19日の午後、寺小屋・入江さんの poetry reading 「【寺小屋】『言葉の時間』━「『吉永小百合、オックスフォード大学で原爆詩を読む』を読む」」に出かけた。入江さんとBGMと寝そべり担当のこまどり社のほか、私を入れて参加は六名。深谷を代表するサユリスト氏ももちろんいて、どうやら発端はこっちの氏らしかった。
きいて、よんだのは峠三吉の『原爆詩集』と江間章子『花の街』で、かんがえたのは、「げんばく」をすぐにはなれて、「にんげん」や「ことば」や「詩」のこと。入江さんに指されて、「にんげん」では先週きいた大けがをした整体師の話から唯物論と近代的思考、「ことば」では一九九〇年代「朝まで生テレビ」での池田晶子と西部邁の対話のことを話した。では、「詩」とは。
入江さんとみなさんの話をきいて思ったのは、ポエジーという「かみ」の三位一体。「ことば」がげたをはいたり、ふくらんだりして、えらぶらない特権を手にするのが「詩」だとずっと思っていた。
だから、詩はそこらじゅうに偏在する。確か去年死んだ辻井喬が詩のまわりの人々のことを、「感性の貴族」と書いていたのを三十年くらい前のたぶん「鳩よ!」で読んだ。
「わたしにつながるにんげん」の「かんせいのきぞく」のきおく。
またよんでください、「わにになって」。
さんぶん、いんぶん、にんげん。
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