プリメイラ Honolulu

袰岩奈々のホノルル・カフェぶらぶら日記。
こちらもどうぞ→ https://note.com/nana_horoiwa

Canta! Timor グリーフと分断へのヒント(3)

2018-11-23 19:30:58 | 考えたこと
毎年、5月の最終月曜日にあるメモリアルディに
ハワイではランタンフェスティバルがある。
2011年、長蛇の列に並んで手にしたランタンに書いたのは、
当時、まだカウアイ島のお寺の住職だった
藤森さんから届いたメールに添付されていた、
「東日本大震災の犠牲者を想う法要」の式次第に
書いてあった以下の詩だった。

大地よ
重かったか
痛かったか

あなたについて
もっと深く気づいて
敬って
その重さや痛みを
知る術をもつべきであった

多くの民が
あなたの
重さと痛みと共に波に消えて
そして大地へ帰っていった

その痛みに
いま私たち残された多くの民が
しっかりと気づき
畏敬の念を持って手をあわす

 アイヌ詩人 宇梶静江


震災後、あれだけのことが起こったのだから、
きっとたくさんのヘルプが東北に集まり、
被災した人たちにとっても
福島の問題についても、
世界の英知が結集して、
何か手厚いサポートがあるのではないかと
期待した。

けれども、時々、訪れて感じる日本の雰囲気は
よりトゲトゲしい、何かピリピリした
緊張の続くものだった。
3年が過ぎた頃からは東北へのサポートが、
なんだかゆっくりした、
重いものになった印象があった。
福島や原発について話すことがためらわれるような
そんな感じがした。

「多くの人が遠い」
Canta! Timorでの大きな問い「この戦争のからくりから私たちは独立することができるのか」
「問いがあればウマルリックの守り女に尋ねに行くといい」というアドバイスに従って
応えを聞きに行ったときのルリックの言葉だ。
「近い者が数少なくなっている」
「大地・水・目に見えぬものへの敬意を忘れたとき、
人類は絆を失うんだよ」とも。

福島から子どもたちを招くイベントに携わったときに
目にした「分断」という言葉が頭をよぎる
この「分断」ということが、
震災数年後からずっと、気がかりだった。
悲しみは悲しみとして続いている、と考える人たちもいれば、
亡くなった人のことや悲しさはさっさと忘れて、
次に進むべきだと考える人たちもいた。
そんなふうなことも、分断をすすめ、
「わかってもらえない感じ」や
「みんなと違う感じ」が拡がっていた。

みんなで手をつないで踊るtebe。
脱穀するときの様子を歌った踊りと歌だそうだが、
このtebeをインドネシア軍は嫌ったという。
シャナナが説明するときの手の取り方もすごい。
がしっと、つながるつなぎ方。

ハワイのイベントの最後はアロハオエで終わることが多い。
そのとき、会場にいる人全体が手をつなぐ。
もらう手と送る手があると聞いた。

Kids Hurt Too Hawaiiでは、みんなで集まって遊んだ後、
子どもたちと終わりの会をする。
みんなで手をつないでハンドスクイーズで終わる。
ぎゅっ、ぎゅうっと隣の人の手を握っていく。
子どもたちは
「Loveを送っているんだよ」
と説明してくれることもある。

ハワイ東海インターナショナルカレッジでの上映会&監督のトーク後、
音楽監督をなさった小向サダムさんが、ギターを抱えて歌ってくれた。
その中の一つがTebe。
みんなで手をつないで、稲穂を踏む踊りを踊った。
オーディトリアムいっぱいに拡がって。

手をつないで踊ることに相当する何か。
それが見つかれば「分断」が消えていく?
そんなことがふと、頭をよぎる。

つながろうとして対話するか、
ことさら違いや間違いに注目して、
勝ち負けのあるディベートをするか。

「分断」と「グリーフ(悲しみ)」は
しばらく私にとってのテーマになり続けるだろう。




理不尽さへの耐性

2018-11-22 10:50:15 | 考えたこと
今からは想像つかないだろうが、
小さい頃、喘息で病弱な子だったので、
絵本をいっぱい読んで過ごした。
父親は悲惨な話が出て来る本が混じらないようにと、
本屋さんで立ち読みして検閲し、
父親から見て悲惨すぎないと判断されたもののみ、
選び出されたと、母親から聞いたことがある。

それでも昔から童話としてある話は手元に届き、
人魚姫や幸福の王子、フランダースの犬、
赤い靴、銀河鉄道の夜など、どこか理不尽で、
結末を変えたくなるようなストーリーに出会って来た。
毎日、寝る前に読んでもらっていたのは
「銀河鉄道の夜」で、
理不尽な終わり方の物語のほうが、
どういうわけか繰り返し読んでしまう本の一つだったりした。

この納得できない結末のストーリーを読みながら
身につけていたのは
「ネガティブ・ケイパビリティ」だったのではないかと思う。

ディズニーの人魚姫は泡になって消えはしない。
どこまでも前向きで好奇心旺盛、
愛するひとのために一時的に声は失うが、
最後はハッピーエンド。
悪者は成敗される。気分スッキリ。
こう来なくっちゃ! とみんなの望む展開。

これはこれでいいのかもしれないが、
世の無菌化と並行するように、
世の無不快化が進み、
而してネガティブ・ケイパビリティは低くなる。

悲しみの傍らに居られる力、
答えのすぐ出ない理不尽さを抱えながらも笑える力、
これを何とか身につけたいと思いながら過ごす、日本滞在です。

お金のこと

2018-04-28 12:57:58 | 考えたこと
田中さんから伺った、
坂口恭平氏をグーグルしてみる。
それはそれは、とってもいろんなことをしていて、
一体、この方のどこからとっつけばいいんだろうと
思ったのだけれど、
これが最近、感じたり考えたりしていることに
とっても近くて、なんだか嬉しかった。

昔、義理の母の不動産関連の仕事を手伝っていたとき、
会社に税務調査の人がいらしたことがある。
その時に感じたのは
「人が何か頑張ったり仕事したりするのはお金が欲しいからだ」
という前提の元に調査をするんだなぁ、ということ。
「一番、自分が儲かるようにと考えるはずだ」
という前提も。
そんなに疑いの目で見続けて疲れないかなぁとか。

そしてハワイに来てからというもの、
仕事もせずにボランティア三昧をしていて、
ボランティア先から収入を得るどころか、
寄付貧乏になっているというのに、
「あれだけ一生懸命になってやってるのは、
たくさんお金をもらってるに違いない。
よっぽど何かいい思いをしているに違いない」
と思われたりすることがあった。

お金はあるに越したことはない。
もちろんいっぱいもらえたら嬉しい。
でも、お金のやりとりの無いところで
お金を目的とするのでは無いところで
動くなにものかにとってもひかれるのだ。

「何がやりたいの?」って聞かれて

2018-04-15 16:26:33 | 考えたこと
友人としゃべっていて、
「一体、何がやりたいの?」
と質問された。
還暦目前に若者にするような問いを
向けられるとは思わなかったのでとまどったが、
このところ、いろんなことに首を突っ込んでは
ドキドキしたり、落ち込んだり、ワクワクしたり
してるので、まあ、そう質問されても
仕方あるまい。3回目ぐらいの思春期なのだ。

ハワイに来てから、いろいろやっている。
どれも自分が主体ということはなく、アシスタント的。
Kids Hurt Too Hawaiiは確かにミッションを感じて
かなりなコミットぶりではあるが、あくまでも、
シンシアとヒロが主体。
Kids Hurt Too Hawaiiにとって、より役立つことを
というスタンスでかかわっている。
「やると役立つ」ことだからやるというのと、
「やりたいと思う」からやることとには、
そこここで、ズレがある。

リビングオハナ
というNPOも友人とやっている。
子どもたちへの読み聞かせとクラフトを作ることとが
中心だが、友人とあれこれ言いながら、
あれこれ面白いことをやれるので続けている。
ただ、上記問いにぴったりくる答えではない。

では、カウンセリングか。
いわゆる、だれかを助けたいという気持ちとは
かなり違う気がする。助けるだなんて、おこがましい。
じっくり、人の言葉に耳を傾け、言葉にならない感情に
フォーカスすること。これがやりたいこと、なのだと思う。
これまでは言葉を使ってやりとりしてきたけれど、
ハワイに来てからは、身体の感覚にもっと目を向けたいと思った。
ピラティスに通ったのもそのつながりだし、
ちょうどいい具合に、日本では野口整体の先生と出会った。
偶然、ヨガのインストラクターでもある心理療法家とも友人になった。

きっと、今、やりたいことは、
身体と感情とのつながりについて理解し、
何か解きほぐせるようになること、のような気がしている。
具体的にどうやって? がまだ見つからないでいるのですが。

Tweetが地域のハッピー度を示す

2018-01-31 20:27:11 | 考えたこと
ポジティブサイコロジーをオンラインで学んでいるのだけれど、
その中でこんな記事に出会った。
twitterのつぶやきを解析して、地域ごとにどんな言葉が多く使われているかを調べる。
そうすると、ネガティブな言葉が使われている頻度が高い地域と、
心疾患で亡くなる人の多い地域とが相関しているという研究結果。
twitterでネガティブな言葉をつぶやいている人が亡くなるというのではなく、
ネガティブなつぶやきの度合いと
心疾患で亡くなる人の率が同じ傾向をあらわすという内容。
コミュニティがハッピーであることが
個人の健康に影響するということが
twitterで使われている言葉からわかるっていうのは面白い。
リビングオハナ的な活動が地域のポジティブなtweetに還元されたら
嬉しいなぁと思ったり。

自分のつぶやきの傾向をチェックすることで
最近の心理状態がわかるという話も。
こっちについては勝手に心理状態を把握されるのは嫌だなぁと。
facebookとtwitterとで、ネガティブな独り言はどちらかといえば
twitterに投稿することが多い。どんどん流れて、適度に薄まるし、
周りからのリアクションもほぼ、無い。
ちょっと愚痴って、スッキリするという使い方。

「ネガティブな感情」を安全に表現できる場。
これからもっと必要になっていくかもしれないなぁ。

toxic meme generator なる言葉

2018-01-30 10:26:05 | 考えたこと
面白い記事を見つけた。
その中にあるtoxic meme generatorなる言葉。
害毒ミーム発生器とでも言えばいいのかな?

エール大学のDan Kahan教授が記事の中で使っていて、
結果として人びとに「分断」をもたらす、と。

「分断」という言葉は今年の私にとってのキーワード。
昨年からあるプロジェクトにかかわっていて、
その中で、何回か聞いた言葉だからだ。

部外者として聞いていると、
そんなところで分断が起こるのか…のように思うのだが、
思い返してみれば、同じ思いや目的を持っていても
グループが割れ、(陰で)お互いの悪口を言い合う的な状況に、
小学校のころから大人になるまで、何回も遭遇している。

この記事の文脈でいうと、
影響力のある人がそれまではコメントされることがなかった事態や
批難や批判されることが無かった出来事に対して、
批判的なコメントをする。
その批判的な態度や雰囲気がミームとして伝染し、
広がっていく。
あるいはこれまでそのふるまいはその地位にある人にとっては
ふさわしくないとされていた行動が
別に、いいんじゃない? 的に広がっていく。
そのことが混乱や「分断」につながる。
協調的で建設的な動きを阻害してしまう。

昔、猛烈サラリーマンの父親が、
「部内で足の引っ張り合いをしている場合じゃないんだ。
戦うべき相手は会社の外にいっぱいいるわけだから」
と言っていた言葉が思い出される。
意図的に、あるいは無意識的に
「分断」をはかっているとしたら…?

toxic meme generatorなる言葉。
興味深い。





グリーフサポートせたがやで

2016-03-31 08:30:37 | 考えたこと
日本滞在に合わせて、
グリーフサポートせたがやさんが、
「グリーフサポートせたがや連続講座2」の
講演録「私も大事 あなたも大事」の発刊記念として
世田谷区長、保坂展人さんとの対談を企画してくださった。

久しぶりに人前で話すので、ちょっと緊張したけれど、
高校時代の友人やお仕事で知り合った友人、
ハワイからたまたま日本を訪れていた友人が
来てくれていて、なんだか、ほっこりできた。
私から話したことは、不登校の子どもたちとかかわり
を持つようになったときに、そのフレームワークとして
参考にしていたものがあり、それは2冊の子ども向けの本で、
「いいなぁ」と子ども心に思ったものだった、というようなこと。

それらのひとつは「ドリトル先生」。
みんなが「トミー」と呼ぶ子どもに対してドリトル先生は「スタビンズ君」と呼びかける、
という一節。子どもを一人前扱いしてくれるって、いいよなぁと。
もうひとつは「たくさんのお月さま」のストーリーで、
「専門家」と呼ばれるひとたちがトンチンカンなことを言うなか、
子どもに直接「どういうことなんだろう?」と聞きに行く道化師の存在で、
子どもは結構、いろいろわかってんだよ、とか道化師みたいな
存在があるといいんだよなぁ、というようなことを思ってたなぁという話。

そういえば、「グリーフサポート世田谷」さんの作る場は
「その人がその人らしく」居やすい、安心できる雰囲気を
持っている。「ちゃんとやらないと」的な不必要な緊張がない。

なんというか、大事なのは
《いらした方に
いらした方が必要としている
「何か」が届けられること》なのだ、
というところが共有されているからなのかもしれない。

この講演会ではノートテイクの方、日本語手話の方と英語手話の方が入っていて、
日本語手話を英訳して英語手話で伝えてくれていた。
そういうことができるって、すごいなぁ。

びっくりしたことに、
保坂さんの秘書さんは、弊社事務局あろはのウクレレ仲間さんの夫さんで、
ウクレレ仲間さんは去年、事務局あろはとハワイにいらっしゃり、
私も一緒にウクレレ製作者さんを訪ねたりしていたのです。
今回、対談をすることになって初めて明かされる、事実!
どこで、だれとつながっているか、わからないものですねぇ。

グリーフサポート世田谷さんも
KHTHと同じく、寄付金が運営資金。
よかったら、ご寄付、よろしくお願いいたします。


母語で読み聞かせをするということ

2015-09-10 19:31:53 | 考えたこと
カパラマ雑記 0910
 2012年の11月、仲間数人で「リビングオハナ」というグループを始めた。
前身は「おはな文庫」。
絵本の読み聞かせをするグループで、
現在は読み聞かせだけではなく、ヨガやストレス軽減セミナー、
食」に関するワークショップなども行っている。

 先日、夏休み明けに子どもたちに向けて、
久しぶりに「絵本の読み聞かせ」を行った。
1歳から4歳までの5人の子どもたちが集まり、
日本語の絵本を次々と楽しんだ。 
子どもたちが生き生きと自分らしく反応している様子や、
何かに気づいて「あ、あ!」と言っているのを見て、この時期の大切さが身にしみる。 
特にバイリンガル環境に置かれた子どもにとって、
母親の母語のリズムで読まれる絵本は安心のもとだとか。

ハワイに移り住んで間もない子どもたちもいて、
彼らにとってもリラックスできる時間だったようだ。
 そういえば、移住してすぐのころ、英語漬けの日々に、
息子が頭から湯気をたてて、オーバーヒートしていたのを思い出した。


こんなサイトも見つけました。
⇨ 月刊じょうほう『オアシス」の誌上に毎月連載の「暮らしの心理学」が全て閲覧できます。
⇨ 赤ちゃんの言語習得能力を脳機能イメージングで研究

卵は立つ~「思い込み」に気づくこと

2014-02-18 17:17:17 | 考えたこと
ブログへのアクセスが上昇したのに気を良くして連投。

年末ごろだったか、お正月ごろだったか、
ランディさんのブログで、石がにょきっと立っている
不思議な光景を目にしました。
重心を探すと見つかるのだ、というような解説に、
「うう、やってみたい」と。

けれども、石が身近に無いしなぁ、
日本に戻ったときにでも試してみようかなぁと
思っていたところ、
藤田先生のフェイスブックで
卵を立てようとしているシーンを発見。 

そうか、石が立つのだったら、
卵だって立つだろう、と。
卵を立てることにトライ。

ちょうどリビングオハナで卵を染めて
イースターを楽しもうというイベントを企画して
いたところでもあるのです。

練習をしようと冷蔵庫から取り出した卵が、
茶色系だったという笑い話のような状況で、
そうだ、この卵を使ってみようと。



そうしたら、数分で立ちました~!
自分でも思ってもみなかった出来事。
手の中でころころと重心を探して動かしてみる。
すると、あるところで「こっとん」という感じで
揺らぎが止まるスポットがあるのです。

これははまります。
この感覚が面白過ぎて危険です。
ことに、忙しい朝にオムレツを作ろうとしているときなどには。
「コロンブスの卵」のエピソードがあまりにも
くっきり頭の中にあるもので、
「卵はふつうは立てることができない」
と思い込んでいました。
だから、卵を立ててみようなんてこと、思いもよらない。

ランディさんの記事があって、一照さんの写真が無かったら、
まず、こんなことをしようとは思いませんでした。
こういうことって、きっとたくさんあるのだろうなぁと。

だから、いろんな面白そうな人の周りにいて、
「何してんの?」
「どれどれ?」
「え~、やってみたい!」
っていうことがとても楽しいのだと思います。

自分のなかの
「こうあるべき」
とか
「こうなはず」
という枠組みが吹っ飛ぶような。

アサーショントレーニングでやっている
認知についてのアサーションや
NLPや認知行動療法的なものは、
こういったことを言っているのではないかと
勝手に思ってホクホクしました。

まあ、ラッキーでもあったのです。
初めてトライした卵が比較的立ちやすい卵だったのと、
しっかりした水平な台があったという。
ある考え方が変わるためには、
環境的な要素も大きいのです。



卵を買って来ては立てているのですが、
かなりがんばっても立たない卵もあります。
ちょうどバランスのポイントになっているところが
尖りすぎていたりして。
こういう卵に当たってたり、揺れる船の上だったら
卵が立つなんて無理、って思ったかもしれません。

立たない卵を観客に渡し、立ちやすい卵を自分が使って
「私には特殊能力がある」
なんてこともできちゃうかもしれませんね。
卵を立てられるようになるための
特別講習会とか、企画できちゃうかもしれません。

生卵のほうが立てやすいですが、
そう、ゆで卵もまるいまんまで立ちますよ。

「大工と鬼六」とカウンセリング

2014-02-17 08:45:02 | 考えたこと
大工と鬼六」という昔話がある。
氾濫する川に大工さんが橋をかけることになるが、
何回やっても流されてしまう。

困っているところに鬼がやってきて、
「橋を作ってあげる代わりに名前を当てろ。
当てられなかったら目をもらうぞ」
と。

大工は承諾し、鬼は橋を作り上げる。
大工は鬼の名前を当てようとするが、
うまくいかない。

目を渡さなくてはいけない期限が
せまったときに、子どもたちが歌う
はやし歌を聞いて、鬼の名前を知る。
名前を当てられた鬼はどこへともなく消える。

そんな話の流れだった。

どこかで
「いいのか、鬼、それで?
橋を作ったのにだれからもねぎらわれず、
報われず、賞賛もされないで?」
というような思いがする。

「いいのか大工、鬼にお礼しなくて」
とも。
失明を賭したとはいえ、
バランス悪くないか? と。
ずっとどこかにひっかかっている絵本だった。

先頃から「ハワイおはな文庫」という
文庫活動に携わりはじめ、この本に再会した。
絵本や文庫活動についての本を読む機会が増え、
メタの視点から絵本を見るというマインドセットが
どこかにできてきたのかもしれない。

そうしたら、
「大工と鬼六」がカウンセリングのプロセスのように
見えてきた。

鬼はいわゆる「黒感情」だ。
名まえのわからない、
けれどもパワーがあり、
その感情の持ち主も気づいていない
知恵とスキルを持っている。

氾濫する川のように自分を脅かす何かに橋を架けて
なんとか此岸と彼岸とをつなぐ手助けをしてくれる
ものでもある。
トラブルを乗り越えるには
鬼の手助けが必要なのだ。

一方で鬼も自分を脅かす危険なものだ。
この危険なものを無害化するときに
「名づけること」が意味を持つ。

「名づけること」は
コントロール可能にするということだ。
黒感情についても同じことが言える。
もやもやと蠢く黒感情。
この感情に名前を与えることで、
感情にふりまわされることから、
感情は自分の一部分へと転換される。
黒感情は自分の内側と外側とをつなぐ橋を作り、
あとはどこへともなく消えて行く。

カウンセリングのプロセスで、
なぜ、感情の言語化が行われるか。
「大工と鬼六」で答えが見つかった。

鬼への思い入れがあったから、
「黒感情」なるものに入れこんで
しまったのかもしれないなぁ

Kids Hurt Too Hawaii ファシリテーター養成研修

2014-01-27 13:30:08 | 考えたこと
先週、先々週末の4日間、
キッズハートツ-ハワイ
ファシリテーター養成研修会でした。

私は一昨年に出ていたのですが、
今回、2月の末から3月にかけて
日本語訳付き、トレーニングを行う
お手伝いをするので、復習しておこうと
参加しました。

オブザーバー的にいればいいのかな、
と思っていたら、しっかり中に。
思えば一回、出たとは言え、
英語だったわけで、
とばし、とばしに理解しているところもあり、
今回、理解がより進みました。

そのなかで、体験からしっかりわかったのは
私の現在の喪失体験は「言葉」と「仕事」であり、
内容はともあれ、
「喪失体験はしっかりケアされる必要がある」
ということでした。

こちらに来て、得たものも山ほどあります。
ですから、そのことを考えれば
「別に、いいんじゃない?」
とトレードできるはずだと
私の中では思ってたフシがあるのですが、
どうもそうではなかった。
しっかりグリーフのプロセスを進めることが
大事だったのです。

このことを考えると、
「いつまでも、落ち込んでないで。
無くなったものはしょうがないじゃない。
今、もっといいのが手に入ってるじゃない」
と言うことは、全く無意味だということ。

今回の震災でも同様で、
グリーフにいつでも、何回でも
つきあえる懷が必要なのだよなぁ
と思ったのでした。

2年たって地に足がついた…

2013-03-10 20:08:07 | 考えたこと
家族連絡用的にフェイスブックを使い始め、
ますます、長い文章は書かなくなった。
ツイッタ-でもリリースしてしまうし、
本もあまり読まないしで、
書きたい欲求が減退してました。

でも、今日はなんだかちょっと書きたい気分。
震災後2年が経った日だからかなぁ。

3月2、3日とホノルルフェスティバルという大きなお祭りが
ありました。日本の各地からやってきたグループが舞台で踊ったり、
音楽をやったり、パフォーマンスをやったり。
また、地元の人たちがブースを出して、縁日のような演出をしたり、
Tシャツやコーヒー、食品を売ったり。
なんでもありで、ワイワイ楽しむイベントです。

震災のあった年、ちょうど、このお祭りの開催日にあたっていたこともあって、
ホノルルフェスティバルと震災とはリンクされました。
今年も、漂流物についてのシンポジウムが開かれたり、被災地の写真展が
開かれたり。私のかかわっているナデシコクラブも被災地から
物品を仕入れて、会場で売る試みをしました。
まけないぞう」や「編んだもんだら」「いちごのストラップ」など、
みなさん、次々と購入してくださいました。
この活動は「手仕事品プロジェクト」と名づけて、
ナデシコクラブの中で継続していきます。

3月2日に準備で会場の駐車場に車を止めました。
ベークセールで売る予定のクッキー60袋を抱えて
外に出ようとしたら、カーラジオから
花は咲く」が流れ出しました。
そうしたら、突然、涙が。
それは、もう、全く予期せぬ条件反射的状態。
それほど聞いてた歌じゃなかったのに…。
いっぱい流れていたころはもう、日本にいなかったのに…。

花は咲くプロジェクト/花は咲く(ミュージックビデオダイジェスト)


このミニフラッシュバックを体験して、
トラウマケアとグリーフケアの必要性について
実感レベルで確認した感じがしました。
6月にキッズハートツーハワイが日本で
活動します。
私も夏休みで日本に戻るので
その手伝いができれば、とも。
ファシリテーターを増やしたい。
グループのできる場を広げたいというのが
シンシアや私たちの考えていることです。

夜は子どもたちと黙祷。
2年経ってぐんと地に足が着いた感じがします。
去年までは「あわあわ」した感じが続いていた。
引っ越したり、1年遅れで下の子が来たりしたせいも
あるかもしれない。
けれども、この間の節分を過ぎてから、
「ここでやってくんだなぁ」という気分が
ぐぐんと強くなっているのです。

不安に対処するには胆力がいる

2011-05-19 09:51:55 | 考えたこと
ネットワークでつくる放射能汚染地図」と
をみて、
「そうは言っても、それほどひどくないでしょう」
とどこかで思おうとしてた
ちょぴっとの信頼なるものもガラガラと崩れる音がした。

そして、一旦抱かれた不信感は、もしもあるときは本当のことを
伝えているとしても、それも信じられないことになり、
ますます、信頼できるものが無くなるという悪循環がスタートする。

信頼できるデータを共有するっていうことは、
暗黙の了解のような気がしていた。
それをどう読むかはそれぞれの責任になるとは思うけど。
つくば大で混ぜてもらってる
「テクニカルライティング」の授業もそういうテーマだ。
でも、専門家に情報として読み解いてもらう以前の問題だったんだね。

それにしても、webやツイッター上でこれだけの批判や
問題の指摘があっても、ことが明らかになってくるのは2ヶ月後。
現実の変化につなげるには、弱いツールなのだろうか?
つぶやきやさえずりは、言いっぱなしだから、
「お願い」や「対話」では無いということなのかな。

あんまりにもいろんなことが同時に起こっているので、
だれに何のことを、何と伝えればいいのかわからない。
この歯がゆい気持ちは怒りにつながりやすい。
でも、いきなりの怒りとして表現することは、受け入れられにくい。
「怒りだ」ということで拒絶、批判されやすい。

怒りの爆発ではなく、お願いとして伝えたい。
「私や私の家族の生命にかかわることで、
あなたが知っていることを、教えてください」

不安は伝染しやすい感情のひとつだ。
この不安な感じと対決するには胆力がいる。
いろいろ大変さや狂おしい気分はわかってるけど、
なんとかやり過ごしたり、ときどき忘れたり、
気分転換したり、みんなで笑い合ったり、
ぐっとこらえてみたりする。

否認や抑圧と言われる対処もいっぱい使われているだろう。
関係性のなかでは、脆いところにストレスのしわ寄せが
いく可能性も高い。
身近なだれかひとりに不安のストレスがたまってしまわないように。
そして、なんとか、不安が濁流になってしまわないように。
ゆったり不安を共有したり、いなしたり、なだめたり
しあえる場があることが望ましいように思う。

セリグマン学習性無気力に端を発し、
happinessの研究や実践を行っていることに
勝手にオリエンテーションされつつ、
こっちで開くリトリート的ワークショップができないかと模索中。

そして、ワークショップを開く前に、自分の胆力を
つけておかないと、とも思っているところ。
こころのピラティス、
こころの筋力トレーニングであります。

interpersonal と intrapsychic

2009-11-18 20:52:28 | 考えたこと
この間からブログのことを考えていて思ったこと
interpersonalという言葉がある。
これは対人間という意味。
もうひとつintrapsychicという言葉もある。
こっちは自己内というような意味。
自分の内側で感じたり、考えたりするのは
intrapsychicな出来事。
誰かにかかわったり、
誰かからかかわられたりするのは
interpersonalな出来事

それで、ブログで何かを表出するっていうのは、
このinterpersonalとintrapsychicとの間のような感じがする
誰か特定の相手に何かを伝えるのではない。
けれども、自分だけが自分の内面で考えているだけでもない。

このinterとintraとの間。
ここがブログ的なもの、
internet的なものっていう感じがする。

㈱シロシベの園さんの「視線に対する視線に対する視線」
にしても、ランディさんと話していたときも
不思議なことにブログやインターネットのことを話していると、
transpersonalなテーマが出てくる。
interとintraの間はtrans?

ぞわぞわ~の正体

2009-08-12 17:01:41 | 考えたこと
夏になって、半そでで満員電車に乗ったら、
腕のへんが
「ぞわぞわ~
っと。
そんなこと、これまで気にしたこともなかったのに、
久しぶりだったせいか、おや???

日ごろは職住接近なので、自転車かバス、あるいは電車で一駅ぐらい
しか乗っていない。だから、満員電車に乗ることも少ないのだけれど。
この「ぞわぞわ~」はだれかの腕のうぶ毛だよな~って、気づいた。
今、思えば女性専用列車だったので気持ち悪いとは思わなかった。
だけど、どうして、それが腕のうぶ毛だってわかったんだろう?
と不思議な気がした

多分、これまでの体験のなかで、子どもや兄弟、友だちたちと超接近して
遊んだりじゃれたりしてきた中で、この感触を体験しているからだろう。

だとすると、こういう体験をしたことが無い状態で
いきなり、電車のなかで腕がかすって「ぞわぞわ~」ってしたら、
すご~く気味が悪いのではないかな、とも思った。

この感触を「感情」と置き換え、
たとえば大人に近い状態になっていきなり
「感情」と出会って「ぞわぞわ~」ってしたとしたら、
かなり、怖かったり、気味が悪かったりするのではないかな?

久しぶりにEQなことを考えたりしたのでした。