の~んびり タイランド 2

タイの風景、行事や趣味の陶磁器を写真を中心に気ままに紹介しています。

カンタラウィチャイ(ドヴァーラヴァティーの雨を呼ぶ仏像)

2014年05月30日 | カーラシン

■国道23号線から国道213号線を通ってマハーサーラカームからカーラシンへ向かいます。この2都市間は40kmと近く、マハーサーラカームから15kmで県境の町、カンタラウィチャイがあります。5世紀から10世紀頃に栄えたモン族の環濠遺跡が残っています。

タイの道路は人は優先じゃないけれど、牛は優先です。

イサーンの痩せた土地で採れるの「マン・ケオ」、イサーンではラーオ語の「マン・パオ」と呼ぶ、蕪の仲間でしょうか、少し甘味がある根菜で、このまま齧ります。

■国道213号線が木々の茂る緩やかな上り坂の頂点になった所に「プラ・プタループ・ユーン・モンコーン」と呼ばれる4mの赤色砂岩で造られた仏像が、菩提樹の幹に抱き込まれて立っています。5世紀から10世紀のドヴァーラヴァティー様式の仏像です。地元の伝承では、日照り続きに、近くの「ワット・スワンナワット」に安置されている「プラ・プッタ・ミーン・ムアン」を男性が、女性が「プラ・プタループ・ユーン・モンコーン」を雨乞いの願いを込めてつくり、完成のお祝いをするや雨が降り出し、この地を繁栄させたそうです。
1917年に壊れた腕と頭部が修復されています。









聖域を示す結界石です。

仏陀の前でイサーンの踊りが奉納されます。





濠と土塁で囲まれた古代都市で、丸印にドヴァーラヴァティーの遺跡が残っています。

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■「プラ・プタループ・ユーン・モンコーン」から数キロ進むとカンタラウィチャイの市街に入ります。「プラ・プッタ・ミーン・ムアン」は左手にあります。「ワット・スワンナワット」の門をくぐった右手に安置されています。







結界石が置かれていますが、ケースの上から掛けられた水で内側が結露して良く見えません。

この布薩堂もシムと呼ばれ、煉瓦造りです。



破風のレリーフは仏陀倚像です。

狛犬のように見えますが、獅子です。

布薩堂の内側です。

礼拝堂に安置された仏陀です。

イサーンのシム(布薩堂)・ワット バン ヤング

2014年05月29日 | マハ・サラカーム
■「ワット・ポーターラム」、「ワット・パ・レライ」を見終えてマハー・サーラカームのタクシラ・ホテルへ戻ります。国道2045号線から国道2063号線を経て国道2040号線で市街へ戻るのが60km弱の最短コースですが、もう一つシム寺院を見るため国道2063号線を直進します。
ソンクラーン期間中は各自治体毎に幹線道路で交通監視が行われています。道路脇にテントを張って警察、自警団、地方役所の職員等がたくさん立ち番をしています。交通監視カ所に出会う都度、目的の寺院「ワット・ヤング・トアン・ワララーム(ワット・バン・ヤング)」を訪ねるのですが、誰も知る人がいません。みんな親切で、あちこち調べてくれるのですが結局分からずで、季節外れの降雨となり、国道23号線まで突っ切りホテルへ戻りました。
ホテルに到着して2日目の走行距離をチェックすると207kmと予想外にたくさんの距離を走行していました。

■3日目は朝からカーラシンへ向かう予定だったのを変更して「ワット・バン・ヤング」を訪ねることにしました。

「タクシラ・ホテル」のロビーにもソンクラーンの仏陀が祀られています。旅の安全と健康を祈願して水を灌いでいきます。

朝食です。この時期のイサーンはタイ人でも行きたがらないと言われる通り、宿泊客が少ないのか、西洋人のカップル以外誰も食堂に座っていません。
実は、初日に来る途中で宿泊予約の電話を入れたのですが、電話口からは「予約は受け付けていない。いつでも空室があるから来い。」というぶっきらぼうな回答で、ホテルの質を心配したのですが、到着してカウンターに行くと非常に愛想も良く、設備の整ったホテルでした。

朝食の卵料理にオムレツを注文します。

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■前日のコースを逆走して国道23号線から国道2063号線に入ります。暫く進むとソンクラーンパレードの長い長い行列につかまります。2車線道路で、とても追い越しができる状況ではありません。
交通監視をしている人に「ワット・バン・ヤング」を尋ねます。
たくさん居並ぶ人の中で、一人だけ知っている人がいました。ゆっくり進むパレードを眺めながら、次の村道を曲がれば遠回りにはなるが、行くことができる。という答えです。どうも不安が残るが車を進めることにします。途中で人に出会えば何度も尋ねるのですが、誰も知りません。村の中を通じる細い道路の連続です。とにかく国道2063号線から大きく外れないように進みます。距離計を見ると18kmも走っています。ここまで走ると引き返す元気もありません。
しかし、やっと出会えました。ある村はずれで自転車に乗っている老人に聞けば、そのお寺ならもう少し行った所にあります。という丁寧な答えです。
ちなみに「ワット・バン・ヤング」から進行方向へ500m程進むと元の国道へ出ることが出来ました。村道へ曲がった所からだと12km離れていました。

ということで、やっとたどり着いた「ワット・バン・ヤング」の寺門です。ホテルを出てから辿り着くまで1時間半かかっています。55kmの距離です。

シムの外観です。外壁があって扉が閉まっています。





勝手に扉を開け、中へ入ります。
シムの正面です。
階段の両脇はシンハ(獅子)です。その前に腰かける人物像があります。

扉の右側壁面です。3段に分かれ「パー・ウェットサンドン・サドック」が描かれています。一番上は森へ追放されていたウェットサンドンの帰国を出迎える、シヴィーの人々、中段はウェットサンドンを訪ねて森へ入ったバラモンが、番犬と猟師に狙われている所です。
下段は子供を抱いて森を進む、ウェットサンドンとマディーです。

扉の左側壁面です。上段は女性像と女性に絡む男性が描かれています。当時の風俗画でしょうか。中段は虎に噛まれる男性。下段は二人の子供を連れ去るチューチョックです。





シムの右壁面へ周ります。

左下に森で果物を採るウェットサンドン家族が描かれています。

物語は下から上へ展開します。一番下は水を汲みに出かける、チューチョックの若くて美しい妻、アミッダーです。そして上へ行き、水汲み場でいじめられるアミッダーとなります。家に帰り外へ出るのを嫌がるアミッダーとなだめるチューチョックです。



右下は白象をカリンガへ連れて帰るバラモン、その上は追放されるウェットサンドラ家族が乗る馬車の馬を求めるバラモンです。

上は馬車を貰い受けたバラモン。その下は馬を貰い受けたバラモンが描かれています。

右下は白象を貰いに来たバラモンに承諾の水を灌ぐウェットサンドン国王です。

シムの背面と左側面です。

背面は仏伝図が描かれています。左上は官女のだらしない寝姿を見て出家を決意する太子です。







背壁面から左壁面へ周ったところです。プラ・マライの地獄図になります。

森の果物を採るマディーとマディーが庵へ戻るのを妨害するライオン、トラ、ヒョウに化けた3人の神。
マディーを連れ去るサッカが変身したバラモンとサッカに戻りマディーを戻す場面です。





700組の贈り物を配るウェットサンドンとマディーです。

ウェットサンドンの帰国です。

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■シムの中へ入ります。屋外の壁画と雰囲気が全く異なります。












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庫裡として使われている建屋の破風です。

何のお呪いでしょうか、境内の棘のある大木にもち米が刺してあります。


イサーンのシム(布薩堂)・ワット パ レライ

2014年05月28日 | マハ・サラカーム
■「ワット・ポーターラム」から1.2km進むと、農村集落の中に「ワット・パ・レライ」があります。この村落寺院にもシムが建設されています。

過去に紹介しましたが、「コーン・ケン」は1783年にビエンチャンから逃れてきた300名が定着したのが始まり、「ローイエット」は1713年にラオスのチャムパーサック王が一族の「チャオ・ケーオモンコン」に移住者を連れて移住させました。後に息子が国主となります。また、1865年には「ローイエット」から「ターオ・マハーチャイ」が2000名を連れて「マハーサーラカーム」移住し国主となります。「カーラシン」は1777年にビエンチャンから5000名を引き連れて逃れてきたチャオ・ソームパミットが後に国主となっています。
1904年はタイ仏条約が調印され、メコン川左岸のフランスへ割譲、メコン右岸25km内を緩衝区域としタイ官吏の立ち入り制限され、タイはメコン左岸のラーオ人をタイ領へ移住させています。
元々イサーンにはたくさんのラーオ人、モン・クメール人が居住しており、タイが直接統治をしていた地域ではありませんでした。いわゆる朝貢関係による宗主国でした。そのような関係でラーオ文化の影響を受けた仏教美術は色濃く残っています。

シムの入り口です。堂内に至る階段には、簡素化されたパヤナーの像があります。



西から見ます。

南から見ます。錆びたトタン屋根に覆われて、十分な保護がされていません。

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■正面(東側)壁画です。




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■南側壁面です。「ヴェサンタラ・ジャータカ」が描かれています。
「ヴェサンタラ・ジャータカ」はタイ中央部の呼び方で、イサーン(ラーオ)では「パー・ウェットサンドン・サドック(物語)」または「パー・ウェト」として知られています。

天上界では、サッカ(帝釈天)の妻、プーサティが下界に転生しました。生まれ変わってからもプーサティと呼ばれ、地上で一番美しい少女に成長しました。
16歳でシヴィの国王サンチャヤと結婚しました。二人は心から愛し合い、やがてウェットサンドン王子を儲けました。
生まれた赤ん坊は「お母さん、私は何を与えることができますか?」と話しかけ、神々を驚かせました。
8歳になった時、「もし誰かが私の心を求めたら、彼に私の目、私の肉を与えるでしょう。」と話しかけています。
ウェットサンドン王子は自分の所有物を人に与えることで満足をしました。
16歳で王位を譲られで、隣国の王女、マディーと結婚をしました。王国は繁栄し、二人は幸せに暮らしていました。息子ジャリィ、娘カンハチナが生まれました。

何年も前、ウェットサンドン王子がまだ赤ん坊のころ、王国に若い白象がもたらされていました。白象は王国に慈雨をもたらし、王国を繁栄させました。

近くの王国カリンガでは長い旱魃で人々が苦しんでいました。皆の祈祷や国王の天へのお供えも空しく雨は降りませんでした。
カリンガの人々の多くがシヴィ国の霊験ある白象とウェットサンドン王の慈悲を知っていました。国民は国王に白象を貰い受けるため8人のバラモンを遣わすことを薦めました。

バラモンがシヴィに着いたとき、ウェットサンドン国王は白象の上から施しものを与えていました。貴重な白象は貴重な宝石と豪華な装飾で覆われていました。
ウェットサンドン国王はバラモンの要望を聞くや、すぐに承諾を表す水を彼らに灌ぎました。
(ウェットサンドン王が瓶から水を灌いでいるとこです。バラモンは梁の陰で見えません。壁画は3段に分かれて物語が描かれていますが、上段は汚れがひどく、鳥のフン害で白くなっています。)

(バラモンが白象を連れて帰るところです。)
シヴィの国民は、彼らに繁栄をもたらした白象の喪失を嘆き悲しみ、元国王のサンチャヤが王権を取り戻し、ウェットサンドン国王の追放を要求しました。
サンチャヤは心が痛みましたが、人々の激怒が大きく同意せざるを得ませんでした。

ウェットサンドンの追放に1日間の慈悲が与えられました。
その1日間でウェットサンドンは全ての所有物を700に分類して、700人に与えました。
遠くからも人々が贈り物を受け取りにやって来て、夜になってもまだ配っていました。
親の許しを得て、妻と2人の子供たちと一緒に最後の夜を過ごしました。

日の出とともに追放された家族は四頭立ての馬車に牽かれて都城を出て行きました。

都城の門が閉じるると、すぐに4人のバラモンが現われ、四頭の馬を求めました。

そして、即座に馬はバラモンに与えられました。
神々は、馬車をひくため牡鹿に姿を変えた4人の神を遣わしました。

しかし、すぐに馬車を求めて5人目のバラモンが現われます。

バラモンに馬車を与えたウェットサンドンとマディーは息子と娘を抱き旅を続けます。
彼らの旅は、ウェットサンドンの叔父が支配するチェッタに寄り、都城門の横の小屋で一泊しました。
叔父は館に彼らを招待し、ウェットサンドンに国を譲るつもりでしたが、叔父の意図を知ったウェットサンドンは都城内へ行くのを拒みました。
翌朝、国王はウェットサンドンと家族を森の近くまで見送り、川の畔で休息をとった後、食料を授けて分かれました。
4人は大きなムチャリンダ湖を迂回して、ヒマラヤ山脈のふもとの丘へ向かいました。森の中の細い道が彼らをヴァムカ山麓まで導きました。

神々の王サッカは、彼らが到着することを予測して、ヴィッサッカマに命じて蓮池の畔に二棟の庵を建築させました。
ウェットサンドンが先に庵に入ると、4組の隠者の衣服が折りたたんであることに気づき、サッカが彼らを見守っていることを悟りました。
彼らは7カ月間、草の根や森の果物を食べて生活をしていました。

カリンガではもたらされた白象によって旱魃は終わっていました。村にはチューチョックという醜いバラモンが住んでいました。彼には、働き者で若くて美しい妻アミッダーがいました。
アミッダーが水を汲みに井戸に行くと、居合わせた村の女性たちから悪口を言われたり、からかっていじめられます。とうとう彼女は水汲みに出かけることを嫌がって止めてしまいました。



チューチョックは寛容なウェットサンドンの噂を聞き知って、2人の子供を奴隷として貰い受けることで、妻をなだめました。
ウェットサンドンを見つけるために出発します。

森を通過するとき、チェッタ国王によってウェットサンドンを探す不審者を見張るように置かれていた、番犬や猟師に攻撃を受けます。
(ひび割れに漆喰を塗りつけただけの補修で絵柄が消えています。)
チューチョックはサンチャヤ国王の命令でウェットサンドンを迎えに来たと、見張り人や猟師を騙して通過します。
森の修行者にも同じ嘘を伝えて、ウェットサンドンの居場所を聞き出します。

(背面の壁画になります。)

チューチョックはマディーが森へ出かけるまで庵に近づくのを待ちます。
庵でウェットサンドンを見かけたチューチョックは歓喜しました。

チューチョックの異常な要望は、バラモンに水を灌いで受け入れられました。

二人のやり取りを聞いていた子供たちは、急いで蓮池の葉陰に隠れてしまいました。
ウェットサンドンは子供たちを蓮池から探し出し、チューチョックに与えました。

バラモンはツタで子供たちの手を結び付け、鞭打ちながら連れ去りました。
ウェットサンドンの目からは涙があふれ出しました。彼は泣きながら庵に入り、深い悲しみにおちてしまいます。

マッディーが泣き叫びながら連れ去られる子供たちに遭遇するのを防ぐため、3人の神はライオン、トラ、ヒョウに身を変え帰り道を塞ぎます。
ウェッドサンドンは帰宅したマッディーに真相を告げることができませんでした。
子供が見当たらず、取り乱した母親は夜明けまで彼らを探しました。朝になり彼女は気を失ってしまいます。
マッディーを介抱したウェットサンドンは、バラモンに子供を与えたことを告げました。彼女はウェットサンドンの徳を称え賛同しました。

サッカは最も素晴らしい贈り物として献身的な妻が残っていて、ウェットサンドンは人に乞われれば、彼女も与えてしまうであろうことを知りました。
マッディーを他人に与えるのを避けるため、サッカは醜いバラモンに身を変え、庵を訪れました。
妻を請うバラモンにウェットサンドンは承諾の水を灌ぎます。妻も夫の願望を果たすため承諾をします。

神はウェッドサンドンに最高の慈善能力があるのを認め、マッディーを返しました。


カリンガへ戻るチューチョックは森で迷い、神々によってシヴィの国へ導かれて行きました。
シヴィに入ると人々に見いだされた、チューチョクと子供たちはサンチャヤ国王のもとへ連れていかれました。

国王は孫を見出して大喜びでした。チューチョックを罰するどころか、大邸宅を建て、多額の褒賞金を与えました。
豪華さに慣れていないチューチョックは差し入れられる食べ物を食べ過ぎ死んでしまいました。



国王はジャリィに息子を十分に愛さなかったと責められます。
そこで国王はウェッドサンドンをシヴィに連れ戻すことにしました。国民も彼の追放を後悔して迎えることに大喜びでした。
国王は将軍に命じて、森まで馬車で行ける平坦な道路を造らせ、王族の行列を仕立てて迎えに行きました。
ウェッドサンドンにシヴィに戻り、もう一度王位に就くよう懇請しました。1カ月間森で祝祭を営んだうえで、ウェッドサンドンは王にふさわしい服装、マッディーは美しい衣装と宝石で盛装して、華麗な行列を連ねて帰国しました。





王座についたウェッドサンドンは生涯、貴重品を人々に分配しました。
生を終えると、天上界に菩薩として転生しました。
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■北側壁面です。「ラム・ラック物語」、ラーオ版の「ラーマキエン」が描かれています。












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■堂内です。





















地獄の釜茹です。岩の上から僧衣を垂らすのは、天界と地獄を自由に行き来して、地獄で苦しむ人を助けるプラ・ラマイです。

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寺院の入り口で軽食を取りました。

一串が20バーツの蛙です。写真撮影だけで買ってはいません。


イサーンのシム(布薩堂)・ワット ポーターラム

2014年05月23日 | マハ・サラカーム
■イサーン中央部の寺院には特徴的なラーオ語の「シム」と呼ばれる布薩堂(ウボソット)があります。
1900年代初期に、フランスの植民地であったベトナム、カンボジア、ラオスで建築技術を学んだベトナム人によって建設された、煉瓦造りの小さな布薩堂です。かっては出家儀式などの重要な宗教儀式が執り行われた施設ですが、現在はシムに替わる中央タイ様式の画一的なウボソットが建立され、布薩堂本来の機能は果たしていないようです。
シムが他の布薩堂と特に異なるのは、外壁面に地元で採れる藍等を基調にしたラーオの地方色をおびた宗教画が描かれていることです。
描かれているのは仏伝図ですが、仏伝図以上に多いのが「ヴェサンタラ・ジャータカ」、ラーオ版の「パー・ウェットサンドン・サドック」(パー・ウェット)です。他には「シンサイ物語」、ラーマキエンのラーオ版「パー・ラム・サドック」が描かれています。

まず訪れたのが、国道2381号線から国道1045号線を数キロ南へ向かい農村集落内にある寺院「ワット・ポーターラム」です。

■「ワット・ポーターラム」には「シム」と並んでやはり煉瓦造りの礼拝堂が建っていましたので、そちらから紹介します。

























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「シム」の外観です。

「シム」の入り口です。階段の両脇には素朴な形の「シンハ」(獅子)が並びます。

 



壁画職人は「ワット・プーミン」の壁画を意識しているようです。他ににも数カ所「ワット・プーミン」の壁画から触発された場面があります。


■南側の壁面です。「シンサイ物語」が描かれています。
「シンサイ物語」はラーオの地方ジャータカの一つです。
昔々、ペンチャン王国にクサラット王とチャンタ王妃が住んでいました。王にはスモンタという大変美しい妹がいました。
ある日、クムパンというヤック(鬼)が巨大な鳥に身を変え、ペンチャン王国を飛んでいると宮廷にスモンタを見出しました。クムパンは一目で惚れ込み、スモンタを拉致して彼の町へ連れ去りました。
国王はスモンタの探索にでましたがとうとう見つけ出すことができませんでした。
しかし、長い探索の旅で新たに7人の新しい妻を得ました。
やがてクサラット王の妻二人、チャンタ王妃とルン王妃がインドラ神への願いが通じて神秘的な力を持った男児を出産しました。
一人の妻はシホという名の体の一部が象、一部がライオンで、もう一人はシンサイと呼ばれ、生まれつき神秘的な剣と弓を持った男児とサン・トーンという体が巻貝の双子です。
同じころ、他の6人の妻たちもごく普通の男児を出産しました。
6人の妻たちは、神秘的な力を持った者が世継ぎになることを恐れ、占い師を通じてシホ、シンサイ、サン・トーンと二人の妻を都から追放するように国王へ画策しました。
国王は占い師の言質を信じ、軍人に命じて5名を森に追放しました。

シンサイは7歳になったとき、年齢以上の聡明さと武術を身に付け、ガルーダやナーガを打ち負かし、忠誠を誓わせるようになっていました。
一方、普通の6人の王子も普通に成長しました。そこで国王は6人の王子たちに誘拐された妹のスモンタを見つけ出し、連れ戻すように命じました。






6人の王子は森を進むと、シンサイ、サン・トーン、シホにであいました。お互い話をしたうえで、9人は兄弟であることを知りました。
6人の王子は、3人をだまして、叔母探しに連れ出しました。

6人は自分達に危害がかからないよう、3人の後ろから進みます。
3人の行く手には、猛毒蛇、鬼、巨大象等のすざましい生き物が襲い掛かってきますが、ことごとく打ち破って進みます。
シンサイはクムパンの町へ着きました。クムパンはちょうど食料を探すため出かけた後でした。

さっそくスモンタを訪れ、ペンチャンへ戻るように告げましたが、スモンタは長年連れ添ったクムパンに恋愛をしていて戻ることを望みませんでした。

そこへ戻ってきたクムパンと3王子の戦いがはじまります。長い戦いの末にクムパンは殺されてしまいます。しかし、時間をかけクムパンは再生し逃げてしまいました。
サン・トーンはクンパンを追いかけるため、自身を色々な形態に変化させて、最後にシンサイはクムパンを殺害します。
クムパンの死を知ったスモンタは深い悲しみにつつまれ、そして、いやいやペンチャン王国に戻ることに応じました。

乙女が実る、「ナーリーポーン」という木です。シンサイは実っている果実(乙女)を獲得して交わることができますが、ヤックには果実を得ることができません。

■西側(背側)の壁画です。「仏伝図」が描かれています。


イーサンの生活風景が描かれています。

太子の王宮生活です。だらしない寝姿の官女たちを見て出家を決意します。

愛馬に乗り御者と共に城を出る所です。馬の足音がしないようヤクシーが馬の足を支えています。

瞑想をする仏陀と魔衆の攻撃が描かれています。



■北側の壁画です。「ヴェサンタラ・ジャータカ」です。「ヴェサンタラ・ジャータカ」は堂内へも続きます。
自分のものは全て人に与える布施王子のお話です。国に繁栄と慈雨をもたらす白象を他国に与え、国を追放され森で暮らす王子と妃、そして2人の息子と娘ですが、最後には子供や妻も与える王子の物語です。
「お話の詳細は次回に記載します。」












この図は正面右側に描かれたものです。森を進むヴェサンタラ王子と妻、子供たちです。

水汲みに来て、近所の女たちにいじめられ泣いているのはバラモン「チューチョク」の美しい妻「アミッタダー」です。彼女は外へ出て働くことをいやがります。そこで、チューチョクはヴェサンタラの子供を奴隷にするため貰いに出かけます。



■シムの内側です。









チューチョクが二人の子供の手を結び付けて引き立てていくところです。

中国人の商店です。長い髪の毛を後ろで束ねたのが中国人です。



ソンクラーンにイサーン中央部四県を周る (2)

2014年05月22日 | マハ・サラカーム
■「クウ・バン・デーン」から国道2045号線を約10km進むと国道2381号線との信号にあたります。右折して数キロ進むと「クウ・サンタラート」というクメール遺跡があります。

ソンクラーンの催しが行われているようです。

舞台が2カ所設営されていて、こちらの舞台では歌を唄っていますが、聞き入る人がいませんでした。

こちらではゲームが行われていますが、やはり人の集まりが非常に少ないようです。



外周壁の中に祠塔と経蔵が見えます
ジャヤヴァルマン7世の統治時代の12世紀から13世紀に建立された施療院です。
ナーガに座る仏陀像など多数発掘され、コーン・ケン国立博物館で展示されています。







僧侶が灌水に来ました。



祠塔内に安置された仏像に、順番に灌水していきます。







塀の外には聖池があります。

お祭りの盛り上がりに欠ける遺跡です。多くの人はピックアップトラックに水を積み込み、水掛けに走り回っているようです。

遺跡に通じる小路では、少年たちが踊り狂っています。

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■国道2045号線から2381号線に曲がった時に、村はずれの遺跡が見えたので戻ってみました。
遺跡は見えるのですが入って行く道路が見当たりません。
村の人に道を尋ねながらたどり着きました。「クウ・ノイ」という12世紀に建立されたヒンドゥー寺院です。




張りぼての支柱が立っています。基壇の上には木製の建造物があったようです。



遺跡の南北には貯水池があります。

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■再び国道2381号線を西へ進み「プラタート・ナー・ドゥン」へ行く。
「プラタート・ナー・ドゥン」へ通じる参道は水掛けのメイン会場で一方通行の出口になっています。
迂回をして到着しました。

1979年、農地で9世紀から11世紀に作られたドヴァーラヴァティー磚仏が発掘されました。芸術局の発掘調査で地下50cmの深さから、結界石と磚仏に囲まれた小型の銅製の仏塔が発見されました。仏塔の内部には銅、銀、金の三重のケースに仏舎利が納められていました。
この地にイーサンの仏教中心地で古代都市「ナコーン・チャムパ・シー」があったことが確認されました。
1982年、仏舎利の発見された場所に、高さ50mの仏塔が建立され、発掘された仏舎利を納めました。
ここではソンクラーン・パレードが終了したようです。



発掘された銅製仏塔をモデルに1982年に建立されて仏塔です。仏塔に巻かれる黄色い布が奉納されるところです。







仏塔の周りには発掘された磚仏のレリーフが埋め込まれています。












プールではありません。仏塔を取り囲む池ですが、暑さのせいで皆飛び込んでいます。

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■「プラタート・ナー・ドゥン」の裏にある「ナコーン・チャムパ・シー博物館」です。
この地で発掘された磚仏が展示されています。






ケースの中に入っているのが仏舎利が納めれれていた銅製の仏塔の複製です。







古代都市「ナコーン・チャムパ・シー」は二重土塁と濠に囲まれた2.7kmX1.5kmの矩形で、パネルのように7世紀の墳墓遺跡から9世紀から11世紀のドヴァーラヴァティー、そして周辺からはその後に続くクメールの遺品が発掘されています。