなく「昔のきれいな物が寺院にある。」でした。


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ポントゥクを後にしたのが午後2時32分、昼食がまだですが、カンチャナブリーのクウェー鉄橋まで40kmなので走行することにします。
15分走行し市街へ入る手前にカノムチーンの写真を揚げた店がありました。
午後2時50分、いつもの遅い昼食です。


「レン・セン・カノム・チン・マッ」と言うお店です。
土鍋は付け出汁を煮込みます。

メニューです。

店先で麺を湯がいています。





溶いた粉を麺の太さに熱湯の中へ押し出します。

暫く湯がきます。

冷水に浸して、手ごろな大きさに丸め盆に盛っています。

注文に応じて盆からとって行きます。

注文のカノムチーンです。食感はそうめんですが、米粉から作られたタイ風そうめん(米麺)です。
皿に盛られた、モヤシやキャベツなどの野菜と一緒に、小鉢に入った出汁を掛けていただきます。
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クウェー鉄橋から400m離れた川沿いに「インチャンツリー・カチャナブリー」というホテルを見つけ泊まることにします。



一部屋だけ空室があり、一泊3,250バーツです。当然価格交渉をしたのですが、既に安くしていると言うことで交渉は不成立でした。
そのかわり、宿泊記念に渡している手作り石鹸を3個もらいました。



取敢えず荷物を部屋に置いてからクウェー鉄橋へ行きます。

早朝の交通事故

2015年01月28日 | その他

タイの道路は幹線道路が通り、魚の骨のように小路が張り巡らされています。この小路を「ソイ」と呼びますが、幹線道路の起点から地方に向う道路に奇数の順序、対向側に偶数の番号が割り振りされています。
元来ソイは自宅から幹線道路へ出るために造られた私道で、通り抜けできる道路は非常に少ないようです。
写真は今朝の午前5時51分にソイから出ようとしたときに、幹線道路を塞ぐように黒い塊が見えたので自動車のライトを上げたところです。
40フィートコンテナを牽引する大型トレーラーが事故を起こして、ソイを塞ぐように3車線の幹線道路の中ほどに停まっています。
運転席は形をとどめていません。同じコンテナを牽引する大型トレーナーに相当なスピードで追突した模様です。
事故後時間はかなり経過しているようで、道路清掃の女性もいます。追突されたと思われる事故車も見当たりません。
なんとか1台が左折するスペースがあったので、散乱するガラス片や金属片を踏みながら通り抜けました。
このような事故は、ほぼ毎日のように見かけるので驚かないのですが、事故現場から100m程しか離れていない所に住んでいながら、衝突の大音響に気づかず熟睡していたことに驚いています。

カオ・タモーラットの石仏に参拝する

2015年01月23日 | ペッチャブーン




メトロポリタン博物館の「消えた王国 -5世紀から8世紀の東南アジアのヒンドゥー、仏教彫刻」展の解説書を見ていると、シー・テープの環濠遺跡の西15km程のカオ・タモーラット山頂付近の洞窟に彫刻された、9世紀のドヴァラヴァティー時代の仏陀立像が載っていました。
ラーチャブリーのカオ・グーの洞窟「タム・ファー・トォー」の仏陀像とよく似ているので参拝に行くことにしました。

前日はロッブリーで宿泊し早朝にカオ・タモーラットに向かうことにします。
サラブリー、ロッブリー、ナコーンサワンの丘陵一帯には広大なひまわり畑があります。特にロッブリーはバンコクから近くて訪れる人も多く有名ですが、見渡す限りのひまわりはナコーンサワンに軍配が上がります。
訪れたのは1月17日、やはり花の満開は11月、12月でほとんどの畑が種になっていました。それでも花を探し求めてやって来た車に出会います。
種になった畑もそれなりに趣向はあるのですが・・・。





市内の遺跡は西洋人ツアーであふれており、午後3時に「ロッブリー・イン・リゾート」へ行くが満室になっています。
第二ロータリー近くの運河沿いにある「ロッブリー・レジデンス・ホテル」に宿泊します。
朝食付きで600バーツです。宿泊料がロッブリー・イン・リゾートの半額で、あまり期待していなかった朝食ですが、全く問題がない朝食でした。





ホテル敷地内にあるレストランです。ステーキを注文しましたが、柔らかい肉で焼き方も文句なく美味しくいただきました。
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午前7時20分スタートです。第二ロータリーから運河沿いに国道3196号線を北上、バン・ミーで国道205号線を東へ7km走り、国道3326号線を再び北上して国道1号線を横断、国道は2219号線に変わりシー・テープへ北東に延びています。約110kmのコースです。

ロッブリーの県境を越えシー・テープまで20kmぐらいから、進行方向左手に高い山が見え始めました。個人経営の小さなガソリンスタンド「トーン・カセット・タイ・オイル・ステーション」に寄り店先にいた女性に裏山の名前を訪ねると、達者な日本語で話しかけられ「カオ・ヤイ」(大きな山)との返事です。石仏の写真を見せて、山の上に仏像があるか尋ねても知らないとの答えです。
念のためガソリン・スタンドのレジに座っている娘さんに山の名前を尋ねると「カオ・タモーラット」、行ったことはないが山の上には仏像があるとの答えです。
一帯には山がいくつかあって、その中で一番高い山を地元の人は通称「カオ・ヤイ」と呼ぶようです。ちなみに高さは1500m(標高:1550m)です。
娘さんには山までの道順を教えてもらい出発です。

国道2219号線をそれてカオ・タモーラットが近づいてきました。道端の民家で揚げバナナを売っている老婆がいました。仏像の写真を見せて最終確認しますが、彼女が教えてくれたのはシーテープ環濠遺跡でした。

カオ・タモーラットの麓近くまで迷うことなくやってきました。

初めて目にする標識です。表通りにも立てておいてほしいものです。



山火事があった後のようで、一帯は黒く灰になっています。
麓の民家の娘さんが歩いているので、登坂路を尋ねると、道らしきものはなく、山の裏に回り込むため1人で行くのは難しい、との答えです。
暇なら一緒に登ってくれるように頼むが、用事があるため登れないと言うことで、村長に電話し案内人を探してくれました。



20分程待つと村長がパットさんという男性を連れてやってきました。







 「マームイ」と言う蔓性のマメ科の植物です。

竹に絡まって、いたる所にサヤがぶら下がっています。このサヤは繊毛に覆われていて、触れると体に刺さり痒くて痒くてたまらない代物です。
パットさんはマームイの少ない登り道を選んだり、道を塞ぐマームイを鉈で切り落として進みますが、後から歩くと繊毛が舞い上がったり、体を伏せて通ってもリュックがマームイに当たって腕や露出した身体が痒くてたまりません。
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マームイの花です。
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パットさんです。70歳を超えているそうで、こちらのペースでゆっくりと登れると思ってましたが、とんでもない健脚でどんどん先を進んで行きます。



山火事の灰の上に、熱で枯れた竹の葉が積り、油断をすると滑ってしまいます。

侵食で出来た、石灰岩の自然の階段です。

1kmを過ぎたあたりからもう足が上がりません。心臓は破裂寸前です。とにかく休憩です。呼吸が整い歩き出しても10m進まないうちにダウンです。
パットさんは「あと500m、心配するな。頑張れ、頑張れ。」と励ますけれど、僕は「頑張れな~い、歩けない。心配はしていない、山は無くならな~い。」と腰を下ろしたっきり。
その間もパットさんは、手ごろな太さの竹を探しては鉈で切り倒し、何かを作っています。
何を作っているのか聞く元気もありませんでした。、



最後の急斜面です。上から「到着した。」と呼ぶパットさん声が聞こえます。
写真では分かりませんが、急勾配で写っているロープを手繰り寄せながら登ります。



やっと到着です。大きく口を開いた鍾乳洞です。洞窟内の面積は1.5ライ(2400㎡)となっています。
午前10時20分にスタートして、12時46分に到着です。2時間26分も費やしています。




鍾乳洞の中央に出来た石柱に、蓮の花の上に立つ、説法印の仏陀立像が彫られています。

仏陀のお顔は西洋人の蒐集家が持ち去ったそうです。



石柱の右側にも3体の像と仏塔が彫られています。







洞窟の奥にも3体の菩薩像と仏塔が刻まれています。
やはりお顔は削り取られています。
仏教徒である日本人には仏像のお顔を削り取ることは考えられないことですが、西洋人にとって信仰の対称でない仏像を傷つけるのは問題ないようです。

洞窟内から外を見ます。

入口の右にも横穴があって、何か彫刻に痕があるようなので登って行きます。
パットさんは何もないと言っています。





午後1時58分に下山します。洞窟内には1時間12分の滞在でした。



麓の礼拝堂も燃えたようです。
午後3時7分に麓まで戻って来ました。下山は3回休憩して1時間9分でした。

パットさんの話では1時間30分で登坂できるそうです。休憩は1回に30秒で十分だそうです。
僕は1回に10分以上腰掛けていました・・・。
彼は、これからバンコクへ戻るのかと心配してくれますが、とてもそんな元気はありません。汗とマームイで身体が痒くてたまりません。一刻も早くシャワーを浴びるため、シー・テープでホテルを探すことにします。
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シー・テープから国道21号線をバンコク方面へ7km進んだところの国道沿いに「ピチャ・ワリー・リソート」がありました。外観も新しく一泊600バーツで、朝食にお粥とコーヒーがあると言うことで、即決です。午後4時15分チェック・インです。



リゾートの入り口で従業員が休んでいます。横に腰をおろし、「カオ・ヤイへ登って、マームイに触れて身体が痒くてたまらない。」と話すと、全員大爆笑です。「シャワーを浴びて、天花粉を何度も塗りまくれ。」とアドバイスをしてくれます。結局皆さんマームイの洗礼を受けているのです。

シャワーを浴び、さっぱりしたところで、まだ宿泊客がいないのをいいことに下着一枚で廊下に出て、穿いていたGパンとリュックに付いたカオ・タモーラットの埃を叩いたのが大失敗でした。付着していたマームイが、山では痒くなかった脚や上半身に刺さって大変なことになりました。

午後5時17分、晩飯を買いにシー・テープ方面へ戻ります。国道21号線の正面に靄に霞んだカオ・タモーラットが見えます。

焼き飯とスープを買ってリゾートまで帰ります。



開放的だろうと二階に部屋をとったのですが、この階段を上るのもたいへん苦痛でした。


サンカロークの魚

2015年01月22日 | 陶磁器(タイ)

シーサチャナライの友人が「バン・タオ・パ・ヤーン」で珍しい絵柄の陶器が発掘された、と写真をメールしてくれました。


魚文皿です。小さく割れたのを接合してあります。太めの魚が見込みに一匹、周りに3匹描かれています。
この絵皿で思い出したのが、かってアップしたことのある魚文の陶片です。(写真下)

特徴ある魚の筆使いが非常によく似ています。同一人物による絵付けのようです。600年間土中にあって偶然めぐり会いました。



一緒に出土した鉄絵鳥文鉢です。やはり細かく割れたのを接合しています。

ミャンマーのお皿

2015年01月21日 | 陶磁器(ミャンマー)

「白釉緑彩皿」です。近年タイとミャンマーの国境山岳地帯から発掘されて世界に知られることになった、15、6世紀にペグー周辺で焼成された陶器の模倣品です。
見込みの絵柄は、人物なのかペグーの寺院の壁に嵌められている陶板に描かれたような魔人なのかはっきりしません。(釈迦の修行を妨害する魔王の二人娘かな…)


真作は低温焼成の錫鉛釉で緑色の発色剤として銅を用いていますが、本品は硬く焼き締まり高温焼成されています。高台には窯印が刻まれ、なぜか油が塗布されています。

チャトチャック市場で売られていたのですが、店番をしていた主婦に値段を聞くと「1800バーツ」とのことでした。その日は他に手荷物もあって価格を聞くだけで、どこまで価格交渉をすればよいか考えながら店を去りました。
翌週再訪すると亭主が店番をしていました。1200バーツぐらいまで値段が下がれば買うつもりだったのですが、亭主の言う値段は1200バーツです。店番によって言い値が違うのはよくある話で、急遽購入想定価格を変更、600バーツからの交渉です。
結局800バーツで参考品として購入しました。

直径:28.5cm、高台径:20.4cm、高さ:5.7cmです。

こちらはターク、ポップラー山中で発掘された「白釉緑彩草文皿」です。パック・ブーンらしき草が描かれています。
この手の盤の特徴である、高台内に静止糸切痕が残っています。糸切後に高台を貼り付けたようです。
直径:31.0cm、高台径:19.9cm、高さ:6.7cmです。

白釉緑彩皿はオムコイからウムパーンまでの広範囲の山中から出土していますが、材料の化学分析からミャンマーで極短期間に生産されたことは確定されていますが、焼成された窯はまだ発見されていません。
生産された15、6世紀はビルマ族のバガン王朝を倒した、モン族が下ビルマに国家を再興した時代です。1287年にスコータイの援助でマルタバンに建国しますが、その後スコータイ、ラーンナー、アユタヤからの侵略や内乱が繰り返され、また上ビルマのアヴァ王朝のシャン族、タウングー王朝のビルマ族との戦争が続き政情は長く安定しません。
最も安定したのは1472年にダンマゼーディーが王位に就いたころで、セイロンに僧侶を派遣、首都のペグーにたくさんの寺院が建設され、都市が拡大した時代です。安定期も長くは続かず1539年にはタウングー王朝の攻撃で滅亡、ペグーは廃墟となります。

(その後の調査でカイン州モーラミャイン近郊のコー・ドン村の窯跡から白釉緑彩陶の陶片が発掘されたとの報告があります。2022年4月7日追記)

「白釉緑彩花文皿」です。中央に四弁の花が描かれています。花を囲む二重円は鉛釉を何度も継ぎ足し描きあげています。高台は削り出しで唐傘模様が出来ています。メソート出土で直径は29,0cmとなっています。

錫鉛釉に銅で発色させた緑釉皿です。高台内には鉄が塗られています。
直径:25,0cm、高台径:18,6、高さ5.4cmです。

緑釉皿です。写真の発色が良くないですが、現品は裏葉色したきれいな緑です。鍔には斜線が刻まれています。

錫鉛釉の白釉皿です。直径は29,0cmです。