福沢諭吉の愉快な英語修行 5 諭吉版、適塾の社会学、教育論の巻
突然に話が真面目になります。まず、いままで見て来た適塾の特徴をおさらいしてみましょう。
⓵ 学力の現実を見つめる
⓶ フィードバックできる
⓷ ⓵と②を踏まえてインセンティヴが生まれる
④ 写本のところでは、「欠如の補充」本能についてもふれました。
⑤ このシリーズではなく、『福沢諭吉の翻訳法」で触れたことですが、緒方先生から「読者のために訳す」ということを教わった点も忘れられません。
少ない引用でしたが、注目点が多いと思います。ところで、次の福沢の言葉は、みなさん、どう受け止めますか。
「兎に角に当時緒方の書生は、十中七、八、目的なしに苦学した者であるが、その目的のなかったのがかえって仕合(しあわせ)で、江戸の書生よりも能(よ)く勉強が出来たのであろう。」(『福翁自伝』岩波文庫版 p.94)
目的がないのが勉強がよくできる理由だ、というのはどういうことでしょう。私なども、言葉の学習は他者を理解、伝達するのが目的であるとよく言っています。おかしいじゃないか、と思う人もいるでしょう。福沢が「大阪書生の特色」という小見出しで述べていることに耳を傾けてみましょう。
されば大阪に限って日本国中粒選りのエライ書生の居よう訳わけはない。又江戸に限て日本国中の鈍い書生ばかり居よう訳けもない。しかるに何故ソレが違うかと云うことに就ては考えなくてはならぬ。もちろんその時には私なども大阪の書生がエライ/\と自慢をして居たけれども、それは人物の相違ではない。
ではどういうわけか。先生が偉いのか。何か得になる事があるのか。どうもそうではなさそうです。以下の福沢の分析は社会学的分析と言えます。
江戸と大阪とおのずから事情が違って居る。江戸の方では開国のはじめとは云いながら、幕府を始め諸藩大名の屋敷と云う者があって、西洋の新技術を求むることが広くかつ急である。従ていささかでも洋書を解(げ)すことの出来る者を雇うとか、あるいは飜訳をさせればその返礼に金を与えるとか云うような事で、書生輩がおのずから生計の道に近い。ごく都合のいい者になれば大名に抱えられて、昨日までの書生が今日は何百石(こく)の侍いになったと云うこともまれにはあった。それに引換えて大阪は丸で町人の世界で、何も武家と云うものはない。従て砲術をやろうと云う者もなければ原書を取調べようと云う者もありはせぬ。それゆえ緒方の書生が幾年勉強して何程エライ学者になっても、とんと実際の仕事に縁がない。すなわち衣食に縁がない。縁がないから縁を求めると云うことにも思い寄らぬので、しからば何のために苦学するかと云えば一寸ちょいと説明はない。前途自分の身体(からだ)はどうなるであろうかと考えた事もなければ、名を求める気もない。名を求めぬどころか、蘭学書生と云えば世間に悪く云われるばかりで、既(すで)に已(すで)に焼けに成って居る。ただ昼夜苦しんでむずかしい原書を読んで面白がって居るようなもので実にわけの分らぬ身の有様ありさまとは申しながら、...
と福沢は筆を進めます。ここまでの記述は、一人一人の利益ということではなく、大阪と江戸の社会構造が緒方の塾の書生気質を生み出したという推論です。社会構造とは不思議なもので、いや、人間とは不思議なもので、利益イコール、インセンティヴ(誘導)にはならないのですね。「自由」という概念を導入してもいいかもしれません。利益というものは人を誘導することもあれば、人の自由を奪うこともあるのです。しからば、その自由のもとで書生たちがどういう心持だったのでしょう。
(-----) 一歩を進めて当時の書生の心の底を叩いて見れば、おのずから楽しみがある。これを一言(いちげん)すれば――西洋日進の書を読むことは日本国中の人に出来ない事だ、自分達の仲間に限ってこんな事が出来る、貧乏をしても難渋をしても、粗衣粗食、一見看る影もない貧書生でありながら、智力思想の活溌高尚なることは王侯貴人も眼下に見下すと云う気位いで、ただむかしければ面白い、苦中有楽(くちゅううらく)、苦即楽(くそくらく)と云いう境遇であったと思われる。たとえばこの薬は何に利くか知らぬけれども、自分達よりほかにこんな苦い薬をよく呑む者はなかろうと云う見識で、病の在る所も問わずに唯苦ければもっと呑んでやると云うくらいの血気であったに違いはない。
「社会的条件」しだいで、人間、このような境地に至ることもあるのです。さらに、この「社会学」から、もっと普遍的と言える、諭吉の「哲学」、あるいは教育論が生まれます。先ほど引用した部分をもう一度ここで見てみましょう。
兎に角に当時緒方の書生は、十中七、八、目的なしに苦学した者であるが、その目的のなかったのがかえって仕合(しあわせ)で、江戸の書生よりも能(よ)く勉強が出来たのであろう。
「かえって仕合で…」、つまり、ここでは目的がなかったこと自体が勉強が出来た原因だと推論、言い切っています。話を「一般化」しているのですね。つまり、このことは、単に当時の江戸、大阪の違いというにとどまらず、現代でも一考に値する発想だ、ということになります。なぜ目的がないことが勉強ができる理由になるのか。再度この問いに答えるために福沢の言葉に耳を傾けます。
ソレカラ考えて見ると、今日の書生にしても余り学問を勉強すると同時に始終我身の行先きばかり考えて居るようでは、修業は出来なかろうと思う。さればと云ってただ迂闊(うかつ)に本ばかり見て居るのは最もよろしくない。よろしくないとは云ながら、又始終今も云う通り自分の身の行末(ゆくすえ)のみ考えて、どうしたらば立身が出来るだろうか、どうしたらば金が手に入るだろうか、立派な家に往むことが出来るだろうか、どうすれば旨い物を喰い、いい着物を着られるだろうかと云うような事にばかり心を引かれて、あくせく勉強すると云うことでは決して真の勉強は出来ないだろうと思う。就学勉強中はみずから静かにして居らなければならぬと云う理屈がここに出て来ようと思う。
ところで、『学問のすすめ』にはつぎのように書いてあります。
学問とは、ただむつかしき字を知り、解し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実のなき文学を言うにあらず。(-----) されば今かかる実なき学問は先ず次にし、専ら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。 岩波文庫p.12
ここを読む限り、学問には目的がなくてはならない、と読めますが、しかし、矛盾しているのではなく、こういう複雑な表現をとるところに福沢の特徴を見ることができます。自分を飾るだけでそれ以外の意味の分からない学問ではいけないという意味で、「目的がなければいけない」と言う一方で、探求心を失って処世術としての目的ばかり追いかける、という点については「目的がないのがよい」と述べているわけです。目前の外的目的に追われていれば、その目的が達成されたら学習動機がなくなります。学問は、何故?、何故?の連鎖という「内的」動機に導かれていなければ対象の理解はおぼつきません。後者の目的追及は「苦」によって彩られのは避けられないでしょう。いずれにせよ、一見矛盾しているように見えますが、福沢は、共通して、学問がリアリティを失ってはならないということを述べているのです。
あまり、「~に学べ」というのは避けたいのですが、今日本中で耳にする「学力向上」というのはこれだけのリアリティを備えているか、という反省に導かれざるをえません。個人の、学校の、あるいは、ある県の学力が上がったというとき、内心、「どうしたらば立身が出来るだろうか、どうしたらば金が手に入るだろうか」という以上のことが考えられているでしょうか。もちろん露骨にこのように訊けば色をなして否定するに決まっていますが...。よく東大に何人受かったかが基準になりますが、このことは何を意味するのでしょう。ここで言う「東大」とは安楽な暮らしへのゲートウエイという意味ではないですか。将来の「安楽」を代償とした「苦」を、全国一律、親は子に強いる時代です。現代における勉強の「目的」とはこんなところでしょうか。ずっと小さくなりますが、TOEICの点数を上げるために英語を「勉強」している様子を思い浮かべてしまいます。
どうも話が小さくなりました。次回、諭吉に江戸にある中津藩の蘭学塾で教えるように藩命が下ります。ペリーの来日以来、当時の日本は砲術ブームで諭吉のような蘭学者にもじわじわと日が当たってきたのです。しかし、横浜でオランダ語が通じないということを思い知らされます。