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湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

☆ミヨー:弦楽四重奏曲第1番

2018年01月31日 | フランス
○WQXR四重奏団(POLYMUSIC RECORDS)LP

第一ヴァイオリンに技術的不安定さを感じる。アンサンブルとしてはけして物凄く上手くはないとは思うが、他メンバーはなかなかである。WQXRはNYのラジオ局で、当時の放送局はたいてい放送用の専属楽団をもっていた。この団体のチェリストのハーベイ・シャピロ氏は現在齢95を数えてジュリアード音楽院マスタークラスで教鞭をとっている。もともとトスカニーニ下のNBC交響楽団で10年近く演奏をおこない最後の三年は第一チェリストの座にあった。そのあとプリムローズ四重奏団で4年活動、さらに以後16年間この放送局楽団をつとめあげた。スタジオミュージシャンとしてしばらく各レーベルをわたったあと、渡欧。名声が高まり、ミュンヘンではカサルスと並び賞されるまでに上り詰めたが、台北のレストランで腰を打ってのち教職に転換、1970年からジュリアードに教授として就任以後、名教師として知られるようになった。

弦楽四重奏曲以下の器楽曲を末流ロマン派(そうとうに幅を拡げた私の定義内)の範疇において少なからず書いた作曲家の、習作を除く作品番号1番と2番にはある種の共通した傾向がある。1番は折衷的だが当時前衛的とみなされた要素をふんだんに盛り込んだ野心的な作風により、散漫でまとまりに欠けるもののマニアックに読み解くのが面白い。物凄く乱暴な例をあげればグラズノフのカルテットやアイヴズのピアノソナタである。対して2番は洗練され本当の個性が最小限の編成の中に純度高く反映されたもので、一般にアピールする率が極めて高いものの雑多な面白さには欠ける。従って情熱的に聴きこんだあと一気に飽きる可能性もある。ショスタコは例外的に書いた時期が遅いこともありここに1番がくるが(プロコもかな)、ボロディンなどはまさにこのパターンである。ミヨーももろにそうである。この1番は書法的にあきらかに「人のもの」がたくさんつぎこまれ・・・たとえばドビュッシー、ロシア国民楽派、新ウィーン楽派といったもの・・・、本来の縦のリズム性と歌謡的な旋律を基調とした楽天性は余り浮き立ってこないが、よくよく聴くと後年あきらかになる独特の複調性や高音処理方法が、後年は殆ど浮き立ってこない清新なひびきの連環による観念的な楽曲構成の中に織り込まれている。その点で欲張りな作品でありそこが野心ともいうべきものだろう。正直あまり好きではないのだが、2番のあからさまにわかりやすい世界との対比できくと、ボロディンのそれに相似していて面白い。世代的にウォルトンのニ作品との相似形ともとれるだろう・・・ウォルトンは初作でさらに前衛を狙っていたが。

演奏的に特筆すべき部分はあまりないが、不可でもない。○。

※2006-10-25 16:48:45の記事です
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☆ミヨー:交響曲第10番

2018年01月31日 | フランス
○フランシス指揮バーゼル放送交響楽団(cpo)CD

全集盤の一枚。よく整理された分析的な演奏で、透明感や細部の仕掛けの聞き易さに一長がある。美しい反面勢いに欠け(もっとも三楽章は素晴らしく愉悦的)、ミヨー自身が強調していたメロディを始めとする曲の聴かせどころが明確でないところや、弦楽器の薄さ(じっさい本数が少ないのだろう)も気になるところだが、全体のバランスがいいので聞きづらいほどではない。戦後ミヨーの職人的なわざが先行し実験性や閃きを失った、もしくは単にオーダーメイドで流して作ったというわけではない、しっかりした理論の範疇において交響曲という分野で4番で確立した自分の堅固な作風を純化していった中でのものであり(ヒンデミットを思わせる明快な対位法がこのようなしっかりした構造的な演奏では非常に生きてくる)、アメリカのアカデミズムにあたえた影響を逆手にとったような響きがいっそう際だっている点はこれがオレゴン州100周年記念作だからというより元々の作風の純化されたものという意味あいの中にあるにすぎない。余りにあっさりした断ち切れるようなフィナーレも元々旧来のロマン派交響曲の御定まりの「形式感」に反意を持っていた証であろう。もっとも単純にこの曲の四楽章の落としどころを失敗しただけかもしれないが。録音秀逸。ミュンシュらやミヨー自身のやっていた流れ重視の主観的な指揮とは違う、繊細な響きと構造の明快さの魅力がある棒だ。○。

※2006-07-10 09:18:42の記事です
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☆オネゲル:勝利のオラース

2018年01月30日 | フランス
○タバハニク指揮ORTF(INEDITS.BARCLAY)LP

オネゲルはわかりやすい作品はいくらでも作れるが真摯な作品は難しいとかいったことを書いていた気がする。素人聴き晦渋な作品のほうが満足度が高かったようだ。この曲を自身の最高傑作と考えていたようだが、晦渋。ミヨーが初期に書いていた「とにかく前例のない個性」、一時代前の前衛的作風に似た印象もある。誇大妄想的で激しい感情と繊細な気分のうつろいを劇音楽のフォーマットにのせて描き、これに合唱が加わったらそうとうの大作として印象も変わっていただろうなあと思う。タバハニクはジョリヴェ的な娯楽性をそんな曲にも見出していると言ったら過言だろうか。精緻さと力感のバランスがよく、だが「バランスがいい」という言葉の印象とは異なる意思的なものをかんじる。○。

※2010-04-30 13:54:10の記事です
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☆ミヨー:ハープ協奏曲

2018年01月25日 | フランス
○マーン(hrp)P.ミュール指揮ORTF(FRENCH BROADCASTING PROGRAM)LP

ミヨーのえがく南欧の牧歌がハープの神秘的な典雅さを身近な調べに見事に変換して美しくやさしく聞かせている。ミヨーの作風はもうワンパターンの安定したものだが同時代の円熟した作曲家たち同様楽器の組み合わせや新しい響きの導入によって幅を持たせようとしており、たんなるドビュッシーの末裔ではない。わりとしっかり長めの形式的な作品である点にも仮称反ドビュッシイストのリアリズムの反映が聴いてとれる。演奏はクリアがゆえに少し音が鋭過ぎて、浸るべき曲なのに浸れないもどかしさがあった。録音もよくない。

※2011-07-07 23:17:48の記事です
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☆バロー:交響曲第3番

2018年01月24日 | フランス
○ミュンシュ指揮ORTF(ACCORD)1961・CD

アンリ・バローはORTFの長きにわたる音楽監督として知られる。この作品はオネゲルやメシアンなど想起する折衷的な作風ではあるが、いかにも新ウィーン楽派的な前衛ふうの晦渋さが目立ち、好き嫌いをものすごく分けるだろう。ミュンシュは繊細な部分に拘泥せず速いスピードで求心的な表現をもってのみ曲の本質をえぐり出す。そのため色彩感がやや薄く、アメリカの凡庸な現代交響曲のような生気のない音の運動のみ聞こえるところもある。辛うじてステレオゆえ、グリッサンドの応酬など前衛的な面白さについては聴きとりやすいものではあるが、よほどこの時代か、ミュンシュに思い入れでもなければ聴く必要はないだろう。○にはしておく。この音源、現在CDは入手不能だが、itunesでダウンロード可能(amazonフランスからもダウンロード可能だが、周知のとおりamazonは日本サイト以外からのダウンロードができないのでmp3音源として取得は不可能)。

※2011-01-25 18:30:06の記事です
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☆サン・サーンス:アフリカ

2018年01月21日 | フランス
○作曲家(P)(ARBITER他)1904/6/26・CD

2006年初出「フランス・ピアノ伝統の創始者たち 1903-1939」所収。驚くべき初出音源も含むこのSP復刻を中心とする良心的なレーベル、雑音慣れしているならその状態の悪さをおしても出そうとする心意気に共感してどれでも聞いてみてほしい(新しい録音や知られざる演奏家モノも出している)。この曲はサンサンが積極的にオリエンタリズムを「あくまで素材として西欧音楽のイディオムに取り入れた」ものの典型である。更に過去のモーツァルトなどの作曲家にもこのような異国ものはしばしば見られるが、その延長上にあるとも言える。旋律とリズムに新奇なものを取り入れているものの全体としてこれは非常に巧く西欧化された、というかサンサン化された職人的作品となっていて、ピアニストの腕をそつなく見せ付けることのできる小品にすぎない。サンサンの腕は言うにおよばず、けっこう録音を残しているがいずれもパラパラ胡麻を撒くようなそつない指先のタッチがかっこいい。ケレン味の一切ない品のいいものだ。短いのでこれ以上は言及不可。○。

※2007-12-03 13:17:35の記事です
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☆オネゲル:交響曲第3番抜粋

2018年01月19日 | フランス
○ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団(DA:CD-R)1966live

表記は2番だが3番の誤り。圧倒的に2楽章、緩徐楽章の美しさが光る。とにかく弦楽器、厚みのある音響のうねりが憧れと慟哭と悲哀を映画音楽的なスレスレの感傷を煽って秀逸である。ハリウッド映画音楽といってまず私が思い浮かべるのはストコフスキの演奏様式だが、しかし元の楽曲が深刻なものを孕んでいるだけにこの演奏はそういった表面的な美観に留まらない激しい感情の起伏を呼び覚ます力がある。そう、弦楽器だけでは決して無い。総体の響きはモノラルの(けして悪くない)音響の中でも圧倒的に迫ってくる。この迫真味はオネゲルの超絶的な書法だけではなく、ストコフスキという怪物のなせるマジックとしか言いようが無い。この中間楽章はほんとうに、素晴らしい。緻密でロジカルな1楽章なども、弛緩なく攻撃的な音楽が形づくられているが、心惹かれるのはやはり、RVWやミヨーにも通じる田園の穏やかな風景とそこにたなびいてはまた消える暗雲の風景、美しいヴァイオリンの響きと不協和であっても絶妙のバランスをもってそうではなく聞こえるコルネット以下ブラス陣の朗誦、優しい表情に戻ったところでさびしげに一人歌うフルートからクラリネット、これら総体がたとえようもなく美しく、最後に深刻な音楽の雲間から一筋の光をさしかけられる場面の感傷性といったらたとえようもなく、オネゲルはそうだ、「夏の牧歌」を作った作曲家なのだ、というところに立ち戻らせてくれる。ストコは強烈なだけの解釈者ではない。3楽章は途中まで収録。やや表層的に重低音音楽がホルンにより提示され始めると音楽は元の世界へ戻ってゆくが、旋律性はけっして失われない。構造に埋没しがちな旋律を鮮やかに浮き彫りにしつつ進む途中で、録音は終わる。どうせなら全部聴きたいところだった。○。

※2006-10-15 20:36:42の記事です
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☆ミヨー:プロヴァンス組曲

2018年01月16日 | フランス
◎ガウク指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(MELODIYA他)

こりゃ名演だ。大変だ。南フランス国民楽派(南欧ユダヤ人集落民謡楽派)ともいえる楽曲をしばしば書いたミヨーだが、アメリカ時代はとりわけ民族問題をこえて自国を心配しこのような楽天的な民謡に基づく牧歌や舞曲による組曲をえがいている。しかしそれは敢えてローカライズを演じたような薄っぺらい演奏様式でやられることが多く、ミヨーがとくにアメリカで軽音楽作家とみられがちなゆえんの一つでもあるのだが、ガウクは全く異なる地方からフランスを応援するかのような(ステレオのきわめて明瞭な録音ゆえ戦後演奏ではあるのだが)気合の入った演奏をしかけており、ミュンシュのような我の強いやり方ではなく、とても整えられたうえの揺れの無い力強い表現が「ローカル音楽ではないプロヴァンス組曲」の純粋な発現と感じられた。自作自演もあったと思うが全然に巧い。ガウクってこんな技術に至っていたのか・・・もっと復刻され、普及されるべき「ムラヴィンスキーの師匠」である。プロヴァンス組曲の一流の名演。◎。

ボックス廉価復刻されたと思う。

※2007-02-17 17:19:33の記事です
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☆シャルパンティエ:組曲「イタリアの印象」

2018年01月13日 | フランス
○作曲家指揮交響楽団(PEARL/COLUMBIA他)1928/5/9・CD

同姓フランス有名人が何人かいてややこしいのだがこれは自作自演が残せる時代に活躍したローマ賞作曲家。マーラーなどと並んでカリカチュアが描かれるなど同時代では(短期間であったようだが)華々しく活躍したライトクラシック系歌劇作曲家である。といっても非常に手馴れた鮮やかな書法が反映され、フランクより更に古い感じは否めないものの、4曲目の近代ロシア音楽のような煌びやかな叙情はなかなかに耳楽しい。指揮者としても活躍しただけあって演奏は若干固い程度でよく統制のとれた、この時代にしてはだらけたところのないものとなっている。オケの奏法もオールドスタイルでもわりと爽やか。ビゼーあたりのロマン派音楽が好きならどうぞ。色彩性はファリャを思わせるところもある。SPはやたら沢山出ていたようだ。

※2009-09-02 10:10:45の記事です
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☆ミヨー:ルネ王の暖炉組曲

2018年01月12日 | フランス
○デュフレーヌ(FL)ORTF木管五重奏団(EMI)1953・CD

明晰なモノラル後期の音。ORTFメンバーらしい繊細なそつのない音色で美しいこの曲を美しく表現しきっている。ミヨーはヴァイオリン出身の人だが(勿論この時代の人なのでいろいろ吹き弾き叩きはできたのだが)弦楽器よりも木管を使った室内楽のほうがアピールできる美質のある人だったとこのような曲をきくと思う。擬古典の範疇にある楽曲でリズム要素には南国の変則的なものも含まれるものの全体的に南欧風の牧歌的な微温性を保ったものになっており、その表現には柔らかい音色の木管楽器だけによるアンサンブルが最も適している。ミヨーは大編成の曲よりこのような小編成の曲のほうが工夫の凝らしようがないぶんわかりやすい(ミヨーは工夫しすぎるのだ)。ラヴェルの管弦楽組曲作品を彷彿とする旋律と構造の繊細なバランスがここにも存在して、リズムさえ克服すればアンサンブル自体はそれほど難しいものはないと思うが、声部間の音量や音色のバランスには配慮が必要である。しかし木管アンサンブルという性質上、ロシア吹きやアメリカ吹きする人でも織り交ざらないかぎり妙なバランスになることもない。美しくさっとした演奏で、如何にも現代的な「オケマン」による演奏、何か突出した個性を聞きたかったとしたらデュフレーヌのそつのなさ含め裏切られるかもしれないが、楽曲の要求はそこにはなかろう。◎にはしないでおく。

※2007-03-16 09:49:27の記事です
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☆ジョリヴェ:交響曲第1番

2018年01月11日 | フランス
○作曲家指揮ベロミュンスター管弦楽団(LYRINX,INA)1963/9/7live

冒頭のバスドラの打撃からいきなりもうウォルトン円熟期の世界である。ご丁寧に高音楽器のトリッキーな装飾音までウォルトンの2番シンフォニーを彷彿とさせるものである。音要素は確かにフランスの伝統+エキゾチシズムを思いっきり取り入れていて、構造的な要素は完全にオネゲル、音響やポリリズム要素的にはバーバリズム時代のストラヴィンスキー、そういった両端楽章を持ったけっこう取り付きやすい感じになっているが、起承転結がはっきりせずどこか散漫でブヨブヨしているというか、ジョリヴェがメシアンと違うところで、やっぱりどこか脇が甘い。でもそういう言い方でいくとウォルトンなんか脇から腐臭が漂うとか書かなければならなくなるので、同時代同国内の相対的かつ理知的な評価ではなく、あくまで素直に聞けるかどうかで判断すべし。2楽章のドビュッシーと新ウィーン楽派が融合したような静謐で禁欲的なのにエロティックな世界は非常に効果的で私は好きである。ジョリヴェは後の作品になるともっと削ぎ落とされそのぶんパーカスが増強されておおいに客席からのブーイングを買うようになるが、世界観は余り変わらない。エキゾチシズムとともにアフリカンなリズム要素が一層強められるものの、メシアンのような計算しつくされ厳選された音響やラインを芯に持たないせいか、相変わらずオネゲル的な旧来の協奏型式に拘るせいか、こじんまりした感じがありアピール度は低い。構造的かと思いきや弦楽器なんて殆どユニゾンで刻んでいたりして、アイヴズぽいと一瞬感じるのはそういう弦楽器に冷淡な書法ゆえだろう(メシアンも同じようにユニゾンが多いが芯がまったく異なる)。2番とほぼ同じような音響世界の上に展開される有名な「赤道協奏曲」が今や殆ど忘れられているのは何もイデオロギー的な音楽外要素での時代の趨勢だけではない。音響要素の追求ゆえ拡散的な方向に向かったメシアンに対して、リズム要素の強化により凝縮の方向に行くべきジョリヴェが何故か拡散しようとしたのが交響曲という型式であり、1番は前時代同時代の交響曲を意識した型式のわりとはっきりした聞きやすいものだが(独特のスケルツォへの解釈を表現した3楽章も特筆ものである)、ここが限界のようにも思った。2番がジョリヴェらしさが一番出ているとすれば3番は前衛を意識しすぎ、1番は過去から脱出できていないというか。1番のエキゾチシズムは伝統の意識という意味ではルーセル的でもある。2番で完全にジョリヴェになる。ジョリヴェの指揮は達者だったが(でないとこういうリズムや音響構造は処理できないだろう)この演奏も過不足なく、オケが意外とよくついていっているのが聴きもの。モノラルで悪くない録音。○。

※2007-11-18 14:56:03の記事です
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☆プーランク:田園コンセール

2018年01月09日 | フランス
○ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団、プヤーナ(Hpscd)(DA:CD-R)1966live

こういう曲は聞けるときに聴いておかないと聴かないまま何十年もほうっておくことになる。プーランクには「びみょうな」曲が多いがこれなどプーランクのイメージをかなり決定付けるような世俗性と擬古典性のミキシングミュージックで、ラジオで好きになった向きも多いだろうが、私はどうにも、苦手な部類である。だいたい六人組なんてストラヴィンスキーの影響がどうにも時代的に強いわけで、これもストラヴィンスキーの新古典主義に非常に近い擬古典作品である。単線的に旋律をつむいでゆく、もちろんプロフェッショナルな技巧の裏づけはあるにせよ結局かなり単純な構造の楽曲であり、更にハープシコードという音量の小さな楽器をソロに迎えなければならないことからも、管弦楽は合いの手的に挿入し絡みは最小限になっている。簡素なのはプーランクの持ち味でもあるが、オケの各パートにソロ的な動きが多いのもプーランクらしさではある(オネゲルやミヨーとは対極だ)。深刻な宗教的作品とは一線をかくした世俗的な古典音楽の世界を楽しめる人は楽しんでください(投げやり)。でもストコフスキはさすがです。大管弦楽の響きをハデハデにぶちあげるストコ流儀が、ここでは巧く曲構造を壊さないように配慮されて響いている。録音を前提としていないライヴであるにもかかわらず、よくハープシコードの金属的な響きが捉えられている。もちろん爽やかな朝の田園を演出する配慮は無いが(録音音質的にもそれを聞き取るのは無理)、素直にこういう音楽をどう楽しめばよいのか、別に古典を意識しなくても楽しめるんだ、という一案を提示してくれている。とにかく終始勢いがあり、プーランクが好むソリストとソロ楽器の丁々発止のかけあいが速いスピードの中でもしっかり聞き取れる。ソリストも楽器を壊さずによく響かせている。ストコはやはり弦楽器主体の音楽だと素晴らしい響きを引き出してくれる。古典的な小編成の演奏に一長を持っている。いい演奏です。拍手も盛大。○。

※2006-10-15 20:34:48の記事です
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☆フランセ:弦楽三重奏曲

2017年12月31日 | フランス
○プーネット(Vn)リドル(Va)ピニ(Va)(PYE,nixa)LP

ウェストミンスター録音。この才気溢れる作品はイギリスの中庸の名手が集まって制作された中の一曲で、一楽章せわしないミューティングされたアレグロの、普通激烈にやるからミュートが生きる筈なのに、穏やかな緩やかな音楽に、そのてのよくある客観解釈かと思ったら大間違い。ミュートを外したスケルツォの丁丁発止のスリリングでも乱れが一切ない凄いスピード、これはフィナーレでもそうだけど音色の個性が比較論で中庸な面を除けば(フランスやヴィルツォーソ系のものとは違いイギリスの優しく柔らかく聞きなじみのある音でBGMふうにきけます、緩徐楽章などとくに)技術的には完璧だし、ひょっとすると例のロシアの巨匠らの凄絶なものよりよほど楽しく聞けるかもしれない。細部まで明瞭に悪戯ぽい仕掛けを聞き取れるのも魅力。フランセは九歳でサン・サーンスがなくなったときル・マン音楽院長の父に、心配しないで僕がいるから、と手紙を送り、程なくソリスト級の腕前だったピアノの曲を書き上げ出版までされたという人である。早熟のテクニシャンの作品は楽想が軽音楽すれすれなのを除けばどれも創意と技巧に満ち、弾くとかならずメカニカルな発見のあるものだが(ミューティングとピチカートの用法にライナー文は触れている)、この演奏ではフィナーレ終盤の低音を中心にした構造的なフレーズのガシガシくる表現は特異なバランスで聞き物。ここは版違いの可能性がある。そのあと超高音のヴァイオリンにはさすがにパワー不足を感じたが普通はこうだろう。ハイポジ技術はあるていど生来の適性のものだ。◎に近い○。

※2007-02-13 08:12:04の記事です
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☆フランセ:弦楽交響曲

2017年12月27日 | フランス
○モーリア指揮ツールーズ国立室内管弦楽団(PIERRE VERANY)CD

フランセ晩年に自演も含め作品選集を随時出していたレーベルで、この指揮者も作曲家に近しい間柄だった。作品は小馬鹿にしたような小品の多いフランセの中では名作に類する形式音楽で、軽妙な新古典ふう交響曲に表向き見せながらも真摯さの伺える機知に富んだ作品になっている。旋律が提示されるもすぐ解体され、見通しのよさは維持しながらも装飾音的フレーズやリズム音形が交錯する無調的な雰囲気音楽と化す・・・もしくは旋律そのものが明確に形成されることなく、限られたいくつかの音を音列的に組み合わせ(隠喩的記譜法であろう)その変容に加え律動と絡み合いだけで進行させてゆく。これはフランセが一時期得意としたやり方で同盤収録のBEAセレナーデにも(あちらはもう少し世俗的にこなれている組曲だが)みられるが、作曲技巧に走った筆のすさびとみなされるような凡作も多い中では注意深く、方法が方法だけに(フランセには珍しく)緩徐楽章・部が目立つこの静かな曲では冗長感を醸す部分も少なからずあるものの、新しい印象派表現として楽しめる範疇である。スーラのような「輪郭のはっきりした数学的点描画」を思い浮かべた。大人しいオケで技術的にも弦楽合奏団にしては音色のバラケやアタックの弱さが目立ち押しの弱さが作品自体を地味に聴かせてしまっているところもあるが・・・といってもこれは近代フランスの古「雅」な作品でありドイツやロシアの重くて鋭いもの、あるいは学究的な古典合奏団のような計算的なものを目指した演奏をなすべきではない・・・現代の室内楽団はそれら主流派の影響を受けすぎて無機質高精度で押しが強過ぎるのだ・・・フランセのもうひとつの顔であるひそやかなINTIMATEで優しいものを浮き彫りにしているところは評価できるだろうか。○。

※2009-02-02 12:14:59の記事です
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☆ミヨー:弦楽四重奏曲第2番

2017年12月27日 | フランス
○パリジー四重奏団(naive)CD

演奏的には速いテンポでさっさと軽めに進んでしまう感がある。ひそやかで地味。だからちょっと印象には残りづらいがうまいことはたしかだ。この作品はミヨーの室内楽の傑作のひとつとは思うが、1番とくらべ格段にシンプルで、全体設計こそ循環形式の5楽章制だから特殊とはいえベートーヴェンぽい和音の重奏をアクセントに使った表現にせよ古風なカルテットの形式を意識したようなところもある作品。姿を微妙に変えつつ統一された旋律の魅力は全カルテット中瑞逸。

※2012-11-08 10:00:18の記事です
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