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外国語学習の意味、そして母国語について考えましょう

社内公用語の英語化、小学校での英語の義務化など最近「英語」に振り回され気味ですが、何故、どの程度英語を学ぶか考えます。

「対象から切り離した英語力って存在するの?」の補

2019年07月29日 | 教育諭:言語から、数学、理科、歴史へ

「対象から切り離した英語力って存在するの?」の補

前々回からの続きです。読者のみなさんは、たぶん「対象から切り離せないと言うが、じっさい試験が行われているのだから無意味なこと言うな」などと言わないと思います。筆者が論じているのは「本質論」であって、政治論ではありません。英語教育論に限らず、本質論と政治論がまざっているような評論が目につくので少し力を入れて言いたくなります。

言語が対象から切り離せないと、前回抽象的な言い方をしましたが、もっと日常的な言葉で言えば、何かを理解したいから英語を学習する、何かを伝えたいから英語を学習するのではないですか、ということです。その動機がなくてどうして英語を人は学習するのでしょう。小学生向け英語教育番組、旧『プレキソ』を監修した小泉さんは、"Let's enjoy English!"という言い方に疑問を覚えると書いておられました。英語自体は面白くもなんでもありません、その英語で何を伝え、理解できるかが小学生レベルでも英語学習の動機だという指摘です。筆者も、英語教育においては伝えるべき、理解すべき対象の吟味、選択が第一に重要になると考えます。例えば、リーディングで言えば、人間の本性に関わること、現代に生きていく際欠かせないこと、粋でユーモラスなエッセイなど、読んでいて記憶に残り、考えさせるテキストでなければなりません。語彙ひとつをとってみても面白いと思う文脈に出て来て初めて記憶にとどまるでしょう。入試の場合は、過去の問題を受験生は検討するわけですから、こういう文章を出題する大学には一生懸命勉強して入りたい思わせるテキストであるべきです。ところが、各種英語試験、最近の大学入試の問題のテキストを見ると、ただただ実務的で、読み取ろうという意欲をそぐものが多いと思います(よいものも一部ありますが)。その最たるものはTOEICに出されるような社内文書です。どうも、「英語力は対象から切り離さなければならない」という思想が背後にあるのではないかとかんぐりたくなります。どうも、広い教養も知的関心もあまりない、ましてや生徒にそれを伝える力のない(失礼)「英語専門家」が自分の領域を守るために「政治的に」、切り離し作業を行っているのではないか。そこで「英語力は対象と切り離せない」とあえて言うことに意味があると思うのです。





文系、理系の垣根を越えて、というけれど…

2019年07月26日 | 教育諭:言語から、数学、理科、歴史へ

文系、理系の垣根を越えて、というけれど…

「今はもう文系、理系の垣根にこだわる時代ではない」とはよく聞かれる言葉です。しかし、よくこの言葉を聞いていると文系と言われる諸君は数学、科学を勉強したまえ、という言葉に聞こえます。理系の諸君は文学や歴史を学ぶべきだということはあまり聞いた覚えはありません。

C. P. スノー最初に文系 - humanities-と理系 -science-の対立が言論界で論争の的になったのは、1959年、英国で、C.P. スノーが『二つの文化と科学革命』(The Two Cultures) という論文を発表したときのことでしょう。スノーは著名は物理学者で、かつ推理小説なども書いていました。この論文では、以下のようなエピソードが挙げられているそうです。伝統的な教養人とされる人々の集まりにでたら、科学者はものを知らないという話をしていたので、彼が「熱力学の第二法則」を知っていますかと訊いたら、はっきりした答えが返ってこなかった。スノーに言わせれば、シェイクスピアの何かを読んだことがありますかと同じレベルの質問をしたつもりだったそうです。文系、理系ということが話題になるのは、このころから理系の立場の人の不満表明として表れていました。一言で文系といいますが、欧州では中世以来の伝統的なラテン語教育に基づく文系教養主義が制度化し、不動の権威を持っていたのです。それに対し、一矢を報いるという性格の発言だったのでしょう。発表された年月にも注意していただきたいです。原子力の力で世界の命運を握るのは一握りの核物理学者だということが分かってきて、「文系」の学者の土台が揺らぎだしたころのことです。この文脈で初めてスノーの論文の歴史的価値が分かります。

では、日本ではどうか。1868年の明治維新以来の工業化の流れの中で西欧以上に、文系と理系の違いが際立った来ました。なぜか。西欧の場合、分かれたとはいえ、文系の伝統から理系が派生してきた記憶がありますから、文系と理系の交流は皆無とういわけではないのです。ところが日本の場合、明治以降の工業化が理系学問の主流となり、原理へ遡って考える動機が少なかったのです。手っ取り早く爆弾やラジオを作ること=理系だったのですね。そのため、西欧では、数学と理学(science)が工学(technology)より重んじられる傾向がったのに対し、日本は理学部より工学部の方が学生の人気が高い状態が続いています。一方、文系ですが、西欧の人文学(humanities)、あるいは文献学(phylology)と言っていいでしょうか、に対応するのが、江戸期までの漢学でした。西欧でラテン語、ギリシャ語がその存在を主張しつづけているのに対して、これは維新とともにすっかり滅びてしまったのです。明治の最初期は中江兆民がルソーの『社会契約論』を漢文に訳したということもありましたが、まことにいっときのうたかたでした。では日本における「文系」とは何か。それは西欧の文献を訳すことでした。そのことがhumanitiesの大半の役割を代替してきました。つまり、日本においては、理系は実用と同義語、そして、文系は西欧の借り物という性格が強くなり、西欧以上に両者の交流は乏しい状態が生じたのです。

「文系、理系を越えて」というとき、以上のような文脈が前提に語られなければなりません。しかし、掛け声だけはあっても、じっさいはどうだったのでしょう。40年前ごろ、大学でこれからはコンピュータを国文学に応用するのだと息巻いていた人たちがいましたが、源氏物語の語彙の統計を取るというぐらいのもので、なんだ、と思った記憶があります。その後も、文理を越えるというと、文系の諸君も科学を知るべきだということと同じ意味で言われてきました。

たしかに、文系の側にも反省すべき点は大いにあります。それは論理と事実への軽視です。これについては、木下是雄さんについてのエッセイなどに譲りましょう。ただ、木下さんの最初の啓蒙書は『理系の作文技術』であって理系の人が対象であったという点は注意したい点ですが。文系における論理と事実の軽視は、西欧思想崇拝のもとでとてもおかしなことをあたりまえのように引き起こすこともありました。友人のフランス語講師から聞いた話ですが、フランスの哲学者サルトルが来日し講演を行ったときのことです。当日は通訳なし、満場の学生は講演が終わると割れるような拍手で見送ったそうな。昔は、私なども「ミロのヴィーナス」を見に美術館をぞろぞろぐるぐる回って有り難がったこともあります。では、このようなことは今日では笑い話で済ますことができるか、というと少し疑わしい。サルトルのようなカリスマはいなくなりましたが、文系=権威主義という土壌は消えてはいないように思います。「文系の諸君は数学と科学を学ぶべし」という言葉が説得力を持つ所以です。

扨、ここで、やっと、理系の側の人が越えるべき垣根はなんだろうかという主題にたどり着きました。私の念頭を去らないのは、オウム真理教事件です。事件を起こした人のなかには「理系」の秀才が多かったようです。なぜエリートと言われる人が残虐な犯罪に手を染めたのか。危険な化学物質を製造する精密な頭脳を持った連中に欠けているのは何か。数学と科学だけでは不十分なものがあるのではないか。とりわけ「実用」ということだけ考える日本の理系風土に欠けているものがあるのではないかと考える必要があります。

それは何か。このエッセイで初めて登場する語彙です。それは歴史と常識という言葉で表されるもの。文学と言ってもいいかもしれません。歴史も常識も定義したり計算したりすることができないので、「理系の人」は不得意かもしれません。歴史も常識も知らないでも理系の世界でいくらでも出世できます。でもちょっと考える必要があります。精密な理論が出来たとしてもそれをなんのために使うのか。輪郭がはっきりしないものかもしれませんが、全体のなかの意味、価値があって初めてその理論も意味を持つのです。輪郭ははっきりしませんが、十代、二十代のころ、読書、つまり過去の優れた人とのつきあいを通して身につけるのが「歴史と常識」です。証明することができるようなことでないので、失われやすい。しかし、オウム事件のような事件が起きる背景には、理系の秀才たちが「歴史と常識」を身につけていなかったからではないか。そうだとしたら、今後も似た事件が起きるかもしれません。

最期に、少し前、1995年に起きた、『マルコポーロ事件』に触れておきましょう。ナチスのガス室がなかったという記事をある医師が『マルコポーロ』という雑誌に掲載したのですが、廃刊に追い込まれた事件です。その後、在ったのないの、の議論が続きました。著者はその後の主張を変えていないそうです。しかし、在ったかないかだけ追いかけているのは、なんだかおかしいと感じませんか。ドイツ文学者の西尾幹二さんは、一つの事件ばかり捉えて、ナチスが行った行為全体を歴史的に見る視点を失っているという点を指摘していました。事件のことは遠い日本では分かりません。ギリシャ、ローマからゲルマン、ドイツの現代史のなかでの人々の営みから切り離して、その事件を計算問題のように解いて喜んでいる愚かさ、危険を西尾さんは指摘したのでしょう。「文系と理系の垣根」にはこういう垣根もあるのです。








祝!言葉の格闘、子供科学相談室は通年になりました

2019年05月01日 | 教育諭:言語から、数学、理科、歴史へ

祝!言葉の格闘、子供科学相談室は通年になりました

2019年春、NHKの夏休み子供科学相談室は、通年番組に格上げされました。めでたいことです。少数ですが、NHKにはとてもよい子供向け番組があり、いままでも、『ユウガタ・クインテット』、『考えるカラス』、『<旧>プレキソ英語』など、このブログで紹介してきましたが、それらを高く評価する声はあまり聞こえませんでした。そのうち、それらの番組は終了しそれを発展させることもなかったようです。

子供科学 電話風景夏休み子供科学相談室は、以下のページでも繰り返し紹介してきたように、科学的な思考を養うだけでなく、(大人にとっても)言葉の使い方の訓練として秀逸であるにも拘らず、夏の限られた時期だけなので惜しいことだと思ってきました。ところが、ここ数年、夏休みだけでなく冬休み子供科学相談室が始まるなど、人気が高まる兆しが見えてきました。とうとう、今春から通年番組に昇格されることになりました。この10連休には9日間連続で放送されるというめでたさ。聞き逃しサービス(らじるらじる)でも例外的に一か月間聴けるサービスも始まりました。

言葉の格闘、夏休み子供科学相談室は9月まで聴けます!1/2

「Why?」の疑問に対する二種類の答え方

2018-9冬、言葉の格闘、子供科学相談室がまた始まりました

子供電話 スタジオ何がこの番組の注目点かというと、すべて生放送、しかも、音声だけで、だれだか分からない子供に、内容を理解させるという試練が学者とアナウンサーに課せられるということです。なんでも映像で、しかも結論の分かった大衆受けすること、慣れ合いばかりが主流となるマスコミの流れに逆行しているという点です。これは大衆社会の競争の法則に反している、きわめて特異なことだと思います。ひょっとしたら、局はこの番組をアナウンサーの修行の場としてとらえているのかもしれません。そうだとしたらNHKもまだ捨てたものではないでしょう。

私はなるべくこの番組を注意して聴くようにしているのですが、いくつか改善も近年行われたようです。

⓵ 一つの質問に対して複数の先生に答えてもらおうとしていること。たとえば、植物につく害虫についても質問には、まず植物の先生、そのあと、昆虫の先生に答えてもらうということがありました。

② 昨年出た質問に対して出された課題がその後どうなったか、数か月後に質問者に訊いてみるという企画。上の害虫の質問は昨年の夏にでたのですが、その後、先生によって提案された方法が効果的だったかどうか、先日の番組では再質問が行われました。ちなみに、有効でなかったというのが結果でした。うまく行ったという結果より失敗したということの方が次の対策を練ることにつながるのでよりよい展開でしょう。

③ 専門用語が出てきた場合、アナウンサーが割り込んで解説をする。

花 虫⓵は課題を「膨らませる」のでとても有効です。同じ問題でも違う立場、(この場合、虫か植物か、ですね)、で考えることに導きます。科学といえども、植物の先生は植物より、虫の先生は虫よりの立場でものを言いがちだということも子供の段階でうすうす気づくというのも大きな経験です。

②は、私がとくに好ましいと思う点です。前からこの番組で気になっていたのは、「~ちゃん、分かったあ?」と訊いて「うん、分かった」という答えを半ば強制する点です。冬休みの番組では、タレントさんが「すっきりした?」などと言うこともありました。疑問の解決は次の課題を呼ぶというのが、科学に限らず世の中の原則。解決のなかに次の問題の萌芽が含まれているということを知るのがこういう番組の意義だと思うのですが、「分かった」と子供に言わせることで思考の流れを断ち切る方向に誘導してしまいます。再質問の新企画は、質問の答えで問題を終わらせません。答が余韻を引き、行動を促し、半年にわたる理論と実践の循環へと誘導します。放送始まって以来、この効果を生み出す番組が今まであったでしょうか。たいてい、「ああ、面白かった」で終わり、忘れられ、後は視聴率というリヴァイアサン、つまり怪物がのさばるという結末を迎えます。

③には、多少気になる点があります。以前から、先生たちが、聴いている子供が知らないと思える専門用語を、うまく割り込んで解説、または補助の質問をしてくれるFというアナウンサーがいました。どうも、この春から局の申し合わせで他のアナウンサーもそれをしてくれということになったようです。ところが、タイミングが悪い、割り込みが多すぎるということがあって、質問と答えの流れが断ち切られることがときどきあるようです。このとき、アナウンサーは、解説をするか、質問と答えの流れを重んじるか、を考え、直感的にバランスをとる必要があるのですが、まだまだかなというのが私の印象です。この番組にかぎらず、最近、元気よく、早口に話すアナウンサーが目立ちますが、そういう人気アナウンサーが登場すると、不要な割り込み、ご機嫌取りが多く耳障りに聞こえます。考えていないのです。漫才のように相手にどう反応するか、どうやって反応を引き出すかしか念頭にないのかと思います。

氷山言語活動は、何を言うか、ということと、何を言わないかによって成り立ちます。表面的に音声にでる言葉の背景で、氷山の下に隠れている氷塊も大いに活動しているのです。一見見えない部分ですが、ずっと通して聴いていると、この人は考えて言っているな、この人は相手に気に入られることしか考えていないな、ということが分かるというものです。ときどき、政治家の失言などで、その氷山の下の部分が露呈することがあります。数年前、「自衛隊も応援しています」と国会議員の選挙の演説で口走って辞職した大臣がいましたが、三権分立の原則という氷塊の部分に思念が及んでないことが分かり、有権者に不安を抱かせました。(誰のことか分かる読者がいるかもしれませんが、筆者はこの政治家の考えに反対しているわけではありません。)

子供科学相談室では、何を言うか、何を言わないか、という言語活動の全身的な構えが試されます。この番組を通し浮彫になってくることは、いかに大人同士の会話では相手に依存しているか、ということです。何を言うか、何を言わないかなど考えもしないことが多いのです。この番組を聴くことで、「依存」ということが、二つの形をとっていることが目立ってきたので、最期にそれについて触れておきましょう。

一つは専門用語への依存です。複雑化した現代社会で生産活動をしている場合、一歩先へ進むことだけに集中します。そのため今まで人間が積み重ねてきた知識の最先端の抽象的な概念しか頭に浮かばなくなります。知識を共有する同僚や競争相手と渡り合うにはそれで十分だからです。その概念が何に基づくのかは忘れてしまうものです。自衛隊員が政治的立場から距離を置くという原則もかくして忘れ去られてしまったのです。この番組で、専門用語を「難しい言葉」と言ったり、子供が専門用語を知っていると大人が「すご~い」と言って感心したり、しますが、どんなもんでしょう。専門用語とはたんに抽象化したというだけのことで、なにも難しい言葉ではありません。その分、原初の経験から遠ざかっているということです。それを知っていたからと言ってえらいわけでもなんでもありません。こんなところにも、「専門用語」が単に自分の同僚や競争相手の人への依存によっているだけだ、ということへの自覚の乏しさが見られると思いますが。

大丈夫二つめは流行語や流行する言い回しへの依存です。なぜ人は、標準的な表現があることを知っていながら、流行表現を使うか。無意識に行われることでしょうが、それは自分があなたと同様のグループに属している人間だということをアッピールするためです。村八分にしないでくださいねというへつらいとい言ったら言い過ぎでしょうか。ともかく人間関係のための言語であって、科学の言語には相応しくありません。さすがに科学者である各先生はそういう表現に毒されていません。科学的事実という共通事項を子供と共有するだけに言葉を使っているからです。もっとも、「~ちゃん、わかるかなあ?」の類の幼児相手の言葉は耳障りです。大人と話すのと同じ話し方をする先生の方が私には好感がもてます。問題はアナウンサーの方、とりわけ人気アナウンサーです。ここでは一つだけ例を挙げてこの記事を締めくくりましょう。それは「大丈夫」の多用です。私たちの日常生活でも、スーパーなどで、「駐車券、大丈夫ですか。」の類をよく耳にしませんか。転んだ人に「大丈夫ですか」なら分かりますが、駐車券であろうと、レジブクロであろうと、なんでも同意を求める際に「大丈夫」。答える方も「大丈夫です」。番組では、「~ちゃん、難しいかな。大丈夫?。」というのがアナウンサーにも及んでいるようですが、局の方には方針がなさそうです。先日も、「~ちゃん、難しいかな。大丈夫?」と訊かれて、質問者は、流行表現によって相手に合わせることを知らないので、「大丈夫です。」とは答えませんした。なんて答えたと思いますか。

「平気です。」

とても小さなことでしたが、私には印象的でした。

 

 

 

 

 

 

 


2018-9冬、言葉の格闘、子供科学相談室がまた始まりました

2019年01月03日 | 教育諭:言語から、数学、理科、歴史へ

2018-9冬、言葉の格闘、子供科学相談室がまた始まりました

冬休み子供科学相談たしか、2年前からNHK AM第1『子供科学相談』は冬休みにも行われています。だいぶ人気番組になったようで、聞き逃しサービスのラジルラジルも昨年の夏は、ほかの番組より長く聴けるようになっていました。




参考:

言葉の格闘、夏休み子供科学相談室は9月まで聴けます!1/2

「Why?」の疑問に対する二種類の答え方

この番組、音声だけで、複雑なことを知識がゼロの状態の子供に理解させる、という課題が回答者の先生に課せられます。このことは、スマホやトゥイッターで瞬間的に分かった気にさせるのが流行りのこのごろ、そういう風潮に対する批判としての意味があって、とても興味深いことです。

ときおり、この説明でいいかなと疑問に思うことがありますが、それを私たちに考えさせることもこの番組の面白い点です。

夏休み子供科学スタジオ昨年の夏には、「すっきりしましたか?」というタレントさんの発言に苦言を述べました。科学の説明は宗教とちがって、常に覆される可能性があるので、あまり簡単に「すっきり」してもらっては困るのです。今回の冬も、まだ、答えを急ぐというムードが見られます。ある答えがそれでおしまいにならず、次の問へと導くような工夫があったらと思うことがよくあります。

ところで、気になる点で一番多いのは、「抽象度の高い概念で抽象度の低いことを説明しようとする」場合です。つまり、専門用語の乱用ですね。説明、言い換えると、広い意味での「定義」の原理は、

<抽象的でない、日常的な概念で説明する>

ということです。大人は、慣れで本当は分かっていない概念を不用意に使って分かった気になっているものです。そこには慣れ合いの心理が働いています。子供相手にはそういうわけにはいきません。その意味で私はこの番組を「言葉の格闘」と呼んでいます。

二つ目に「思い込み」ということがあります。私のような高齢者によくあることですが、一見論理的に詳しく滔々と述べているので、「若い者に負けませんなあ」という評価(おせじ)が下ることがありますが、それは自分の土俵のなかで記憶を引き釣り出しているだけで、実際は相手の質問をよく聴いていないという場合が少なくありません。今冬は、「地球はなぜ左回りなのですか」という問に、「見方を変えれば右回りともいえるから、どちらとも言えない」という答えが返ってきました。認識主体の姿勢でものの見方が変わるという科学の哲学地球は左回り的側面のことを述べたいのでしょう。しかし、この問は、まずは、「なぜ右回りではなく左回りなのか」という意味と考えるべきでしょう。回答者は、自分の関心事であることに捉われて、質問者の言いたいことを聴くという姿勢を失っている、ということはないでしょうか。このように気になることがあるのですが、「あらさがし」ということではありません。こうしたことは誰でも犯しがちな普遍的なエラーです。これらを見つけるということも、この番組が聴いている人に課されている課題です。ちなみに、こういう時、藤井アナウンサーなら間髪入れずに、「先生、なぜ右回りではなく左回りなのですか」と「つっこみ」を入れたことでしょう。

ところで、毎回、宇宙や恐竜の質問が多いのですが、それはなぜか。それは子ともが「哲学者」だからだと思います。宇宙も恐竜も日常生活には関係ないのになぜ質問するか、というと、その質問の本質は具体的な宇宙や恐竜のことではなく、自分の存在に対する不安からだというのが私の意見です。隣町や10年前でさえも謎に満ちた子供にとって、その何万倍も遠いことはとても恐ろしいもの、あるいはとても魅力的なことに感じられます。大人になる子供 哲学と、あるいは大人に近づくと、お金やら試験やら俗世間の不安で頭がいっぱいになりますが、子供のときは幸いそれらの問題から遠ざけられています。そのため、彼らの不安は「哲学的な不安」という実存主義の哲学者たちが述べた不安に近いものであるに違いありません。よく「子供のための哲学」というような本を見かけますが、どうも大人の視点で、いや、出版社の視点で、子供に押し付けているようなにおいを感じます。それより、この番組の方がより「哲学的」だと私には思えますが、どうでしょう。

ただし、このような質問は小学校低学年に多く、4年以上になるとより実際的な質問が多くなります。しかし、だからと言ってそれらの質問がつまらないということにはなりません。先日は、「葉っぱの気孔の裏表の数の違いを調べましたが、違いがよく取れませんでした。教科書には裏に多いと書いてありましたが...。どうしてでしょう。」という6年生の質問がありました。それに対し答えは「君の方が教科書より正しい」ということでした。厚ぼったい葉っぱ以気孔外は、多少の違いはあれ、表にも裏にも気孔があるというのが実際だそうです。その答えを聴いてスタジオの先生たちは膝を打って(かどうか知りませんが)、大喜びで、先入観なしに事実を観察したその6年生を称えていました。小学生も高学年になると、質問が「哲学的」なものから、鋭い観察眼に基づくものが多くなります。先入観でしかものを見ない大人とは違う新鮮な疑問です。そういう目を受験に追われる中等教育の波にさらわれずにも持ち続けてほしいものです。最期に、この質問者に対しては、「ミズハコベの場合はどうだか調べてみたらどうでしょう」、という次なる課題が与えられていました。好ましい展開でした。



 


言葉の格闘、夏休み子供科学相談室は9月まで聴けます!2/2

2018年09月12日 | 教育諭:言語から、数学、理科、歴史へ

言葉の格闘、夏休み子供科学相談室は9月まで聴けます!2/2

以下、9月11日記載

今回、このように「あら」を指摘しましたが、8月後半の番組にも興味深い解答がありました。8月23日(木)、夏後半の最初の日です。「なぜよい空気と悪い空気があるのか」という質問につづいて、「鳥人間がいれば学校に遅刻しませんか」という質問がありました。

前者の質問に対しての答えはいまいち。「いい空気は人間にとって心地よいからです」が答えでした!。これに対し「分かりましたか?」と訊いて「はい」と答えさせるのはちょっと酷ではないでしょうか。もっといえば、思考停止に誘うことにならないでしょうか。そのかわり、たとえば、以下のように説明すればどうでしょう。宇宙には悪い空気と私たちが思う空気がたくさんあり、そのなかで、ただ一つ、よい空気だと今私たちが思う種類の空気が人間の祖先の生物を育てたから、とうぜん私たちは育ててくれた空気をよいと思い、それ以外の空気は悪い、毒だと思う...、こういう言い方が悪ければ、「合わない」わけです。海で育った魚は海水が好きで淡水は苦手だし、淡水で育った魚は海水が苦手なのと同じですネ。こう説明すれば、たとえば、人間には毒かもしれない別の種類の空気で育った生物がいるかもしれないと考えが広がり、思考停止は免れるのではないでしょうか。

ズグロモリモズさて、「鳥人間がいれば学校に遅刻しませんか」という質問への答えはよく考えられていたので、ここで答えの構成をご紹介しましょう。

「鳥人間がいれば学校に遅刻しませんか」

何故遅刻するのか。

質問者:怠けるから。

飛ぶのにはたいへん労力が必要。(歩く→走る→飛ぶ、の順序で労が多く必要)

怠けたい場合、鳥も歩くからやはり遅刻する。

and

労力を要するから学校へついてもまたご飯が食べたくなりやはり遅刻する。

ところで、鳥はエサ取りのためがんばって早起きなので遅刻しないかもしれない。

早起きの理由は早寝だから。

もし鳥人間が人間同様に夜更かしをするなら、やはり遅刻するだろう。

and

人間同様お母さんが食事を用意してくれたら頑張る必要がなく、やはり遅刻するだろう。

まとめとして、鳥はたいへん努力をして飛び、エサ取りや天敵から身を守るために必死になって早起きをしているのに対し、人間はまわりに世話をしてくれる人がいるのでなまけてしまいがちだ。

結論は、鳥になるより、怠けないで早起きをしましょう。

こうした、心理的、道徳的な答えを導くのは考えをそらしてしまう可能性があるのですが、ここでの答えは、科学の本質からずれず、witとhumourがあり、うまくまとめています。名解答と言えます。回答者のK先生はなかなか人気者のようです。

*写真の鳥はズグロモリモズ。つぎの鳥関連の質問に登場しました。