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外国語学習の意味、そして母国語について考えましょう

社内公用語の英語化、小学校での英語の義務化など最近「英語」に振り回され気味ですが、何故、どの程度英語を学ぶか考えます。

言葉は正確に:「第三者委員会」という表現が何を意味するか

2014年10月28日 | 言葉は正確に:

言葉は正確に:「第三者委員会」という表現が何を意味するか

connotation一つの言葉が、何重もの意味を持つということがあります。これは多義語ということではありません。homeには、①自宅、②自国という意味があります。これはhomeが多義語だということ。

しかし、feel at homeは、「くつろぐ」という意味ですが、この場合は、homeの別の意味があるといういうより、homeという単語が最初から持つ、あるふんいきが、feel at homeに「くつろぐ」という意味を与えている、といえるのではいないでしょうか。このように、単語が持つ、「二次的な」意味のことをコノテーション(conotation)と呼びます。ランダムハウス辞書には、A possible connotation of “home” is “warmth, comfort, and affection.” home と書いてあるそうです。「"home"の、コノテーションには、「暖かい」、「快適」、「愛情」がありうる。」という意味です。

元来、単語とは、ある音にある意味が「乗っかる」という構造を持っています。「乗っかるもの」と「乗せられているもの」という二重構造が単語の基本構造です。コノテーションとは、「乗っているものと、乗せられているもののセット」にさらに意味を乗せている、という仕組みになっています。


white connotation別の例を挙げると、「白い」。純粋、潔白というコノテーションを持つのが理解できます。第一、「潔白」というくらいですから。しかし、「乗っているものと、乗せられているもののセット」に、さらに乗せるのですから、ちょっと不安的です。コノテーションは、有る時代、ある知識や感情を共有している際に可能になります。「白い」とっても12世紀の日本なら、「平家」を意味しますしね。それに「頭が真っ白」というのは、現代的な俗語ですが、純粋、潔白とは異なるコノテーションを持っています。(左の図は同じ白が、少なくとも、3通りのコノテーションを持つことを示しています。)

さて、今回扱うのは、「第三者委員会」という言葉です。最近、この言葉が二つのニュースに現われました。一つは、ある新聞が誤報記事を出した後、設立したもの、もう一つは、ある大臣が辞任しあと、スキャンダルを調べさせるために設立したものです。皆さんは、これらの記事を見て、ああ、立派な新聞社だ、政治だ、潔い態度に頭が下がる、と思いますか。

「第三者委員会」という言葉には、じつは、事件を決着させ、禊(みそぎ)を済ませて生き残る手段だ、というコノテーションがあるのです。そうなんですか、という言われる空もおられるでしょう。たしかに、コノテーションは不安定なものですから、だれにも共有される意味ではないでしょうが、マスコミ、政治の世界では、通じるコノテーションになっています。

ノンフィクション作家の門田隆将さんは、前者の新聞の件に関して、次のように書いています。

 そもそも第三者委員会とは、お役所や不祥事を起こした大企業などが、世間の非難をかわすために設置するものだ。いわば“ガス抜き”のための委員会である。ある程度厳しい意見を出してもらい、“真摯(しんし)”に反省する態度を示して国民の怒りを和らげ、「再出発」するためのものだ。設置の時点でシナリオと着地点は決まっている。

なんのための「第三者委員会」か 門田隆将 産経10月19日)

第三者委員会こうした事情を考えると、マスコミ、政治の専門家以外には、門田さんが述べているようなコノテーションは通じないだろう、となめてかかっている、のではないかと思えてきます。

言葉の意味は重層的です。マスコミや政治家は、こうした言葉の持つ二重、三重もの意味をしっかり把握して、注意深く言葉を用いてもらいたいものです。門田さんがそう言ったからといって、「悪意を持って深読みをしないでください!」などと慌てて怒らないことです。



言葉は正確に: B社の個人情報漏洩は「性善説」だったからか?

2014年07月24日 | 言葉は正確に:

言葉は正確に: B社の個人情報漏洩は「性善説」だったからか?

 

孟子ことわざや言い回しは便利なもので、何か事件があった時、それらの表現を当てはめて説明すれば、「そうだ、もっともだ」と頷いてくれることも多いでしょう。「性善説」、「性悪説」という言葉もその例であると言えます。

いわく、「国際関係は性善説では理解できない」、「性悪説では相手のかたくなな態度をほぐすことはできない。」

どちらの表現に接しても、たいていの人はもっともだと思います。、「なんだこりゃ」というような「違和感を覚える」人はほとんどいないでしょう。しかし、よく考えてみると、「性悪説」と「性善説」は矛盾概念です。こちらを立てれば、あちらがたたずという概念です。「大」と「小」なら、「中」がありますが、性善説と性悪説の中間というものはありません。「人間、いい面も悪い面もあるよね」というのだったら、性善説、性悪説という言葉を使う理由がありません。

性善説、性悪説そのとき分かった気持ちにしてくれるのがことわざ、言い回しというものでしょう。「渡る世間に鬼はなし」と言われれば、「そうですよね」と言う人が別の機会に、「人を見たら泥棒と思え」と言われて、「そのとおり、世間はそういうものだ」と納得することはそんな不自然なことではありません。

しかし、なんとなく納得してしまって、問題を解決することを忘れていしまうこともあるのではないでしょうか。今世間を騒がせているB社の個人情報漏洩事件でも、「性善説の限界」という新聞の見出しがありました。実際は、もしその社の人に「お宅は、性善説だったのがいけなかったのではないですか」と問えば、たしかに「いや悪意を持って情報を持ち出す人には厳しい姿勢を取っています」と答えるかもしれません。もっとも、世間の声を気にするので、そんな答えは返ってはこないでしょう。でも内心ではね...。

この問題の本質は、アウトソーシングではないでしょうか。性善説、性悪説とは関係ないところに問題の本質があるように思います。秘密というものは漏れるものです。どうしても秘密を守らせたかったら、限られた人をとても大切にしつつ、できたら、血判を押させるぐらいのことをしなければならないと思います。しかし、現今の自由競争のもとでは、「秘密保持」と「経費削減」という対立が生じた場合、後者の方に非常に傾きやすい。ですから、この事件はそれほど特殊なものではなく、これからも起きるでしょう。しかし、アウトソーシングの基本的な方向を封じるような方向は是が非でも避けたいでしょうから、防ぐことは難しいことです。

いや、もっと本質的な問題が潜んでいるかもしれません。法人というのは、個人では担えきらない責任を引き受ける虚構として大変よくできた制度(個人としての人は死にますので)ですが、匿名性という欠点を本質的に持っています。ですから、近代の本質に根ざす法人ということの限界を深く考えなければ秘密漏洩を防ぐことはできません。

アウトソーシング具体的には、どうするのか。たとえば、秘密保護責任者、数人にのみアクセス権を限って、その人の名前を公表する、などの方法をとるしかないでしょう。そうすると、会社組織の一体性が崩れますね。でも...、それでも完全に秘密を保持することなどできないのではないでしょうか。

今回の事件は、それでも、個人の預金がなくなるとか、人死にがでるとか、そいういった実害が少ないので、まあ、それほど深刻に考える必要はないのかもしれません。ある編集者いわく、テレビを見ていたら、「今回の個人情報漏洩は恐ろしいことです」とインタビューを受けている人が、顔をテレビの画面にさらして、名前も出していたと指摘していました。まあ、ですから、感情を昂ぶらせて語ることではないのかもしれませんが、それだけに、これを機会に、冷静に問題を深く考えてみてもよいのではないでしょうか。

おっと、ことわざ、言い回しで問題の本質が見えなくなる、という本稿のテーマから逸脱したようです。いつものことですが、ひらにお許しを。


 


言葉は正確に:子供の言葉を理解できない

2014年06月09日 | 言葉は正確に:

言葉は正確に:子供の言葉を理解できない

 

男の子「言葉は正確に」と申しますと、「言葉を正確に使おう」という意味に取られそうですが、「言葉を正確に理解しよう」という意味も含まれます。

今回も、英語ではなく、言葉全般についての話題です。

 

さて、最近、新聞紙上に、ある参議院議員のコラムが載りました。

 

 某国立大学付属中学校で調理実習を参観したとき、包丁の持ち方の不器用さに驚いたことがある。

「お手伝いしないの?」と問うと、「しませーん。果物で食べるのはミカンやバナナ。リンゴはむかなければならないから食べない」「将来はコンビニのそばに住めば料理しなくていいでしょ」と、屈託のない声が返ってきて、おやおや和食が世界無形文化遺産になったのに、と心配になった。


この書き出しから始まるコラムです。全体の論旨は、保守の立場から、核家族の問題点を指摘するものでしたが、それとは別に、この部分の、子供の言葉に対する議員の反応について、述べたいと思います。


この議員は、この子供たちの声の意味を理解しているのであろうか、というのが子供 悪意
私の疑問です。子供は、「屈託なく」これを述べているようには、私には思えません。そこには、「悪意」があります。そして、それ以上に「ユーモア」の心があります。議員がもしそれを感じ取っていたら、「おやおや和食が世界無形文化遺産になったのに、と心配になった。」という「大人の論理」を補強するために子供のせりふを引用することはなかったのではないかと、私には思えるのです。

子供は、大人が、「将来はコンビニのそばに住めば料理しなくていいでしょ」と言ったら苦い顔をすることは予想しながら言っているのではないかと、子供の接した経験から、私は思います。そして、大人を試しているのです。そこには「国会議員といえどもなんぼのもんじゃい」という意識さえあると思います。

しかし、大人が上手に受け答えて、「フィクション」を展開してくれたらいいなという「頼り」の気持ちもまた子供にはあると思います。

「はっ、君はコンビニの隣だったら、今日もセブンイレブン弁当、明日もセブンイレブンサラダ、セブンイレブンスープ。ローソン弁当が食べたかったらどうしますか。」

「私の家の右隣はセブンイレブン、左となりはローソンよ。」

「じゃ、ファミリーマートは無しね。」

「実は、私のマンションの一階はじつはファミリーマート。」

「最近、お宅はファミリーマートばかりで買っているので、うちのセブンは売り上げ減退。どうしてくれる!。」

と、迫る、という展開もありえます。そのあと、「お宅の品揃え、最近悪いわ、なんて反論もありえるでしょう。

が...、忙しい国会議員には対応は無理でしょうね。こんなことを言えば、その議員は、「それは分かります。しかし...」と答えるかもしれません。


でも、私は、ここであえて、一般論的に言わせてもらいます。大人は子供であった
ときの気持ちを忘れていると...。それは一言で言えば「ユーモアのセンス」です。子供はたいてい、あふれるほどのユーモアを持っています。ただ、それをユーモアという言葉で表わすことができません。ユーモアのセンスあれば、百万人といえでも我行かんというほどの気構えでいるものです。それが...、そうですね...、多くの子は、中学生の頃から失っていくようです。

では、大人になるためにはユーモアのセンスを失わなければならないのか、というとそうは思いません。小学校では、社会の需要というより、学科の区別なく子供の発展を促しやすい仕組みになっていますが、中学にはると、社会はこれを必要とするという理由で、<有無を言わさず>、「これを学びなさい」という側面が急に増えます。多くの子供は、小学校の勉強と中学校の勉強の「接続」がうまくいかず、ぐれたり、無意識の権力闘争(いじめなどですな)、性の世界に逃避することにもなります。その過程で、ばかばかしい笑いだけ残して、ユーモアのセンスを失っていく、という過程を経るように思います。「子供らしさ」を失い、「子供っぽさ」だけが残ると言いうこともできるかもしれません。

この意味でほとんどの教育は失敗してると思うこともあるのですが、「接続」をうまくできるかどうか、大人の指導にかかっています。いわゆる教職にある人だけでなく、大人がみなそれに取り組むべきだと思うのですが、実際、どれほどそのことを考えている人はいるのか。

こどもの日


今、英語スクールでめんどうを見ている子は、6年になりました。英語も中学3年の水準に近づいていますが、それより、私が好ましいと思うのは、英語も、英語で理科、算数も、遊びながら、「なぜ、なぜ」言って、積極的に問題を解決している姿勢が著しいことです。ときどき、急に跳ね回ったり、白版に漫画を描いたり、粘土で地球を作ったりしますが。そういう点に私はうるさく言わず、ほったらかします。うるさいのは言葉使い、挨拶だけです。たぶん、学校などでもストレスを受けているのを発散しているのでしょう。この子が、漫画を描かなくなるのはいつだろう。私はそれだけが気がかりです。

 

 

 

 


言葉は正確に:フラッシュ・モブ(flash mob)と「ドッキリカメラ」との違い(2)

2014年05月23日 | 言葉は正確に:


言葉は正確に:フラッシュ・モブ(flash mob)と「ドッキリカメラ」との違い(2)

フラッシュモブ バス前々回に、フラッシュ・モブに触れましたが、言い足りない点があったので、もう一度、扱いたいと思います。これまた、「英語・母国語」とは話題が離れますがご容赦を。(下にいろいろなリンクがあります。)

 

前回、純粋な「祝祭」性が、フラッシュモブの本質であるということを述べました。祝祭性と黒いオルフェは、お祭りをお祭りにしている、お祭りの本質のことですが、それは、日常生活から完全に切り離された、またはそれと対立する、限られた時間と空間のこと。そのときだけ、人々の感情生活は別の世界を経験します。しかし、祝祭は長続きしません。祝祭は必ず終わるのです。終わったあと、ふとわれに返ると、日常の生活を営んでいる自分に気がつきます。しかし、ほんの少し前の自分とは違うものを発見するかもしれません。 ブラジルの貧民街を舞台にしたフランス映画『黒いオルフェ』の挿入歌、「カーニヴァルの朝」はそのときの気分を歌い上げたものです。リンクは、ジョーン・バエズが歌っているものです。フラッシュ・モブのサイトをいくつか見た方は、今度見るとき、演奏が終わった後の一瞬に注目してください。「良い」フラッシュ・モブであれば、演奏者がすっと消え、群集は夢を見たかのような表情を一瞬浮かべて、そのあと、日常の足取りに戻るでしょう。

この記事では、最後に、フラッシュ・モブの終わり方に注目し、ひょっとしたら、フラッシュ・モブを最初に始めた人は、この映画から示唆を受けたのではないかと思う、ある映画に触れます。その前に、祝祭性以外に、前回触れなかった二つの点に触れましょう。

ひとつは、街中の辻音楽士に対するまなざしです。プロの音楽家は常にステージ上の華やかな場所にいますが、晴れの舞台ということは音楽の本質と関係があるだろうかという問いは、どの音楽家にもあるはずです。辻音楽士でも、とても優れた音を奏でる人がいます。しかしふつう、マスコミなどから与えられた枠組みで人は音楽を「評価」しがちです。つい先ごろもニュージーランド フラッシュモブそんな「虚像」が話題になりましたね。このニュージーランドのフラッシュ・モブをご覧ください。朝の8時過ぎ。必ずしもすべての人が音楽に注目するわけではありません。駅の「変な人たち」に対する視線が消えていないだけ、フラッシュ・モブの本質がより顕わになっていると思いませんか。

二つ目は、インタネットとの関係です。フラッシュ・モブ自体、携帯電話を用いた周到な用意のもとに行われれるのですが、インタネットによって変質した社会への疑いもまた、フラッシュ・モブがこれだけ世界中で猖獗を極めている深い理由ではないかと思います。

どういうことか。

インタネットはユビキタス(遍在。「偏在」ではない。)という言葉に表れているように、いつどこでも情報が得られ、発信できることを目指しています。地球の裏側の町並みも、グーグルの地図からいつでも簡単に引き出せます。音楽が録音の技術によっていつでも聴けるようになってから100年以上たちますが、インタネットによってお金を払わなくても音楽が聴けるようになり、音楽家は、自らの寄って立つところについて疑いを抱かざるを得ません。そういう時代に、フラッシュ・モブは、「今、ここでしかない!」ということに<価値>があるということをひそかに主張しています。それはインタネットのちょうど対極にあると言えるのではないでしょうか。そのことをインタネットで発信しているということに、フラッシュ・モブの「ゲリラ性」を認めることもできるでしょう。!。

(インタネットがどういう影響を社会に与えているかの社会学的研究を見かけませんが、フラッシュ・モブは研究のきっかけになりはしないでしょうか...。)

祝祭性を取り戻すといことに加え、この二つの動機が相まって、「集団的無意識に」に影響を与えたことが、ここ2年ほど、まさに、世界のありとあらゆるところでフラッシュ・モブが勢いよく広がった理由ではないかと、推察しています。

さて、最初に戻りましょう。

祝祭の時間と、終了後の日常への回帰ということです。じつは、日本で行われているフラッシュ・モブを見ていて、どうも、この二つの対比があまり強くないようにも思えることがあるのです。たしかに外国の「まね」ということもあるでしょうが、「どっきりカメラ」と同じような感じがすることがあります。そんなことを考えていたら、昔なんだか似たようなことがあったという気がしてきました。

新宿西口フォークゲリラ1969年の新宿西口広場の、いわゆる「フォークゲリラ」です!。これは、交通妨害になるということで、「広場」が「通路」に変更されるといういわくつきの「イヴェント」でした。確かにこれも、祝祭性を伴う事件ではありました。私も大学の先輩から「祝祭」という当時はやり始めた概念で説明を受けたことがあります。しかし、日本人のまじめさからか、「何か意味づけをしなければならない」とでも思ったせいで、政治的性格を帯びながらしぼんでいったものです。

私は、「日本人のまじめさ」以外にも理由があると思います。日本の文化には、「晴(ハレ)」と「褻(ケ) =日常生活」」の対立があると柳田國男などは言っていますが、柳田は、晴よりむしろ褻の方を強調いていたようです。晴と褻をするどく対立させるのではなく、日常生活に両者の対立をうまく織り込むことに日本人は長けていたのではないか。それだけに、ブラジルのカーニヴァルのように、祝祭と日常的時間が激しく対立することはなく、フラッシュ・モブの、フラッシュ、つまり閃光ようなひらめきには少々疎いのではないかという気もします。日本では祇園祭のように祝祭も時間をかけて徐々に盛り上がり、徐々に消えるのかもしれません。おっと、頭でっかちになりかかったようです。

8 1/2 エンディング冒頭に、フラッシュ・モブがある映画に影響を受けたのではないかと申しましたが、それは何か。イタリアの映画監督、フェリーニの「8 1/2」のことです。この映画はまさに祝祭がテーマです。この映画での祝祭は「脈絡のなさ」と言ってもいいかもしれません。だから、「分からない」、「難しい」映画に分類されることもあります。しかし、映画を通して、主人公の映画監督にのしかかる得体の知れない重圧が、何の理由もなく最後の場面で解消するということこそがこの映画の持ち味なのです。いや、問題は「解消」はしないのです。この世の理屈内では、何
も解消していないのです。では、「解消したように思わせている」のか、と問われれば、そうも言えない。ともかく、この世の時間と論理とは異なるのが祝祭的時間だということがこの映画に描かれていました。英国軍楽隊 フラッシュモブ

最後に、二つリンクをつけておきましょう。ひとつは、「8 1/2」の最後の場面。映画の製作が途中で頓挫し、マルチェロ・マストロヤンニが演じる映画監督が打ちひしがれる場面からです(04:21 フランス語の字幕)。もうひとつは、英国の軍楽隊によるフラッシュ・モブです。似ていると思いませんか。


 

 

 

 

 

 

 

 

 


言葉は正確に: 「フラッシュ・モブ = flash mob」と「どっきりカメラ」の違い

2014年05月18日 | 言葉は正確に:

言葉は正確に: 「フラッシュ・モブ = flash mob」と「どっきりカメラ」の違い

 

フラッシュモブ コペン駅前広場など、公の空間に、どこからともなく楽器を持った人が現れ、周りの反応は意に介せず、突然演奏を始める。そうすると、それに呼応する別の演奏家が次第に集まり、最初は小さな音で始まった音楽が、どんどん大きくなり、大交響曲になる。その頃には、聴く人も周囲を囲むようになるが、フォルエッシモで曲が突然終わると、拍手する通行人には一顧だにせず、自然解散する。


これがフラッシュ・モブという「現象」です。現象というのは、これは今までのどのような行為のカテゴリーにも入りそうもないからです。野外演奏会ではありません。大道芸というには大きすぎます。第一、観衆の喝采も、いわんや、報酬も期待しません。演奏し終えると、駅前広場は、そんなことはなかったように通常業務をフラッシュモブ 背中営む人でにぎわいます。

ところで、ひところ、テレビ番組で、「どっきりカメラ」というのがありました。たしか、街中で、突然有名人がハプニングを行うというようなものだったと思います。しかし、フラッシュ・モブはそれとはどうも違うな、と思うことが、フラッシュ・モブが何かを知るきっかけになりそうです。フラッシュは、「フラッシュを焚く」のフラッシュ、一瞬の閃光のこと。mobとは、群集。非人称的に群れ動く都会の人ごみのこと。


フラッシュモブ バス人ごみのなかでは、人々は警戒心を持ってぴりぴりながら、そして時間を気にしながら自分の世界に篭っています。電車を待つ駅などその典型的な場所です。そこに、ぱっとしない格好をした人が突然太鼓をたたき始めたら、たいていの人は、その「変人」に警戒心を募らせます。そんな人々の眉を顰めた顔をものともせずに、音楽は正確に、音楽的に高まっていきます。音楽家の数は、20人、30人に増えていきます。ティンパニーや、ハープも持ち込まれます。そのうち、人々の心のなかに、自分しか見ていなかった視線とは違ったものが生まれます。人々の顔は明るくなります。笑顔を浮かべます。真っ先に、子供たちが踊りだします。そこに現出した、非日常的時間。これは、純粋な祝祭的時間です。祝祭、という言葉がこの場合にぴったりです。

フラッシュモブ新宿②いや、普通のお祭りよりもっと祝祭的と言えるかもしれません。普通のお祭りには準備やら、商業的動機、政治的動機やら、警備などあまり「祝祭的でない」要素が付きまといます。日本の場合はやくざが絡む場合があります。もちろん、フラッシュ・モブを行う人は周到な準備を行います。しかし、彼らが生み出した時間は、そうした、世俗的なもろもろを忘れさせる時・空間なのです。

どうでしょう。「どっきりカメラ」のことは忘れて書いてしまいましたが、どっきりカメラには、小林秀雄風に言えば、「末梢神経への刺激」しかないのに対し、フラッシュ・モブには、群集の一人、一人のなかに、群集ではないものを目覚めさせます。そのことをさして、逆説的に、モブ=群集という名前を誰かがつけたのでしょう。末梢神経の刺激だけでは群集は群集のままです。フラッシュは突然光り、そして何の痕跡も残さず消えていくものをさして、そう呼びます。何の意味づけもなく、自然消滅するからこそ、その祝祭性が際立つのです。

さて、有名なフラッシュ・モブを3つリンクしておきましょう。一つ目は、コペンハーゲンの駅。二つ目は、新宿東口、三つへは、大阪音楽団によるもの。

①http://www.youtube.com/watch?v=mrEk06XXaAw

②http://www.youtube.com/watch?v=eSKsMcKb7Go

③http://www.youtube.com/watch?v=hLcjqOPf1d0


フラッシュモブ 紛争じつは、私は少し危惧を抱いています。フラッシュ・モブが、その祝祭性を失って、単なる刺激的行為になってしまいはしないかと。つまり、そうなると、①商業化される。ま、客集めですな。②エスカレートしてくだらないものになる、ということです。わざとらしくなるということです。

二つ目は辛うじてその幣を免れていると思います。が、有楽町駅前のフォル・ジュルネーの出し物として行われたフラッシュ・モブの動画には、否定的はコメントがありました。客集めのイベントという性格が鼻についたいのでしょう。

三つ目は、じつは、少々作為的なものが感じられます。しかし、行政によって解ラッシュモブ 大阪音楽団散の憂き目に会いそうな(大変な赤字だそうです...)大阪音楽団がやっているというところに、その祝祭性が鋭く感じられるので取り上げました。

聞くところによると、プロのフラッシュ・モブがあるそうです。それはそもそもフラッシュ・モブの本質に反することなのではないでしょうか。

今回、「言葉を正確に」、というテーマの下に、言葉から社会学的な言語に逸脱いたしました。