外国語学習の意味、そして母国語について考えましょう

社内公用語の英語化、小学校での英語の義務化など最近「英語」に振り回され気味ですが、何故、どの程度英語を学ぶか考えます。

会話以外の外国語学習の課題。外来語、翻訳語の検討

2021年09月01日 | 言葉について:英語から国語へ

会話以外の外国語学習の課題。外来語、翻訳語の検討

英語学習のテーマは会話能力にシフトしていますが、忘れがちなこんなところにもさまざまな学習課題があります。それも、上級者ではなく高校生レベルの英語の課題で、誰もが気にする必要のあることでです。

一つは、あなたが話さなくても、あなたの上役の話す英語をチェックできるかどうか。この課題はいずれ扱いたいと思います。明治以来、英語は「英語屋」に任せるということが多かったのですが、その弊害は先の大戦であらわにされました。しかし、いまだに、当時としてはだれだれが「英語が上手」だったという類の評論は多いのですが、感心ばかりしていてもしかたありません。歴史的人物だけでなく、ちゃんと通じているのかどうか、ヒラの人も、組織の外の人もチェックできることも、無視できない英語能力の一端ではないでしょうか。

さて、もう一つは、翻訳語、外来語が正しく使われているかという側面について。これも英語学習の課題です。多くの翻訳語、外来語が当たり前のように日々使われていますが、どこにどんな落とし穴、誤解があるか分かりません。少しづつでも検討していきたいと思っています。今、ふと思いついたのは、翻訳語ではなく、逆に、英語に誤訳される可能性のある言葉のことです。しばらく前に、「積極的平和主義」と政治家が述べていました。これを英語に直訳しようとれば、"active pacifism"、"positive pacifism"が浮かぶのでしょうが、これらは、日本で理解されているような、「だまっているのではなく世界平和に積極的に貢献する」という意味にはならないようです。positive pacifismの方は、紛争だけでなく貧困、飢餓がない状態を指したり、activive pacifismはまったく武力を持たず無抵抗を推し進めるという意味に取られかねません。 いちおう、公式にはproactive contribution to peaceということに落ち着いているようですが、インパクトのある表現であるかどうか...。

やっと入口にたどり着きましたが、つづきは次回に。権利と労働という単語を検討してみましょう。

 


入試英語、外注断念は喜ばしいことか

2021年08月17日 | 英語学習、教授法 新...

入試英語、外注断念は喜ばしいことか

感染症、オリンピックの記事に隠れて、大学入試改革の二本柱が導入延期に追い込まれた、という記事がありました。(産経6月23日)

柱の一つは記述式の導入、もう一つは英語の外部試験委託の件です。効率重視の文部省の施策に苦い思いをして、「それはよかった」、と喜ぶ向きも多いのですが、ここで喜んでいいのでしょうか。ここでは、英語外注の件に絞って論じましょう。

文部省の拙速があらわにしたことは、「改革が不要だ」ということではなく、問題の背景に潜む「哲学」、あるいは「思い込み」です。つまり、「何のための英語試験か」という問いかけが水面上に顔を出したのです。ふだん、システムが機能しているときはこのような問いかけは水面下に沈んだまま浮上する機会はありません。今回の「挫折」ははからずも、人々に入試英語の意義を考えるきっかけを与えてくれたと言ってもいいでしょう。

そこで、期を逸せず議論を深め、新たなシステムを構築するよすがにするべきなのでしょうが、ちょっと疑いがなくもありません。日本の過去を振り返ってみて、大きな挫折のあと問題を深く考え、その後の改革に大いに役に立ったということがあったでしょうか。「ざまあみろ」と溜飲を下して、そのあとはすっかり忘れてしまうということがなかったでしょうか。

ちょっと大きな話になりますが、1945年の敗戦と新憲法制定の過程などにもその気配を感じます。ここで問題となるのは憲法学者や哲学者、知識人と言われる人たちのことです。敗戦とともに従来のビューロクラシーが崩壊したのですから、自由に、日本とは何かを考え、論じる機会が彼らに生じたわけですが、米国の意向と共産主義勢力の政治的影響力の狭間で右往左往しているうちに、米国の意向に押し切られたということはなかったでしょうか。私の素朴な疑問なのですが、どうして「憲法」と言わずに「基本法」としなかったでしょう。「憲法」としてしまうと永続的なものになってしまいますが、主権のない敗戦下においてそのようなものは成り立たないのではないでしょうか。「基本法」としておいて、主権恢復後に再考すると規定しておいた方が筋が通っていると思います。たぶん、当時、日本は食べることに必死で、「憲法」など腹の足しならないものはどうでもいいから、脱脂粉乳でもなんでも下さい、アメリカ様!、という心理が広がっていたのかもしれません。

入試問題外注挫折から、憲法の話に広がってしまいましたが、心理的にみれば同じメカニズムが働くことがあり得ると思います。ほっとしてお茶でも飲んでいないで、大学入試にとって英語はどういうものでなければならないか、また、そもそも試験というものはどういうものか、という議論が論壇で行われるようになってほしいものです。

皆さんにも考えるよすがとして、試験と言うものは以下のどれを目的とするのか。その混合形態、妥協点はどこにあるのか、知っている例を踏まえながら考えてみてください。

試験とは?;

A:定員があるので入学者数を絞りこむため。

B:優秀な学生を選別するため。

C:高校生に大学生となるための準備をさせるため。

まず、この問からスタートしましょう。

 

 

 

 

 


コロナ禍;真に「禍を転じて福となす」と言えるのは何か

2021年08月09日 | 教育諭:言語から、数学、理科、歴史へ

コロナ禍;真に「禍を転じて福となす」と言えるのは何か

「禍を転じて福となす」は、COVID-19型のウイルスが流行り出してから多くの人が口にする言葉となりましたが、本当に福をもたらすのか?。希望的願望(いわゆるwishful thinking)に過ぎないのか、疑問を覚えることもよくあります。具体性に欠けるからです。

しかし、思い浮かべると、二点、今だからこそできることがあるように思います。

一つは、科学を追及する若者にとって強いインセンティヴになるということです。科学もここまで発展してくると、一つの新しい理論に背景に膨大な知識があって、若い人が研究のスタートラインにつくまでの忍耐は大変なものになります(必ずしも苦しいことばかりでありませせんが)。でも、業績を焦って変な論文を書いてしまう若い人を見ていると、若いころから真の探求心が萎えてしまうのかな、と思わないわけにはいきません。ところが、COVID-19に関しては、まだ分からないことがたくさんあり、専門家の知見というものも素人の見方とさほど、いや、まったく変わらない場合が多いのです。2121年の8月の時点では、二種類のワクチンを打った場合の効果はどうなるのか、などありますね。私自身もステロイド剤を服用しているので、それが抗体の形成にどう影響するかを知るための被験者になっています。

すべてが素人に負えることばかりではありません。あの携帯電話の分析による人出の推定など、これはかなり統計学の前提がないと分かりません。ウイルスが「変異体にとってかわる」というのも分かりません。たぶん理学部の学生なら説明できる程度のことでしょうが。でも、これらの難しい点と「分かること」を判別すること、確実性の多寡を計測する、または見当を付ける、それに、意見が分かれていても、証明などと言っていられない場合、どこで妥協、行動に移るか、これらの判断は、ほかの分野ではもっと年をとって「えらくなってから」行うのですが、今、若い人でも目の前にある問題として考えることができるのが今回の感染禍です。中学、高校の授業でも生徒の興味を引き付けつつ生物学の授業ができるでしょう。ウイルスとバクテリアはどう違うの?、ワクチン(vaccine)という欧米語の元の意味は何なの?。今の中高生は2,3年まえの生徒より格段と深く、体系的に学ぶことができるでしょう。

さて、もう一つ。これはzoomなどのシンクロ・動画サービスの活用です。これらは大変進歩している様子で、ぴったりと音が合い、音質もいいようです。そこで、音楽関連の人にはぜひ使ってもらいたいと思います。たとえばクラッシックの合奏、オーケストラの練習をする場合、今では、一か所に集まらなくても自宅からできるようになったのです。いくつか国内、海外のサイトを見てみましたが、まだほとんどの所が実験、折衷という段階のようで、公に演奏しているケースはあまり見つかりませんでした。まだ1年ほどですのでまだ慣れていないのでしょう。(公開の場合、集金はどうするか、という問題もあります)

私が印象を受けたのは、スペインのジャズスクールによる演奏です。ホアン(=ジョアン)・チャモロさんが経営するバルセロナの市営のスクールだそうです(チャモロさんは主にベースを弾きます。容貌はあのアンクルトリスに似ています)。以下のURLではブラジルの曲を演奏しています

2020 feitiço da vila SANT ANDREU JAZZ BAND & ANDREA MOTIS & JOSEP TRAVER

https://www.youtube.com/watch?v=XtwuA-gy2N8


スーパーのレジで思う、YesとNo 

2021年08月02日 | 言葉は正確に:

スーパーのレジで思う、日英、YesとNo

毎日のことですが、スーパーのレジでこのように訊かれます。

「レジ袋、だいじょうぶですか?。」

それに対し、

「はい、だいじょうぶです」と答えれば、それは

「はい、なくてもだいじょうぶです。」のことですが、

「はい、いりません」と同じ意味でしょう。

これを英語で言えば、

"No, I don't."です。"Yes, I do."ではありません。日本語でもつい、

「いいえ、いりません」と答える方も多いのではないでしょうか。

とくにマスク下では、手を横に振って「いらない」という意味を伝えたくなります。ここでうなづくと、店員さんに「ご利用ですか」と訊かれるような気がするからです。

このように、日本語の「はい、いいえ」に英語のYes、Noの論理が覗いて、一瞬判断に困ることがときどきあります。こんなところにも英語学習の課題が隠されているようです。

Yes、Noで言えば、もっと難しい問題があります。Yes、Noを要求する設問に対しては、どちらかを選ばなければ、という強迫観念が生まれるのですが、そのどちらも選んではならない場合もあるのです。

かつて日本国の首相が直面した問題なのですが、「その領土問題は棚上げにしましょう」と相手に言われました。「はい、そうしましょ」、と答えれば、その領土問題が存在したことを認めることになってしまいます。日本は、問題の島が我が国の固有の領土であるという立場なので、YesともNoとも言うことができません。その時首相はどう答えたのでしょう。公式文書の記録よると、「無言で答えた」となっています。辛くもひっかからなかったと言えるでしょう。しかし、そのような消極的な対応では、その後、強弁される可能性もあります。

レジから話が広がりました。しかし、このような日本語の問題も英語学習と無関係ではないでしょう。

 

 

 

 

 


その翻訳語、外来語は正しいか。エビデンスとadversary

2021年03月24日 | 言葉について:英語から国語へ

その翻訳語、外来語は正しいか。エビデンスとadversary

3月21日の産経に、翻訳語に関する記事が二つありました。一つは国際関係、もう一つは医療関連の記事です。抽象的、あるいは主観的性格の強い概念に関しては福沢諭吉たち以来、日本人は苦しみ続けてきた、と言いたいところですが、いつのまにやら、膨大な翻訳語があたりまえのように使われ、分かった気になっている、というのが実情ではないでしょうか。『翻訳語成立事情』(柳父章 岩波新書)のような労作もありますが、これからの評論、大学の教養課程ではもっと徹底するべき課題であるように思います。

国際関係の記事はadversaryとenemyの違いについて。双方とも「敵」と訳すことが多いですが、「簡潔に言えばadversaryは負かしたい相手であり、enemyは滅ぼすべき相手を指す。」と述べています。そうでしょう。辞書というものの不完全さを暗示する点で、こうした指摘は示唆に富むものですが、日英のニュアンスの違いと筆者は言っているものの、ニュアンスというより「論理」の違いと言った方がよいのではないでしょうか。「adversaryは妥協点を探って共存は可能だし歓迎されるが、enemyとの譲歩は屈服でしかなく宥和政策の負のイメージが付きまとう。」と筆者は適切に述べているのですから。教養課程の「英語学習」の課題と言える所以です。

エビデンス = evidenceに関しては、「一般的な方は<エビデンス=絶対的信頼性>ととらえがちですが、エビデンスは日々生まれ蓄積されていくもので、研究の計画や解析方法など、条件の違いにより、相反するエビデンスが生まれることがある」と言い、エビデンスには6つのランクがあると話を進めながら、「エビデンスは大切ですが、絶対視は危険です」と述べていますが、この外来語はこれだけあいまいなのですからそもそも使わない方がよいのではないかと思ってしまいます。少なくともこの外来語への疑問が必要だと思いますが、「実務家」の常として、基本的語彙は疑わず、説明(いいわけ)つきで使い続けるものです(「一般の方」は知らないでしょう、という含みで)。

日本語には、事実、それに証拠という言葉があるのですからそれとの整合性はどこかで検討してもらいたいものです。そのうえで、さらに、言語技術教育の基本概念である、事実と意見、伝聞の違い、十分条件と必要条件をも考慮する必要があるでしょう。

この薬が飲んでみたら効いたというだけでエビデンスと言えるのでしょうかね。いつ?、何回?、誰と誰に効いた?ということが分からなくてもエビデンスと言えば<十分条件>を満たしているような気分でこの単語が使われていないでしょうか。ちなみに今度エビデンスという単語を見つけたら「証拠」に置き換えてみてください。たちまち、「いつ?、何回?、誰と誰に効いた?」という疑問が頭に浮かぶはずです。

外来語の問題は福沢諭吉以来、未解決です。