小林真 ブログ―カロンタンのいない部屋から since 2006

2006年開設の雑記ブログを2022年1月に市議当選でタイトル更新しました。カロンタンは40歳の時に飼い始めたねこです

九月最初の日が月曜で大雨というのは悪いものでもない―斎藤環評、蓮實重彦『「ボヴァリー夫人」論』

2014-09-01 23:32:30 | 読書

 

九月最初の日が月曜で大雨というのは悪いものでもない、と思いつつなんにもせず、寝床で昨日は朝から出かけたので読めなかった毎日の「今週の本棚」を読んだ。

村岡花子のミミズの童話が受け容れられないことに憤る高畑勲、「下降調の結び(タイニング・フォール)」と妻ゼルダの精神の崩壊、F・コッポラ『ゴッドファーザー』シリーズと『サーガ』を思い起こした作者自身の構想による死後の構成違いの改訂版をオリジナルの方が「はるかにスリリングであり、緊迫感があると思われる」とし、「いとおしい傑作」というフィッツジェラルド『夜はやさし』の井波律子評もよかったが、何といっても「古典」「文学」の深層を掘り下げた斎藤環評、蓮實重彦『「ボヴァリー夫人」論』

「小説は決して終わらない」「読後、ごみ箱にそのまま投げ捨てられるような批評」「あまりに凡庸な『地獄の黙示録』のヘリコプターシーン」(すべて引用不正確)といった著者の言葉を三十年あまり、よくわからなくても圧倒されながら、もちろんたまにではあるけれど追いかけてきた。その言葉が何の中でだったか近頃の言語空間で旗色よくない「ポストモダン」の全体にあらためて力を与える確かな論に、〈安心〉したことのある評者によって明かされる。

…構造や文脈を超えたところでストーリーを変化させるのは、著者も言うようなテクストの細部の配置である。この配置のありようにおいて、テクスト的現実が機能する…本書がなしとげたのは、『ボヴァリー夫人』という名を持つ「長編小説」が、その背景に「散文」生誕の「昨日性」ないし「事件性」をはらみつつ、いまだ「文学」との「公式の関係」を結びそびれている「孤児」のような作品であることを説得的に示すことだった…およそ「古典」と目される書物は、いかなる体系にも安住しがたい不安定さをはらみつつ、あらたな批評と解釈によって更新され続けるアーカイブの総体そのもののことではなかったか…

そうだ、「配置」であり、「『文学』との『公式の関係』」であり、「不安定」。

九月最初の日が月曜で大雨というのは悪いものでもない。
さあ、秋だ。どの季節も変わらないけど、本を読もう。

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8月31日(日)のつぶやき

2014-09-01 07:50:03 | 毎日のTwits(since Dec.2009)

監督と「旅する映写機マニア」を迎えに。この駅はこの位置から撮れる fb.me/3DHVO9IL9


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