プリメイラ Honolulu

袰岩奈々のホノルル・カフェぶらぶら日記。
こちらもどうぞ→ https://note.com/nana_horoiwa

ひたすら読書 ハワイにいてもいなくても

2023-01-20 21:28:24 | 読んだ本
フェイスブックへの自分の投稿をみていると、
全然、ハワイっぽさがない。
この本を読みました
カフェで読んでます
この本をポチりました
が続き、あとは日本の友人たちの投稿の
シェア、イベントのシェア

日本にいても、ハワイにいても、
全く、わからん、かわらん状態。

さすがに zoomだと半袖着てたり、袖なしだったりするので、
暑いところにいる感じがわかるのだけれど。

最近の推し活が國分功一郎氏で、
暇倫、ジョアンナ・メイシー、〈責任〉の生成、について
noteに書きました

ichida作 漫画「日本霊異記」読みました

2019-10-15 09:22:13 | 読んだ本
本の整理を始めたはいいけれど、
ああ、こんなところにこれが、
こっちもまだ読んでなかったな、
みたいに、どんどん散らかっていく
というパタンにハマっている。

その中で見つけたのが
「日本霊異記」
昔話の怖い版って感じで面白い。
昔々、荒れてしまった奈良の人々のモラールを
なんとかしなきゃってお坊さんへの道を
選んだ景戒さんが語ったという説話。
当然ながら、オチはお説教っぽい。

地獄や輪廻転生、カルマ的なことが出てくる。
ネットで調べると仏教の教えの根幹は
因果応報と自業自得だ、って出てきて
「えええ、そうなの?」と
こんなにお寺だ仏教だと騒いでる自分の
知識不足にがっくりするのだが、
家族療法的な循環的因果論的な見方が好みだし、
一般的な自業自得、自己責任という考え方には
「ちょっと待った!」的なものを持ってるので、
なんか、私がいいなぁと思っている仏教とちが〜う!
と思ってしまうのだが、この辺のことは
ノリさんに聞いてみよう。

まあ、それとは別に、
日本霊異記、とっても面白いです。

漫画「君たちはどう生きるか」読みました

2019-10-03 10:30:22 | 読んだ本
昨日の続きで例えると、
一つの縦糸的になるお話。
大人が思春期の子どもに向けて
真面目に、一生懸命に語りかける、
ということ自体にきっととても意味がある。

価値観として「自分とは違うなぁ」と
思ったとしても、大人がしっかり関わろうとしてくれる、
とか、あなたのこと、一生懸命、考えようとしているよ、
生きるって、こういうことだと思うよ、とか
こんなことを考えるのってイイと思うよ、とか
が伝わってくることがとても大事なのだと思う。

内容で引っかかるのは「男として」的な
言い回しがいっぱいあるところ。
「世の中の発達のために」という視点。
でも、吉野源三郎さんは明治32年の生まれ。
この本が書かれたのは1937年。
旧制中学の学生向けとのことだから、
私の父親世代ぐらいを想定して書いていると考えれば、
まあ、当然といえば当然な書かれよう。

吉野源三郎さんは岩波新書を創刊した人で、
岩波少年文庫の創設にも尽力した人だそうなので、
新書(そのころは岩波しかなかったから)を
読むのがカッコイイと思ってて、
古畑種基著「血液型の話」とか愛読してたことや
「ドリトル先生」や「星の王子様」とか、思えば、
いっぱい、いっぱいお世話になってたのだなぁと感慨深い。

それにしても、この本が200万部売れた
ということがびっくりだなぁ。

田口ランディ対談集「仏教のコスモロジーを探して」読んでます

2019-09-26 11:00:43 | 読んだ本
昨日、河合隼雄さんの最終講義のYoutubeがフェイスブックで流れてきて、
ユンギアンじゃなくて、パーソンセンタードの心理学です、
と言われても「ああ、そうですね」って思えちゃうなぁと
思いながら一気に見た。面白い。
ストーリーテラーなんだなぁ。
人間性心理学ではコンステレーションとか共時性、元型という
ワードは使わないだろうけど。

そしたら、この間からフェイスブックに流れてくる
トランスパーソナルの流れのティール組織の話からの
連想で、宝箱でランディさんの本を見つけ出したん
だったよなぁ、って思い出して見たら
トップの対談相手が
吉福伸逸さんだった。

と言っても、この方も三鷹に研修会をお願いしに行く人に
くっついて行って、遠巻きに見ていただけ。
その当時、トランスパーソナルが妖しく見えてたからね。
もったいなかったなぁ。

対談、面白い。
脚注があっても私にとってはチンプンカンプンで
あやふやなことだらけなのだが、
「人を救う」というところから仏教がおかしくなった、
という部分が私にとってはツボ。

『菩薩が「一切衆生救済」のために戻ってくる、
「人を救う」という発想が入ってきた途端に
僕は仏教は堕落したと思う』
とある。

「わが内なるすべての衆生」ならわかるが、
「人を」としたところで自己と衆生という分裂を
起こしている、と。
河合隼雄さんの最終講義の中にも、
このテーマ、絵入りで入ってたなぁ。

「私」と「あなた」のテーマは、
ティクナットハンの
「インタービーイング」という言葉と共に、
この「救う」や「癒す」という言葉が
今の私にとって、フック。

井上信子著 神田橋條治対話「対話の技 資質により添う心理援助」(新曜社)

2019-09-19 10:51:34 | 読んだ本
「33個めの石」は1日で読める。
けれども、たくさんの「引っかかり」や
「見ないことにしていたこと」などを
心の中に振りまく。

おととい掘り当てた宝箱の中には
神田橋先生の本もあった。
ハワイのブックオフで見つけて、思わず買ったもので、
パラパラと拾い読みをしただけで忘れてた。
どういう経緯でこの本が絶海の孤島にたどり着いたのか、
そちらも興味深いのだけど、
赤や青のラインがいっぱい引いてある。

カウンセリングのスタイルを
どうやって作ってきたのかを振り返ることになる。
この研修を受けているときに、
UHウェストオアフの先生にも聞かれた。
「どのようなカウンセリングをしているのか?」と。

基本的にはロジャース的なアプローチ。
聴く。そして感情の言語化、整理をサポートする。
テーマによっては認知療法的な考え方も有効だ。
家族心理学やブリーフサイコセラピーの知見も使う。
ミンデルのアプローチはハワイに来てから意識するように
なったけれど、プロセス指向的に見たら、どう見えるだろう?
と状況を見るようにもなった。

さらに、基本の基本である、自分の内側に目を向けること。
このことを抜きにしてカウンセリングはありえない。
森岡氏の投げかけは、内面をよりエグく、
掘り進む助けにもなる。

そして、
何と言っても「言葉」だ。

ハワイに来て、言葉が荒いと感じた。
けれども、最近、移民にとって日常のやりとりの言葉が荒削りになるのは、
仕方がないような気がしている。
喉が渇いて仕方ない時に
「恐れ入りますが、もし、お手数でなかったらお水を一杯、いただけますか?」
なんて言う余裕はない。
「水くれ! 水!」となる。

慣れない外国語でそれをせざるを得ないのだ。
恐れ入りますが、とか言ってる余裕はない。
とにかく、欲しいものを手に入れるための言葉になる。
相手を「おもんぱかる」なんて余裕はないし、
おもんぱかっても、見当違いになることも多いのかもしれない。
そうしたら、欲しいものを欲しいと言い、
裏の意味をあれこれ忖度することはせず、
要らないものや嫌いなものにはしっかりnoを言う。
このスタイルが優勢になってもおかしくない。

さらに、日本語を忘れる。
細かい言い回しが曖昧になる。
そう考えると、息子や娘の言葉が
「ぞんざいな」日本語になっていっていることも
仕方ないような気持ちになる。
まあ、相手が母親だからってことがあるにしても、だ。
同じことを英語で言われても、
無礼な! とは思わない言葉がいっぱいある。


森岡正博著「33個めの石」(春秋社)読みました

2019-09-18 08:58:44 | 読んだ本
昨日、バージニア工科大学の話をブログに書いていて、
「33個めの石」という本を持っていたはずだ、と思い出した。
本を入れてあるプラスティックケースを一つづつ開けながら、
日本の家に置いてきたのかなぁ、
こっちで見た気がしたのは勘違いだったかなぁと
半ば諦めた最後の箱で見つけた。
その箱には他にも、「これこれ!」というような本が詰まっていて、
宝箱を探り当てたような感動。

著者がどなただったか、全く覚えていなかったのだが、
森岡正博氏だった。
うわぁ!
森岡氏がいいなぁ、と思い始めたとっかかりはなんだったかなぁと
ご著書をチェックしてみたら
「自分と向き合う「知」の方法」だった。
1995年にPHPから出ている。
そうそう、「自分を棚上げにしない」
というアプローチにとても共感したのだった。
この態度は今の私のスタイルに影響している。

「無痛文明論」でおおお、と思い
「感じない男」が出たときに、
あら、私の本のタイトル「感じない子ども こころを扱えない大人」を
知ってるのかも? と密かに喜んだり、「男」にしただけで、
全然、意味が違ってくる面白さというか気味わるさを感じたものだった。
最近、ふと「宗教なき時代を生きるために」を手に取ったりしてたのも
偶然じゃないかもしれない。

「33個めの石」はバージニア工科大学での事件後の追悼で、
亡くなった方たちをリプレゼントする32個の石が置かれたとき、
その横にだれかが33個めの石を置き、
犯行後自殺した学生も加えられた、というエピソードから。
あとがきにはこの、33個めの石についての後日談も載っていて、
示唆的で興味深い。思わずうるっとしてしまった。

ハワイのホオポノポノだったら、
きっと初めから33個だったのだろうなぁなんてことも。

ネガティブな感情や感覚に対して、
ざらっとした後味の悪さみたいな露悪的な面も持ち込みつつ、
なぞな優しさを感じさせる語り口。
ネガティブ・ケイパビリティを考えるとき、
絶対、参考になるアプローチ。

いつかどこかで直接、お話ししてみたい方のお一人だなぁ。
ここに書いておくと、叶うかもしれない。

「みるなのくら」読みました

2019-09-02 09:09:30 | 読んだ本
絵に惹かれたこのお話も昔話。
「みるなのくら」
山で道に迷った若者がたどり着いた家で、
1から11までの蔵は見てもいいけど、
12番目はダメだからね、と言われたのに、
開けて見てしまう、という話。

見ないでって言ったのに!
というストーリーもたくさんある。

「鶴の恩返し」しかり、
「イザナミ、イザナギ」のお話しかり。
そっくりな神話のオルフェウスも。

子どものころ、この理不尽な展開に
なんとかならないのか! と。
やるせない、スッキリしない読後感を
抱きつつ、どういうわけか、
また読んでしまうという無限ループ。
わがネガティブケイパビリティの一部は
このスッキリしない展開で養われたに違いない。

「見るー見られる」という関係について、
すっごく意識したのは高校生ごろからか。
自分がどう見られるか、を意識しないように
がんばり始めたのがその頃。
見られることにビクビクしている状態を
腹立たしく思っている頃に電車に乗って、
「見る」側にも立てることにふと、気づき、
なんだか「見る側」って有利だなぁ、なんて思った
記憶がある。

「見る」ってパワーだよね。
見ることはとっても権力を持ってる。
どう「見せる」かってことに、
これだけのお金と関心が向くのも当然っちゃ、当然か。

ネット経由で昔、音だけ聞いてたアメリカンポップスでも、
昔、見せてもらえなかったドラマや歌謡曲番組でも、
きっとその年代ではタブーだよね、と思われる内容の投稿でも、
何でもかんでも、今、ここで見れてしまう現代。
ネガティブケイパビリティ、いまどきはどこで育っているのかな。

「やまなしもぎ」読みました

2019-09-01 18:23:22 | 読んだ本
夏休み中、お休みしていたLiving Ohanaの読み聞かせを
そろそろ、再開しようと思いながら、
皆さまへの告知が遅くなってしまったので、
予定していた日は絵本の整理をしていた。

山ほどの絵本を前にしながら、
絵に惹かれる本をピックアップしていくと、
昔話に偏る。

その中の一つがこの
「やまなしもぎ」

病気のお母さんがやまなしが食べたいと言い、
3人の兄弟がひとりずつ、山へ行ってやまなしを
手に入れようとがんばる。
一人目と二人目はあえなく沼の主に見つかって丸呑みに。
3人目の子が山のおばあさんのお願いに応え、
知恵とツールを授かり、めでたくやまなしを手に入れる。
2人のお兄さんたちも助け出して、
持ち帰ったやまなしで
お母さんの病気も治り、幸せに暮らす。
そういえば、ここのお家にお父さんはいない。

民話の兄弟姉妹はなぜか3人で、
1、2番目が意地悪だったり
ミッションに失敗したりして、3人目が成功する。
二人だと上の子が意地悪で
下の子がいい子だったり。長女である私としてはちょっと不満。
だけど、そういう話になるのはわかる気はする。
全てが自分のなかの一部として考えると、
超自我、自我、エスで、トリックスター的なエスが成功しているのか、
あるいは自我が三番目でバランスのいい子どもが成功しているのか。
「やらねばならない」という超自我的な動きではない感じがするけれど。

ここに出てくるおばあさんは老賢人だよなぁ。
おばあさんのお願い事に応えなくても、
ちゃんとアドバイスはくれるわけで。
ばけものは(無意識の象徴である)水の中から出てくるし、
貴重なもの(やまなし)を持ち帰るための旅はイニシエーションでもある。
笹の葉やひさごが「こっち、こっち」と教えてくれるのは、
ネイチャーと渾然一体日本的。
そんでもって、やまなしはお母さんの病気を癒すわけで、
傷つきとヒーリングのテーマも入ってる。

そんなんが読んだら数分で終わってしまう絵本に入ってる。
面白いわけだよねぇ。





「ちいさな死神くん」読みました

2019-03-22 06:29:00 | 読んだ本
ルーティンの英語絵本を借りに行って、
気になって借りてきたこの本。
キティ・クローザー作、翻訳はときありえ。

死んだ人を死者の王国に連れて行く役目の死神くん。
いわゆる「死神」のおどろおどろしい感じは全くなく、
「死」に対してのイメージを変える描き方。
「死」がこんなふうに訪れるのだと思えれば、
もうちょっと安心して「死」に臨めるかもしれない。
そんなことを思ったり。

さらっと何気なく置いてあって、
ほかの絵本と一緒にすっと読んで、
心のどこかに残っているっていう感じに
なるような、そんな絵本。
一冊、買って帰ろうかなぁ。



「どもる体」と英語で喋ろうとする体

2019-02-20 09:46:38 | 読んだ本
去年、日本に帰ったときに買ってきた本の一つ、
伊藤亜紗著「どもる体」(医学書院)を読んでいる。
年末に読み始め、あまりにも思い当たることが
多くて、グサグサというのか、
「うっ」となって休み休み読む、
という状態が続いている。

吃音があるわけではないのだが、
ハワイで英語で話す時の私の体は、
まさしく吃音を持つ方の体と同じ。
話すときに「考えてから話す」という
もどかしさが、ストレスフルである。

さらに、難発のところを読むと、
ああ、これが起こっているから疲れるんだ、
ということがとても良くわかる。

「連発は乖離、難発は拒絶」という
小見出しの部分があり、
そこにある通り、

「〇〇と言うぞ」と言う思いが体によって拒まれる。
体と意図との間に緊張関係が生じます。


まさにこれが起こる。
さらに、その後に
「扉の鍵がない!」という小見出しのところには、
三島由紀夫の「金閣寺」の一節が載っていて、
初めの音が発せないうちに、
「内面の濃密な黐にとらわれる」
という解説がしてある。
小鳥がトリモチにつかまって
しまっているイメージ。
もう、じたばた感が
身体ごとそういう感じ。

英語でのやりとりで、言われていることは概ねわかる。
たくさん言葉が発せられるけど、重要なポイントは意外と少ない。
ただ、それに反応したい内容と表現できる内容とに
あまりにもギャップがあるので、
「内面の濃密な黐にとらわれ」て、ジタバタしているうちに、
話題は次に移ってしまう。
だんだん、何か言うことを諦めてしまう。

だいたい、もともと話すよりも聞くのが得意なので、
日本語での会話のときでさえも、
何か発しようとすることと、
身体がジタバタすることとが
セットになって身についてしまい、
ますます、発することが億劫になっていく。

自分に起こっていることがこういうことなのか!
ととても納得しながら、身につまされながら
チビチビ読んでいるところです。


小倉ヒラク著「発酵文化人類学」(木楽舎)読みました

2019-01-22 19:55:46 | 読んだ本
父はビール会社で酵母の研究をしていた。
食卓での話題は酵母の細胞壁を溶かす酵素の話とか、
遺伝子の塩基配列の話とか。

ちょっとだけ理科の宿題の
問題を教えてもらおうと思ったら、延々、
1時間以上、生物についての講義になって、
宿題する時間が無くなって閉口したことも。
ほんの1分、答えだけ聞こうと思ったのに。

そんなわけで、ファザコンになり、
同じ分野で研究者になろうと思った野望は、
研究室の中で細かい作業をするということに
全く向いてない、と気づいて打ち砕かれ、
アッサリ転向。

ただ、何時間でもよくわからないDNAの複製の話を聴き続ける
というようなことを小学生の頃からしていたせいか、
だれかが延々と話しているのを聞くのがあまり苦にならない。
この資質はお陰様でカウンセラーという役割には
うってつけだった。
とにかく初めから終わりまできっちり聞かないと、
振り出しからもう一度、話し出すような父だった。

そんな食卓での話題の一つは、
お酒がどんなに素晴らしい微生物の連携によって
作られているか、というものだった。

たまたま、母親の祖先は石川県でお醤油を作っていた
こともあり、「醸造」は身近で、
お酒やビールを残すことや、
お醤油をダボダボ使うことに厳しかった。

そういえば、父が働いていた研究所の同僚たちが、
高級洋酒を買って、メスシリンダーかなんかで
測りながら、分け合って飲んでる、なんていう会も
やっていた。

そんな、小・中学生の頃のことを思い出しながら、
ページごとにワクワクしながら読み進んだ。
発酵の機序や微生物たちの働きについての解説、
現代の醸造家たちの話題も、どれも
とってもわかりやすいし、引き込まれる文体。
この本の最も面白いところはデザイン、文化人類学という
多分野がクロスしているところ。
特に、私にとってツボったのは
交換型と循環型の経済というテーマ。
「発酵的ギフトエコノミー」なるネーミング。

「寺カフェ」やハワイへ来てこのかた、
ボランティア三昧であることは、
ギフトエコノミー的なコトが
起こらないかなぁという期待と、
交換型の経済に小さく楯突いてみた結果なんだ。

しかも、私の今年のテーマは「分断」と
「悲しみの傍らに居ること」なんだよ。
この「発酵的ギフトエコノミー」や
もやしもんの「みんなみんなで一つの輪」って、
「分断への回答」みたいな話なのだもの。
去年、ひょんなことからお会いした
坂爪さんと「道楽」で話した
「循環型のやりとり」的なことにもつながる。

水と小麦粉と蜂蜜で起こしたイーストで
サワードーのパンを焼きながら、
読むにはぴったりだった。
これからもも何回も開くことになるんじゃないかな。

J.カバットジン著「マインドフルネスストレス低減法」読んでます

2019-01-14 20:52:44 | 読んだ本
坐禅やヨガに傾倒しているのだが、
そのきっかけになったのは
ティクナットハンの中でも
「微笑みを生きる」の本。

そこでマインドフルネスを知り、
身体への関心が増し、
たまたま一照さんと知り合い、
坐禅へと関心がつながった。

同時にハワイでYogaを教えてもらえる
チャンスがそこここにあり、
Yogaの意味がクビキであり、
身体と心(魂)をより深くつなぐ効果があり、
坐禅をより深くするためにYoga行われた
と聞き、原理的にもバッチリじゃないか!と
一人ほくそ笑みながら、
Yoga、坐禅、マインドフルネスと三題噺のように
呪文のように、密かに唱えていた。

そんなことをしていたら、
マインドフルネスはものすごく流行り、
心理療法方面で、無茶苦茶もてはやされてきた。

「いや、これ、学問なのか? 生き方指南的過ぎないか?」
とnon directive でトレーニングを受けてきた者としては、
「カウンセリング」の中に取り入れることに
どっか抵抗があった。

そう思いながらもこの本を掘り出し、
「今、ここ」の自分に注目するという
プロシジャーがとても伝わりやすいやり方だよなぁと感心しつつ、
エビデンスがあるという強みを噛み締めつつ、
今度のセルフエスティームのワークショップで
使わせてもらおうかなぁと思いつつ、
ヨミヨミしています。

「マインドフルネス&スキーマ療法」book1読みました

2019-01-10 10:00:22 | 読んだ本
クリスマス前、日本行きの飛行機の中で、
伊藤絵美著
「ケアする人も楽になる マインドフルネス&スキーマ療法 book1」
読みました。

マインドフルネスが大流行りで、
「え、認知療法の伊藤先生もマインドフルネス?」
と意外な感じで前回、日本に行った時にゲットしてあった本。
架空のクライアント、マミコさんとの面談を
丁寧に文章にしてあり、伊藤先生のカウンセリングが
どんな風に進むのか、とってもわかりやすく解説してあります。

マインドフルネスが認知療法にどう関わってくるのかというと、
「今、ここ」に注目するという部分。なるほど。
今、ここの感情、気持ちに目を向ける方法として、
マインドフルネスはとてもヘルプフル。

Here and Now はロジャースも言ってたこと。
20代のころ、師匠とともに訳も分からないまま
エンカウンターグループなどに参加したり企画したり
していたことを思えば、仏教方面に親近感を覚え、
マインドフルネスに行き着くのは、
自然な流れだったかもなぁとも自らを振り返ったり。

昔々、毎夏、都の教育相談研修会で
「アサーショントレーニング」を担当していた頃、
伊藤先生はお隣で「認知行動療法」を担当なさってて、
素敵だなぁ、って思っていた先生です。

日本でbook2を手に入れ、途中まで読んだところで、
忘れてきてしまったようで、マミコさんの
続きが気になるのですが、次回、戻ったときのお楽しみです。

東畑開人著「野の医者は笑う 心の治療とは何か?」読みました

2018-11-24 15:38:55 | 読んだ本
私のカウンセラー人生は実践から始まった。
たまたま連れて行かれた保健管理センターの
カウンセラーにリクルートされ、
不登校の子どもたちの訪問相談に携わった。
自分にも不登校傾向があったせいか、
思春期的な心理的距離が好みだったせいか、
実験室で試験管を振っているよりも、
ずっと、ずっと心惹かれ、あっさり鞍替えした。

師匠は公衆衛生学の出身だったので、
臨床心理学とは一筋か二筋違う流れの中にいた。
出来立ての保健管理センターで、
学生の心の健康促進なるものは、
どうしたらできるのかとあれこれ試している時期で、
エンカウンターグループを企画したり、
サイコドラマのグループに参加したり、
「自己理解・他者理解」のワークショップに励んだ。
そして、視点としては
「地域社会全体の中での心理的健康」
とでも言ったものだった。

その後、出会った夫は
たまたま臨床心理バリバリの
living dictionaryな人なので、
疑問と時のトピック、理論部分の補強は
もっぱら夫から仕入れさせてもらうという
幸運なカウンセラー人生を送っている。
「無いと仕事ができなくなったら取ろう」と思っていた資格も、
資格ができる前に仕事が始まり、臨床心理士は取らないまま。

それで、仕事に差支えることもなく、
大学での学生相談室の立ち上げにかかわったり、
メンタルヘルスカウンセラーとして仕事をしたりしてきた。
今のところ、文句も言われず、現在に至っている。

ただ、ハワイでの実践については、
あくまでも「カレッジ・ライフ・カウンセラー」であり、
サイコロジストでも、心理セラピストでも、カウンセラーでもない。
アカデミックな世界からはすでに7年離れており、
心苦しいばかりだ。
かなり野生化している。

ハワイは著者がフィールドワークした、
沖縄での状況とかなり似ているように思う。
マッサージセラピストさんたちの心理的サポート力が半端ない。
ほかにもスピリチュアルを前面に押し出しているセッションはいろいろあるし、
ヨガや瞑想、エネルギーワークなどが周り中に溢れている。
NLPやコーチング、潜在意識にアプローチするものなどにも、
日米両語で簡単にアクセスできる。

ただ、日本語でカウンセリングのできる
資格を持っているカウンセラーはハワイにほとんどいない。
日本語母語でハワイでカウンセラーの資格を取り、
開業することはかなりハードルが高いのだ。

そういうこともあるのか、
日本語での相談は「野の医者」ということになる。
日本から「野の医者」を訪れる人も多い。

この本は「野の医者」という視点で現在の私の
立ち位置をわかりやすくしてくれたように思う。
さて、私はどこへ行こうか。
果たしてそれは「野」なのだろうか、
あるいは「野」じゃないとしたらどこなのか。
不惑はとうに越しているというのに、
還暦で初めに戻るということなのかな。

「Many Moons」

2017-03-04 22:32:30 | 読んだ本


小学生のころ、病気がちだったこともあり本をたくさん買ってもらった。
学研から出ていた翻訳ものが好きで、
なかでも「たくさんのお月さま」が好きだった。
好きというか不思議なストーリーで妙に頭に残るというか。
何回も繰り返し読む、お気に入りの本の一つだった。

Thrift Shopで古本をあさっていたら、
その原作にあたるMany Moonsを見つけた。
懐かしい気分で読み始める。

病気になったレノア姫は10歳。
なんという設定。
脳の変わり目、「抽象」の世界が
やってくる時期ではないですか。

そして、問題解決に一役買うのはcourt jester 宮廷道化師。
彼はどうすれば病気が治るかをレノアから聞き出し、
王様の気がかりを解決する答えを同じくレノアから聞き出す。
まさに、マージナルマン。
「問題から回復する力(レジリエンス)は必ずその人に備わっている」という
ミルトン・エリクソンを地でいくような動きよう。
聞き方だって、ファミリーセラピーのセラピストみたい。

Many Moonsはこっそりと私のどこかに潜んでいて、
いろんなところで力のもとになっているのかも。