外国語学習の意味、そして母国語について考えましょう

社内公用語の英語化、小学校での英語の義務化など最近「英語」に振り回され気味ですが、何故、どの程度英語を学ぶか考えます。

映画『オノダ』を見てきました

2021年10月09日 | 小野田寛郎さん
映画『オノダ- 一万夜を越えて』を見てきました

前回の投稿で『オノダ』の予告編について触れたので、見た感想を簡潔に述べます。作品は成功だと思います。

脚本家、監督の着眼点のよかったのは、小野田寛郎の人物を描こうとか、小野田さんの考えを追跡しようとかしないで、部下の島田、小塚さんらとの人間関係を骨格にしたということでしょう。そのため、ルバング島以前はほとんど、ルバング島以降はまったく触れません。
情愛を軸にした人間関係を描くと、単純化され、通俗的になってしまうことが多いですが、この映画は、その幣は免れています。かつて、この映画にも出演した尾形イッセーに昭和天皇を演じさせた『太陽』というロシア映画がありましたが、桃井かおりとの情愛が全面にでるばかりで、脚本の段階での勉強不足が露呈していて、あまり感心しませんでした。『オノダ』ではどれだけ調べたのか分かりませんが、主人公の島田、小塚、赤間ら3人の部下だけでなく、尾形が演じる谷口少佐、鈴木青年との間に生まれる劇的関係が説得力を持ちます。じっさいの小野田さんは終生感情をむきだしにする人ではありませんでしたが、島田、小塚への友愛の感情、鈴木青年への共感(青年が亡くなったヒマラヤまで追悼のため赴いた)など遺した言葉から強く伝わります。映画ではこうした場面は小さな花を手向ける場面などで象徴的に描かれます。かつて小野田さんはこう書いています。

真夜中、敵の気配で目を覚ました。「おい、何か聞えなかったか?。」隣で眠っている小塚を起こそうとした。あれ、小塚がいない。どこへ行ったんだろう。ああ、そうだった。小塚はもう死んでしまったのだ。すると今のは夢だったのか、やっと納得したところで目が覚めた。

これは文章でしか表せない、文章でこそ表わせる心理ですが、監督は映像でこれに対応する効果を表現しようとしたのでしょう。

谷口少佐の戦前、戦後での態度の相違、鈴木青年への違和感など、時代の違いは説明的に描かれません。いままで小野田さんを論じたり、映像化したりするとき焦点が当たる面ですね。これらについては、観客にある程度知識を依存して、そっと触れるだけです。しかし、暗黙のなかに、観客の想像力に訴えることで説得力ある場面になっています。鈴木青年に銃を突きつけながら、しだいに内面の武装解除をしていく描写など「小野田をじっくり味合わせて」くれると言いましょうか(靴下を履いているのを見て地元の人間の偽装ではないと推測する点など、ちょっと説明が必要な点もありましたが)。谷口元少佐が鈴木青年に、昔のことは忘れたと言いながら揺らいでいる様子、そして、任務解除を口もごりながらかつての部下に伝える場面をはじめ、尾形の活躍は賞に値します(監督の功績かもしれません)。

監督はどういう人か知りませんが、映像、映像のつなぎ、色など映画の非演劇的な側面でもとても快適です。フランスの映画界の実力ということでしょうか。3時間ありますが、見る価値はあります。


映画『オノダ』」公開を前にして

2021年10月06日 | 小野田寛郎さん
映画『オノダ 一万日を越えて』公開を前にして

今週末、フランス人スタッフ、日本人キャストによる映画、映画『オノダ 一万日を越えて』が公開されます。
このブログは、今では語学、言語の話題に特化していますが、最初は、知人に勧められるままに、とくに「表現欲求」というものもなく、小野田寛郎さんと戦前の駐米大使斎藤博についてメモ程度に書き始めたものです。
小野田さんはだんだん忘れられていくのかと思ったら、フランス人の監督により、日本人のダブルキャスト(青年期、中年期)で映画化されたという報道を新聞で知りました。

以下が予告編です。

中年期の俳優さんが知られている小野田さんの姿とそっくりなのにちょっと驚きます。そっくり、と言うより、ある種の普遍的な姿がそこにあるな、とさえ思います。しかし、予告編、フランスでの批評などいくつか見ると、少し気になる点もあります。人間、とらえきれない人物像があると、二項対立的に説明しようとします。それで分かった気になるのですが、実像は逆に見えなくなるということもあります。カンヌ映画祭サイトのある批評では、「国家主義的右派にとっては英雄であり、一方、詩人たちにとっては聖なる愚者、現代のドン・キホーテである」などと書いています。これは今に始まったことではなく、小野田さんが現われたときからずっと矛盾する意見があふれていました。
ここでは、気になる点を一点だけ触れておきましょう。映画の予告編では父親から短剣を受け取るのですが、じっさいは、母親から受け取ったもので、それは母親の実家である、和歌山藩の家老職にあった家の女子に代々伝わる小刀です。監督はそれを知って変えたのか、知らなかったのか分かりませんが、映画が小野田像を単純化していないことを望みます。(他の点では、師団長の命令は、たしか、小野田さんは静かな声で下されたと書いていたと思うのですが、予告編では激した様子で行われています。)
小野田関連では、以下の3つの動画が注意を引きます。映画を見る際の参考になるかどうか。

●実録・小野田少尉  遅すぎた帰還 (前編)(後半)
盛り込みすぎの感があります。中村獅童が活躍。

●小野田寛郎の三十年戦争(ドキュメンタリー)
母親に焦点を当てています。「平和主義」の枠。

●「生き抜く」最後の日本兵・小野田寛郎
1年間の取材に基づき行われた戸井十月による長時間インタビュー。





「労働」、翻訳語、外来語の検討。続き

2021年09月10日 | 言葉について:英語から国語へ
「労働」、翻訳語、外来語の検討。続き

前々回と前回は「権利」という翻訳語にについてでした。こういう基本概念は大学で哲学を担当する先生が教室でもっと吟味してもらいたいものです。今、「哲学」が大学ですみに押しやられているようですが、基本概念を学生に考えさせるだけでも、哲学の先生はとても大きな存在意義があると思います。
今回は「労働」。work、labor (labour)の訳語、というより、もともと日本語であったような単語です。でも、子供のころから、「労働者」というと、どうして商店主や農家、経営者たちは含まれないのだろうかと疑問に思っていました。社長さんだって働いているではないか、と。単に「働く」と「労働」は意味が違うのか、と。
答えは意外と早くやってきました。「労働」というとき、労働はなんらかの代償によって報われるもので、多くの場合、数字で表わすことができる売り物だということです。「労働」は売り渡してなんぼです。そこで、働いたにも拘わらず給料が払われない、寡少であるということは、「労働が盗まれた」と言えることになります。経営者は我々の労働を盗む盗人であるという論理につながります。それにより経営者からお金を奪い返すことは正当な権利となり、「革命」が正当化されることにもなりかねません。
世に労働歌というものがあり、その歌詞は、将来もたらされる代償のために現在の苦痛に耐えよというものです。「代償を交換価値とする労働」という考えがもとにあリます。「働く」こと自体を歌っているという感じではないのです。
有名な『森の水車』は「仕事にはげみましょう。」「いつの日か楽しい春がやってくる」で終わります。

緑の森の彼方(かなた)から
陽気(ようき)な歌が聞えます
あれは水車のまわる音
耳をすましてお聞きなさい
コトコト コットン
コトコト コットン
ファミレドシドレミファ
コトコト コットン
コトコト コットン
仕事にはげみましょう
コトコト コットン
コトコト コットン
いつの日か
楽しい春がやって来る

雨の降る日も風の夜も
森の水車は休みなく
粉挽臼(こなひきうす)の拍子(ひょうし)とり
愉快(ゆかい)に歌を続けます
コトコト コットン
コトコト コットン
ファミレドシドレミファ
コトコト コットン
コトコト コットン
仕事にはげみましょう
コトコト コットン
コトコト コットン
いつの日か
楽しい春がやって来る

もしもあなたが怠けたり
遊んでいたくなったとき
森の水車の歌声を
ひとり静かにお聞きなさい
コトコト コットン
コトコト コットン
ファミレドシドレミファ
コトコト コットン
コトコト コットン
仕事にはげみましょう
コトコト コットン
コトコト コットン
いつの日か
 楽しい春がやって来る 

果たして、働きというものは代償ということで言い尽くせるものでしょうか。フランスの詩人、ポール・ヴァレリーが、木の葉を描いている画家のドガに、「なんて絵描きは辛抱のいる仕事だろう」と言ったら、ドガが、「お前はばかだ。こうやって描くのが楽しいのが絵描きなんだよ」と応じたといいます。
以下の、音楽評論家、吉田秀和へのインタビューで、吉田がこのことについて語っています。15分30秒ぐらいから。

ここには世に「労働」と言われるのとは異質の哲学が表明されているとみることができます。

子供のころのことに戻りますが、周りの中小企業主の間で、communistsが嫌われた、あるいは恐怖を持って見られたのはこういう労働=代償説だったようです。経営者=盗人という見方は職場の信頼関係を損なうと見られたのです。もうひとつ、世襲ということを、「親が金持ちだという理由だけで金持ちになれるのは不正だ」と言う理由で、communistsが毛嫌いすることも忌まわしいことでした。経営者にとってcommunismはこういうものでした。経営者はマルクスを読んでいるわけではないのですが、心の片隅にみな小さなドガを持っていたのです。
現代の複雑な社会の問題を解決するためには労働を数字化することは必須です。ですから政府の語彙にも「労働」はあり、問題を分かりにくくしますが、「万国の労働者よ、団結せよ」という場合の「労働」とは厚労省の「労」は違うのです。


翻訳語、外来語の検討 「権利」から「労働」」へ

2021年09月05日 | 言葉について:英語から国語へ
翻訳語、外来語の検討 「権利」から「労働」」へ

rightsについてもすこし。
前回は、権利という翻訳語が、債権の正当性から政治的な意味に広がった過程を述べました。権=力(power)をもつ正当性、つまり、「理=ことわり」がrightsなのですから、権利より福沢が一時用いた権理の方がよいのではという問いかけでした。
福沢は、『西洋事情二編』ではライトの意味を5つに分け、「譬えば訳書中に往々自由(原語「リベルチ」)、通義(原語「ライト」)の字を用ひたること多しと雖も、実は是等の訳字を以て原意を尽くすに足らず」とも述べています。ここでは、rightsの訳としては「通義」が用いられています。

5つとは、
⓵「ライト」とは元来正直の義なり。漢人の訳にも正の字を用ひ、或は非の字に反して是と対用せしもあり、正理に従て人間の職分を勤め邪曲なきの趣意なり。
又此字義より転じて、求む可い理と云う義に用ることもまり。漢訳に達義、通義等の字を用ひたれども、詳(つまびらか)に解し難し。元来求む可き理とは、催促する筈、またはまたは求めても当然のことを云う義なり。譬(たと)へば至当(しとう)の職分なくして求むべきの通義なし云う語あり。即ち己が身に為す可き事をば為さずして他人へ向ひ、求め催促する筈はなしと云う義なり。
又事をなす可きと云ふ義あり。即ち罪人を取押るは市民廻り方の権なり。
又当然に所持する筈のことと云う義あり。即ち私有の通義と云へば、私有の物を所持する筈の通義と云ふことなり。理外の物に対しては我通義なしとは、道理に叶はぬものを取る筈はなしと云う義なり。
人生の自由は其の通義なりとは、人は生(うまれ)ながら独立不羈にして、束縛を被(こうむ)るの由縁(ゆえん)なく、自由自在なる可き筈の道理を持つと云ふことなり。

⓵は、形容詞としてのrightでしょう。⓶が前回述べた「債権」、⓷は権利でなく、権力=power、⓸が現在使われる普通の意味の権利。つまり「正当性」のある「力」。所有権が典型です。⓹が人権。神が与えたもので奪えない権利です。
これは、実は、前回引用した『翻訳語成立事情』にも引用されている部分です。著者は上のように一つ一つ分析せず、漠然と福沢は「思想の道具としてのことばに対する感覚の鋭さは群を抜いていた」と述べていますが。どうも、著者は日本では力としての「権」が⓸、⓹の権利と区別されないで今に影響しているということを全体で言いたいのでしょう。rightの意味をpowerに対立させたい立場です。ちなみに、福沢が用いた権<理>についての言及はありません。
今に影響しているというのは、じつは、結論ではなく実情で、ここからスタートして明治に至るというのが正攻法だと思うのですが...。現代の用語で「権」のみ用いた場合、「三権分立」は⓷のpower、「生存権」と言った場合⓹= 人権、human rightsですネ。「捜査権」となると、⓷の意味なのか、⓸や⓹のような権利、つまり正当性の意味が入るのか、たしかにあいまいです。

「権利」の項、最後に、福沢らが翻訳に苦労し、問題を引き起こした⓹のhuman rightsがはらむ課題を二点挙げましょう。以前にも触れた気がしますし、翻訳語の課題から外れますから、またどこかほかのところで見てみたいと思います。
一つ目は、市民権を与えることでいままで〇〇で貶められていた人が、「尊厳」(dignity)を持って、大手を振って歩けること。いままでは同情を買うか、礼儀をもって接するのを期待するかだったのが、大っぴらに「権を張る」(明治の民権運動家の用語)ことができるようになったということ。
二つ目は、人権といえども、背景に権力があることです。生存権を主張しても、それだけでは生命は保証されません。主張する人は社会の容認、そして裁判所の判断を期待して主張するのです。
この二つが合わさるとどういう社会現象を生み出すか。現在起きていることの原因として論じることができるか。これは難しいですね。これは回を改めて。
ここでrightsの項目は終わり。つぎは「労働」です。









「権利」「労働」:翻訳語、外来語の検討も英語学習の一面

2021年09月04日 | 言葉について:英語から国語へ
「権利」「労働」:翻訳語、外来語の検討も英語学習の一面

前回を前置きとして、「権利」、「労働」という、抽象的であっても、ごく当たり前の概念として日々使っている単語を、本当に分かっているのか再検討しましょう。「労働」はともかく「権利」は欧米語からの翻訳語です。

翻訳語、外来語は本当は分かっていないのに分かったことにしている場合が多くあります。分からないことを分かったことにすると、知的興味をマヒさせかねないので、大学の哲学の先生はどしどし学生を相手に意味の検討をしていただきたいと思います。

じつは、若いころ「権利」だけでなく「権理」という訳語も好んだ福沢諭吉から始めようとしたのですが、今回復習したら記憶していた以上に複雑だということが分かりました。いろいろな説や説明がネット上に出ていますが、以下の2つのリソースは読んでおくべきでしょう。

『翻訳語成立事情』岩波新書黄189 柳父章著

そこで、私たちが日常的に「権利」をどう使っているかを思い起こすところから始めましょう。さて、ここで「権利」が何の訳語かというと、英語では、right、フランス語ではdroit、ドイツ語ではrechtです。「権」は力という意味です。

3つとも形容詞としては「正しい」、「適切な」という意味を持ちます。それが名詞になると、"Owning a gun is one of our basic rights. : 銃の所有はわれわれの基本的権利の一つだ"という具合に使います。もっと基本的な使い方を探ると、金、労力を提供した人の「権利」つまり、債権でしょう。借りた人は債務を負います。返す「義務」です。金などの貸し借りの約束がもとにあるのではないでしょうか。このことは、「求む可き理」という表現で、『西洋事情二編』(明治3年、1870)で福沢諭吉が指摘しています。

貸した人はなんでも力を持てるわけではありません。right = powerではないのです。貸した分だけです。古代の法における「目には目を、歯には歯を」にもこのことは表されています。なんでも貸し手ができれば商取引も、社会の秩序も保てません。高利貸しが来て娘を連れて行ってしまいます。シャーロックなら肉と血。つまり、「見合っている」、「正当である」というのが権利の前提概念です。(それが慣習なり法、国家により認められ、保証されて初めて実効性を持ちます。)

さて、rightは政治の分野において大きく意味が広がります。参政権という言葉がありますが、参政権は何を債権としているのでしょうか。それはがんらい、国家への寄与だったのではないかと思います。古代ギリシャで平民が権利を持てるようになったのは、ペルシャ戦争で船の漕ぎ手として国家に勝利をもたらしたからではないですか。日本では選挙権があるかどうかは当初、税額で決まりました。それがだんだん減額して25歳以上の男子すべて、つまり普通選挙になったのです。男子というのは、徴兵の義務と対応していたのでしょう。

1945年以降、20歳以上の男女が有権者になります。しかし、ここで問題が起きます。何が権利に対応する義務なのでしょう。犯罪をしないこと?。品行方正なこと?。公民権剥奪という例外はありますが、基本的には、何もありません。マルクス主義による脅威や、もっと漠然とした時代の要請によって普通選挙が不可避となったのではないでしょうか。

ここに大きな問題があります。参政権であれば日本国民という限定がありますが、知る権利、言論の自由などは、日本人でなくても持てる権利で、国家が保証するという力の裏付けがあります。これが人権、human rightsです。先に挙げた、"Owning a gun is one of our basic rights. ”も人民の反対給付を必要としていません。福沢らが困惑したのはこうした政治的な意味での権利です。でも権利なのですから、どこかで義務が発生しているのではと考えることもできます。たぶんそれは神=Godでしょう。神が与えた権利なので誰にも奪えないのです。でも、と、もう一つ「でも」が出てきます。日本はキリスト教国ではないので、どうしてそれが成り立つの、という疑問です。たぶん、それは、我々日本人もある程度キリスト教徒だから、と言ったら奇異の論でしょうか...。

だいぶ、「権利」に費やしました。「労働」は次回。最後に、福沢は、自分の造語ではないようですが、若いころは「権利」だけでなく「権理」を好んで使っていたことについて一言。西周や中国の文献などでは権利の語が使われ、それが現在まで続いていますが、単に債権という意味ではなく、政治的な意味、つまり、「力を有する理(ことわり)」をより明快に表すことができるのは福沢式の方ではないかと思いますが、いかがでしょう。
「権利」から「労働」へ