の~んびり タイランド 2

タイの風景、行事や趣味の陶磁器を写真を中心に気ままに紹介しています。

シー・サチャナライ遺跡公園 (3)

2013年09月30日 | スコータイ
■「ワット・チャーン・ロム」の北西にある山「カオ・パノム・プレーン」の山頂に建つ「ワット・スワン・キリー」へ行きます。
「ワット・チャーン・ロム」と「ワット・チェディ・チェット・テーオ」を隔てている道路です。この道路の突き当りを右折して都城壁に沿って進むと坂道になります。道路は「カオ・パノム・プレーン」から「カオ・ヤイ」に連なる小山へ登って行きます。
道路の突き当りに草の枯れた土手があって、その上の黒っぽい横筋がラテライトを積んだ都城壁です。

坂道を登りきると城外へ出る門があります。

門の反対側に石段が築かれていて、登って行くと「ワット・スワン・キリー」の裏側に出ます。



山に沿った東北東向きの寺院で、仏塔の基壇に繋がってラテライトで出来た屋根付の小さな横門があります。かなり低い門の日陰でタイ人が休んでいました。入口の左右には崩れかけたヤックが立っています。

ヤックです。











仏塔の上には遊行仏が彫刻されています。



どこの仏塔でも装飾されていた漆喰の蓮弁が落ちています。

写真は「ワット・チャーン・ロム」の仏塔に装飾されている蓮弁です。しっかり仏塔を飾っています。

白釉の屋根瓦です。

山の西側には、たくさんの鷺が巣を作っています。

シー・サチャナライ遺跡公園 (2)

2013年09月28日 | スコータイ
■「ワット・チャーン・ロム」の東南方向に「ワット・チェディ・チェット・テーオ」が建立されていますが、その東南同一線上に「ワット・スアン・ケーオ・ウタヤン・ヤイ」、「ワット・ナン・パヤ」が建っています。
一番東南にある「ワット・ナン・パヤ」からです。この寺院には礼拝堂の西南壁にアユタヤ時代の漆喰装飾が残っています。経年の痛みもひどく、黄土色にくすんでいますが、精緻な装飾は一見の価値があります。中央のスリランカ様式の仏塔は15、6世紀頃に建てられています。仏塔には階段があって上部に仏像を安置した部屋がありますが、ここにも漆喰装飾が残っています。
寺院の門柱です。門柱を過ぎると礼拝堂があります。

礼拝堂です。左側に漆喰装飾が残る壁があります。









かっては真っ白の漆喰装飾だったのか、彩色が施されていたのか分かりませんが、実に精緻に装飾されています。剥離が進んでいくのが残念です。

仏塔側から東南を見ます。右の三角屋根が漆喰壁のあるところです。



階段が付いた仏塔です。

階段を上ると、祠堂になっていて仏像があります。参拝の人が多いようです。まだ新しい花や線香が供わっています。



内部の漆喰装飾です。
この寺院は北西に門がなく、崩れた塀の低い個所を乗り越えます。隣り合う寺院の「ワット・スアン・ケーオ・ウタヤン・ヤイ」の間には陶片がたくさん落ちています。屋根瓦、割れた壺など多種多様です。かっては木造の僧坊が並んでいたのでしょう。池が埋まって低くなったような場所やたくさんの井戸が残っています。

水は涸れていますが、かなり深い井戸です。



こちらは、角井戸です。下の方は石積みがありませんが、単に崩れたのか、横穴で別井戸と繋がっているのでしょうか・・・。

「ワット・スアン・ケーオ・ウタヤン・ヤイ」です。かっては都城内の重要寺院の一つで、六棟の礼拝堂をもつ大きな寺院だったようですが、現在は荒廃がひどく、写真のような状態です。

門の左右にある四角にくり抜かれた石は、寺院に参内する人が足を洗う水入れです。寺院遺跡の入口には必ずおかれています。
この門は「ワット・スアン・ケーオ・ウタヤン・ヤイ」の北西門を振り返って見ています。

「ワット・スアン・ケーオ・ウタヤン・ヤイ」から北西を見ると、すぐに「ワット・チェディ・チェット・テーオ」が見えます。


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「ドク・ケー・パ」という花です。たくさん散っています。

花を集めている女性に出会いました。この花を煮付けにして食べます。

友人宅でも料理されていました。繊維が多くて癖もなく、美味しくいただけました。

■このブログを書くためGoogle Mapで寺院配置を確認したところ、シー・サチャナライ西側遺跡を説明版から寺院の向きを「東向き」としていましたが、真東ではないことが分かりました。
チャリエン区域の「ワット・プラ・シー・ラタナー・マハータート」は東西線上に配置されて東を向いていますが、西側では過去七仏の「ワット・プア・コーン」が真東を向いて構成されている以外は、「カオ・ヤイ」の遺跡群が東北東、「ワット・パヤ・ダム」東からやや北向き、「ワット・サカイ・ナム」は東北、多くの寺院が東より北側に振れた線上に配置されていました。また、タオ・モー門の北にある「ワット・クディ・ライ」は南向きと、寺院建築の方角にはクメールのような厳格な基準がなかったようです。ちなみに「クー・ブア」にあるモン王国の遺跡群も一定の方向性はないようです。

シー・サチャナライ遺跡公園 (1)

2013年09月27日 | スコータイ
■42号窯址を見終わって幹線道路に出る所です。土管の埋設工事をしています。
遺跡付近の工事で掘返した後はつい気になり見てしまいます。

やっぱり出ていました。木の下に集められているサンカローク陶です。

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■シー・サチャナライ遺跡公園内にある寺院遺跡を紹介します。
まずは公園の中央に位置する「ワット・チャーン・ロム」です。
14世紀のスコータイ時代の建立です。一説には1285年にラームカムヘーン王の勅令でクメール軍との戦勝記念に建立したとも言われています。
39頭の崩れかかった象が基壇を支えています。三重基壇のうえにスリランカ様式の釣鐘形状の仏塔が建っています。













基壇には階段が設けられて上壇に上れます。上部基壇は四面に各々五室の壁龕があって仏像が安置されています。







仏塔上部にも仏像が祀られています。



黄色い房状の花はタイの国花で「ドク・ラーチャ・プルック」または「ドク・クーン」といいます。和名は「南蛮さいかち」、マメ科の樹木です。










サンカロークの古窯址 (3)

2013年09月26日 | スコータイ
■コ・ノーイ窯址に来ました。
「61号窯」からヨム川の沿って1km北へ進むと「42号窯・研究保存センター」があります。屋内展示館の前に築山の斜面を利用した大型の煉瓦製黄焔式地上窯が保存されています。手前が燃焼室で奥が煙道ですが、その右奥にも焼成室を共用する形で燃焼室が築かれています。大きな燃焼室の割に焼成室小さい構造です。燃料として「トン・ソン」という松の一種を用いたと言われていますが、温度を上げるのに苦労したようです。
地上に残っている窯址は、ラーンナーとアユタヤの戦闘が終わり、安定した社会になりサンカローク陶の輸出が再開され、隆盛を極めた1470年以降のものです。
サンカローク陶の輸出も明の海禁令の緩和と海外需要の主流が染付に変わり生産が衰えます。1569年にアユタヤがビルマに征服されると終焉を迎えます。

一段高くした焼成室との段差部分には溶けた降灰が厚く付着しています。繰り返し使い続けられたようです。

下部には使用した筒型トチンを再利用しています。

燃焼室を上から見ます。壁面の左上に焚口があります。

右奥の窯の燃焼室です。焼成室が共通になっています。こちらの窯が潰れて、焼成室を改造再利用して新しい窯が築かれたようです。

こちらも自然釉が厚く付着しています。

焚口です。やはり筒型トチンが再利用されています。

冴えた青色に焼き上がった青磁皿片です。

中央の褐色の皿は口縁を合わせて重ね焼きをした「モン陶」と呼ばれる陶片です。内面のみ化粧土を施してから釉掛けされています。また、この皿には高台があります。

同じ築山の右側斜面ですが、使用済みの筒型トチンを窯壁に再利用した窯が築かれています。窯は埋め戻されています。

「サンカローク窯研究保存センター」42号窯展示館の玄関です。

何層にも築かれた窯址です。







説明では一番深いところで7m掘ってあるそうです。

窯壁は意外に薄く積み上げてあります。

直焔式地下窯の底部です。
冒頭でサンカローク陶の終焉を述べましたが、では開始はいつ頃になるのでしょうか。諸説あって確定はしていません。東西交易の中継地で、モン族の国家があったラッブリーでは、古くは漢の陶器が出土しています。7世紀から9世紀の唐の青磁は広範囲に出土する陶器です。また、モン国家では寺院建築に大量のテラッコタを焼成していました。テラコッタが陶器へ発展したかどうかは分かりませんが、中国からもたらされた施釉陶器に大きな刺激を受けたに違いありません。モン族は11世紀にスパンブリーで無釉陶の生産を始めました。シー・サチャナライの先住民でもあるモン族が良質の陶土を産するこの地で陶器生産を始め、9世紀頃には陶器生産を始めていたクメールが進出して窯業技術を発展させた。と考えるなら10世紀から11世紀が妥当なところでしょう。スコータイ朝のラームカムヘーン王時代には元への朝貢があって、下賜品には大量の陶磁器もあったことでしょうし、人の往来もあって、製陶技術がさらに発展したのではないでしょうか。
14世紀始めを最下層から出土するモン陶の成立とみる意見もあるが、成立から100年も経たずに一大輸出産業に発展したというのは疑問が多いし、継続性が見えてきません。

ウタラデットのお寺から小僧(ネン)さんが見学に来ました。

寺院に入門したとこでしょうか、まだ僧衣を自分で着れないネンがたくさんいました。



ヨム川対岸にも窯址や寺院跡がたくさんありますが、洪水対策で掘削工事が大規模に進められています。遺跡が破壊されてる、涙の出そうな風景です。
後日聞いた話では、工事に伴い相当数の遺物が掘り返されたようですが、めぼしいものは工事業者が持ち帰ったとのことでした。

サンカロークの古窯址 (2)

2013年09月26日 | スコータイ
■「サンカローク窯研究保存センター」の向かいに「プラサート」というサンカローク陶器を製作、販売する店があり、飲み物を買って休憩です。店の看板には「古美術店」と表示されています。古陶磁器が豊富に出土するときは、古美術を扱っていたのですが、品薄になった現在は家族で製陶、販売するようになりました。





店の前のコンクリートに古い陶片がはめ込んでありました。風雨に曝されて汚れていますが、珍しい鉄絵魚文皿の陶片です。

店内です。鉄絵で花や魚を描いた陶器がたくさん並んでいます。記念に皿と鉢を買いました。

お皿です。伝統模様を描いています。

瓶、壺、湯呑と何でもあります。

こちらは陶製人形です。スコータイ時代は家に病人が出ると平癒祈願のため人形の首を折り、村外れの三叉路に食物、水と一緒に供えたようです。子供が生まれても無事に成長するように同様に村外れの三叉路に供えました。仏教徒であるタイ人は精霊崇拝も併せ持ち、「ピー」と呼ばれる精霊が病人や赤ん坊の「死」迎えに来るのですが、村外れにある人形を見た「ピー」は「この人(赤ん坊)はすでに亡くなった。」と諦めて帰って行き、その後も長生きができると信じられていました。戦に行く兵士には、やはり首を折った像を木の下に埋め、無事に帰還することを祈りました。同じ理由で、人形の顔に傷をつけ小舟で流す所もあったようです。「シィア・カバーン」と呼ばれる風習です。現在出土する人形はほとんど首を折られ、大きさや釉調の合ったものを継いで古美術店に並んでいます。中には釉調を合わせるため、男性の体に女性の顔を継いだり、その逆をしたものが多々あります。
人形で一番多いのは子供の成長を祈った、赤ん坊を抱いた母親です。闘鶏、鶏、楽器、うちわ、お金や仏像を持った人形、その人の職業、兵士であれば階級などの違いに合わせて人形を供えたようです。

奥のガス窯で焼成します。

店の主人です。





焼成前の塑像がたくさん並んでいます。

不良品を捨てた物原です。サンカロークだけでなく、各地の模様に挑戦しているようです。

穴窯も築いてあります。燃料となる竹や雑木もたくさん用意されていますが、焚口の煤をみるとほとんど使われていないようです。