の~んびり タイランド 2

タイの風景、行事や趣味の陶磁器を写真を中心に気ままに紹介しています。

古都・ペグー (四面釈迦座像)

2014年09月30日 | ミャンマー

チャイプーン・パヤーに来ました。
ペグー(ハンターワディー)王朝(1287年~1539年)、第15代国王のダンマゼーディー王統治時代の1476年にモン族の四姉妹によって建立されたと言われています。

「パヤー」とは仏塔(サンスクリット語のストゥーパ:卒塔婆)を意味し、仏舎利などの釈迦の遺物が納められています。英語ではパゴダとなります。
東西南北に過去四仏を配した高さ30mの仏塔です。過去四仏が大きくて一見仏塔には見えませんが、よく見ると四角柱となった光背の上に控えめな仏塔が確認できます。



ガイドと運転手です。

仏塔の前を通りかかった親子です。









次に寄った寺院です。
名前も由来も分かりません。取敢えず三宝にお祈りです。







午後2時です。ヤンゴンへ戻ります。



有料道路の入り口です。

タイでもよく見かける検問ゲートです。

約30分の走行で、出口料金所です。

「1939 TAUKKYAN WAR共同墓地 1945」の碑文が彫られています。

ヤンゴンは起伏の多い土地です。





ヤンゴンの中心に近づくにつれ水掛け祭りの特設ステージが増えてきます。









水掛け祭り期間中はレストラン、デパート、土産物屋、ボージョー・アウンサン・マーケットなどほとんどのお店が休みになっています。
途中で休憩する店を探しましたが、ほとんどの店が閉まっており、営業中の店は、来店客で満杯、入るスペースがありませんでした。

古都・ペグー (「ビルマの竪琴」の舞台シュエターリャウン・パゴダ)

2014年09月29日 | ミャンマー

水掛け祭りです。いたる所で水を入れたバケツや桶を持った子供たちが通りかかる獲物を待っています。
タイではピックアップ・トラックに満載した水をかけて回りますが、ミャンマーでは車の保有者も少なく車で走り回るほどの余裕はまだないようです。



次に訪れたのが「蛇寺」です。正式な寺院名は覚えていません。





塔の上で瞑想する仏陀を大蛇が守っています。

ご利益のある大蛇様でしょうか、見物の善男善女が絶えません。





お寺の前でも水の洗礼を受けます。







シュエモード・パヤーの門前を再び通って昼食に向かいます。



午前11時43分、レストランに到着しました。昼食です。門の脇には、いかにもビルマという、感じの良い壺が置かれています。

レストランの入り口にはタナカと砥石、水が用意され鏡も置かれています。タナカとは女性や子供が頬に塗っている白い粉で、原料は砥石の上に置かれた木の幹を擂って作ります。擂った木粉に水を垂らしててペースト状にして、頬、額、鼻梁などに塗ります。
タナカはミカン科の樹木で、樹高は最高で十数メートルに成長し、インドから東南アジアに分布しています。ミャンマーでは、バガン周辺の中央乾燥地域が主生産地と言われています。
粉末には芳香があり、顔に塗ると涼感があって、日焼け止めや保湿、殺菌効果あるようです。

食後の客が、店を出るときに塗り直すためのサービスです。顔だけに無造作に塗っているのではなく、おしゃれとして工夫して塗るのでしょう。

テラスからシュエモード・パヤーが見えます。

午前11時55分、まだ他のお客はいません。





レストランの女性です。タナカの塗り方を見ると、まず顔全体に薄く塗り、アクセントとして頬、顎を濃く塗っています。

食事を終え、表に出るとお土産売りの女性がたむろしています。この女性のタナカは汗で流れています。流れても気にしなくていいようです。
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次に向かうのがシュエターリャウン・パヤーです。





やはり屋根のある参道を進みます。

参道で売っていた仏像です。

ミャンマーでは僧侶によく出会います。

写真を撮影すには300チャット(チャットはミャンマーの通貨単位)要ります。
当時の為替レートが1ドル=641チャット、1ドル=83円です。実際には1ドル=825チャットで交換していますから、チャットの10分の1が円換算価格になります。
従って、撮影料として30円の徴収です。
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300チャットを払うと、この券をくれます。輪ゴムが付いていて手首に付けるようになっています。

100チャット紙幣です。
200チャット紙幣です。

こちらは午前中に行ったシュエモード・パヤーの写真撮影料支払証で穴に輪ゴムが通されていて手首に付けるようになっています。落とすと困ると思いポケットに仕舞っていましたが、誰も気の留める人はいないようです。
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994年、モン族のミガディガ王によって建立された寺院です。全長55m、高さ16m、足のサイズは7.7mの寝釈迦像です。









寝釈迦像の台座の背面には寺院縁起の彩色レリーフが描かれています。

■ミガディガ王は異教を信仰していました。ある日、王子の一人を生贄として森に追放しました。
王子は仲間と従者を従えて森へ向います。


森へ向う途中のスワンナプーミ村で仏陀を信仰するモン族の娘、ダラターウに出会います。
王子は彼女の信仰を守ることを約束して結婚、王宮へ連れて帰りました。


彼女は異教を崇拝せず、自室で仏陀に祈りを捧げます。異教の神官は、国王に訴えます。
国王は異教の神像の前で彼女と従者の処刑を命じます。


処刑の前に彼女が三宝に祈りを捧げると、異教の神像は粉々に砕け散ってしまいました。
驚いた国王は異教神の信仰を間違いだと悟り、王子と彼女を許して仏教に帰依します。
国王は寝釈迦像を建造して崇拝することにしました。


ミガディガ王は命によって、国民を異教崇拝から仏教に改宗させました。994年にシュエターリャウン・パヤーが落成、巨大な寝釈迦像を安置しました。

タイル張りの床はひんやりとして昼寝には持って来いの場所です。たくさんの人が休んでいます。

仏陀の枕にも仏伝図が描かれています。

太子が切った頭髪を空中高く投げたところです。





基壇に貼られているのは高額奉納者名です。大半はタイ人の名前ですが、日本人の名前もあります。


その後、ペグーはビルマ族の侵攻で廃墟となり、ペグー王朝の滅亡とともに寝釈迦像は忘れ去られてしまいました。
第二次英緬戦争でイギリス統治下となった1881年に、鉄道建設の土砂を採集するため小山を掘ったインド人技師が埋もれていた寝釈迦像を発見しました。

参道のお土産屋です。


ミャンマーの旅・モンの古都ペグーへ

2014年09月26日 | ミャンマー

少し古くなりますが、2011年のミャンマー旅行を紹介します。
4月13日から16日までの3泊4日の旅です。ソンクラーン初日の出発です。スワンナプーム国際空港を午前7時55分発のタイ航空TG-303便にてヤンゴンへ向かいます。
午前8時7分、航空機は滑走路に向かいます。タイの4月は雨季にはまだ早く快晴日が続くはずですが、今年は異常気象で空には真っ暗な雨雲が立ち込めています。

離陸待ちの後続機が続きます。

バン・ナー高速道路のバン・プリー料金所付近を眼下に見ながらヤンゴンへと向かいます。1時間15分の飛行時間です。タイとの時差が-30分あって、到着予定は午前8時55分です。

蛇行して流れる大河バゴー川を越えます。
古の都ペグーは、この川を利用した交易で繁栄したのでしょうか・・・。

ミャンマーも乾期のはずですが、眼下の農地は黄緑色をしています。



あちこちに点在する仏塔(パゴダ)がミャンマーを実感させてくれます。



午前8時44分、ヤンゴン国際空港に無事着陸しました。初ミャンマーです。
入国審査へ向かう途中で空港職員に「日本人か?」と呼び止められます。「そうだ」と答えると「こちらへ来い」と進行コースから外されます。
カンボジアやラオス、タイですら陸路の入出国では20バーツから100バーツの賄賂を要求しますが、ミャンマーでは国際空港ですら金銭を要求するのかと思っていると、放射能検査をするとのこと。
「僕はタイから来たのであって、福島の原発事故とは関係がない」とパスポートを見せて説明、検疫官も納得して無事解放されました。まさか福島原発事故の影響がここまで及んでいるとは知りませんでした。
ちなみにタイではそんな検査はしていませんでした。

出迎えに来ていたガイドのホン君です。

空港の外ではロンジー(巻きスカート)姿のタクシーの運転手たちが客待ちをしています。


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ミャンマーも水祭りの最中です。あちこちに舞台が組まれてホースで放水しています。



まずバゴー(ペグー)へ向かいます。ヤンゴン国際空港の北東70kmにある都市です。
ヤンゴン=マンダレー高速道路入り口です。料金所の時計は午前9時37分を示しています。

■南下したビルマ族がバガンに建国するのが849年です。ビルマ族が南下する以前には上ビルマにピュー王国(驃国)、下ビルマにはタトゥン、ペグー(ハンターワディー)にモン族が500年頃から港市国家を築いていました。832年雲南地方の南詔の攻撃を受けピュー王国は滅亡、835年にはモン族の港市国家も攻撃を受けます。
南詔は戦利奴隷として住民を昆明へ連行します。こうして出来た上ビルマの空隙地帯に南詔に従属していたビルマ族が逃走、849年イラワジ川流域のパガンに建国します。
1044年に即位したアノーヤター王(在位:1044年から1077年)は東部のシャン族、下ビルマのモン族のタトゥン王国を征服し覇権をビルマ全土に拡大、パガン王朝(1044年~1299年)が勃興します。
パガン五千坊と呼ばれ、カンボジアのアンコールワット、インドネシアのボロブドゥール遺跡と共に世界三大仏教遺跡としてパガン遺跡を遺したパガン王国の繁栄も約200年後の1287年にフビライ・ハンの率いる元の襲来で陥落します。陥落後も王統はしばらく続きますが、1300年にはシャン族のインワ王朝(1365年~1555年)がとって代わります。

パガン陥落後の下ビルマでは勢力を盛り返したモン族がペグーを中心にペグー王朝(1285年~1539年)を興します。

ビルマ族はアヴァを拠点とするインワ王朝とペグーの中間に位置するタウングーに逃れ国家を建設します。
1538年にペグー王朝を滅ぼし、モン族を支配下に置きペグーに遷都、ビルマ族のタウングー王朝(1531年~1752年)が誕生します。
1557年にはチェンマイ王国を占領、属国とします。
1568年に上ビルマのインワ王朝を滅ぼし版図を最大にします。
1570年に前期アユタヤ王国を陥落し、1571年からラーンサーン王国へ侵攻を始めます。
しかし国内ではタウングー王朝の圧政に対してモン族の反乱が勃発、1599年には国王が殺害され、1643年に王都をアヴァに移します。

反乱を起こしたモン族は1740年に再度覇権を勝ち取ります。1752年にモン族はアヴァを陥落させタウングー王朝(ニャウンヤン王朝)は滅びます。

ビルマ族はシュエボー(コンバウン)で再興を図り、1753年アヴァを奪回、1757年ペグーを攻略し、寺院はことごとく破壊、経典などは焼き払われ廃墟となりります、モン族は次から次へと虐殺されました。
コンバウン王朝(1752年~1885年)は1767年には後期アユタヤ王朝を滅亡させ隆盛を極めますが、インド方面に進出し、イギリスと敵対することとなります。
三次に亘る英緬戦争の末、コンバウン王朝の首都マンダレーは陥落、1886年にビルマはイギリス領インドの1州となります。

42分間の走行で高速道路を降ります。
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午前10時22分、バゴーの市街に到着です。

まずミャンマー第一の高さ114mを誇る「シュエモード・パヤー」へ参拝です。











参道前に腰かけていた若者たちです。

駐車場で托鉢をしていた僧侶です。



パゴダへ通じる参道です。水祭りですが、意外と参拝者が少ないようです。





創建は825年で、当時は23mほどの高さだったようですが、1385年に84m、1796年に91mとなり、1917年の地震による尖塔部崩壊の補修で現在の高さになったようです。
仏塔には仏陀の遺髪が2本納められています。

ビルマでは寺院の敷地に入る所で靴を脱ぎ、素足となります。
気温は40℃近くまで上昇、裸足生活に慣れない日本人にとっては、のんびりと日向を歩くことはできません。足裏を火傷してしまいます。













ビルマ人はカメラを向けると、照れて顔をそむけてしまいます。

彼女が休んでいる木に実っていました。

1917年の地震で崩壊した仏塔の尖塔部です。






















仏塔の周りには大きな木が枝を張り日陰を作っています。根元には水を入れた壺があって渇きを癒すことができます。
素焼きの壺は、浸透した水が気化して熱を絶え間なく放出するため冷水となっています。









民家のトイレを借りました。勿論、使用料は払います。その時に施錠されていた扉を開けてくれた女性です。



モン族とビルマ族の間で繰り返された興亡の歴史で常に重要な都市であったペグー(バゴー)ですが、コンバウン王朝によって壊滅されて以降、表舞台にでることはなく、市街にかっての栄華を窺うことはできません。

ウボン・ラーチャターニーのろうそく祭り(4)

2014年09月19日 | ウボン・ラーチャターニー
■いったんホテルに戻り荷物をまとめて、再びトゥン・シー・ムアン公園へ来ました。シー・ナロン通りはパレードの開始を待つ山車が並んでいます。
早朝見かけた女性たちです。山車の上に腰掛けてスタートを待っています。







蜜蝋が溶けないように注水して温度を下げます。













三美人です。























■ウパーラット通りにはVIP席や観覧席が設置されて、スタート点になります。パレードは北行しながら市街を循環し地区の寺院へ戻って行きます。
主催者の先頭集団です。

















警備を担当するのは軍人です。

先頭集団が過ぎてから間をおいて、一番目の山車が現われました。

















観客もいっぱいになっています。









ろうそくの山車を従えて、踊りのグループが次々と通り過ぎて行きます。















































先頭の水色に赤色の縁取りをした着物に白地の肩掛けは、ベトナム北部から移住したプー・タイ族の礼服です。
























■2014年は第113回目の開催と県政222周年を記念した「ろうそく祭り」で盛大に執り行われたそうです。

ウボン・ラーチャターニーのろうそく祭り(3)

2014年09月18日 | ウボン・ラーチャターニー

「クルン・トーン・ホテル」前のシー・ナロン通りを西へ900m行くと「トゥン・シー・ムアン公園」へ着きます。公園を囲むシー・ナロン通り、ラチャブット通り、パロー・ランリット通りの約750mの間にぎっしりと山車が並んでいます。
午前6時28分、早朝の人出が少ないトゥン・シー・ムアン公園へ、と思ってやってきたのですが、すでにたくさん人たちが集まっています。




























屋台もやって来て、すでに商売をしています。









公園を囲む道路に置かれた山車を順番に見て回ると午前7時58分になっています。公園内を抜けて先頭の山車へ戻ります。

午前8時5分。パレードの早いチームは準備が整っています。