プリメイラ Honolulu

袰岩奈々のホノルル・カフェぶらぶら日記。
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はたはたとはためく ゆらゆらとゆれる

2011-05-31 16:05:12 | あれこれ
このところ、はたはたとはためき
ゆらゆらとゆれている

はためき第一弾はヨットの帆
斎藤実さんのお見送りで知り合った景虎艇の出航を
お見送りに行って、その帆がはたはたとはためいていた
風の力で、あのどこまで行っても海という世界を渡っていく


ゆらゆらとゆれるのはボート
出航のときに艇を舫ってあるロープが次々と外され、
艇がゆらりゆらりとゆれて
自由を取り戻してくような光景が印象深かった
ロープの結び目、手の動き、
用事を終えたロープが手際よく片付けられるさま



はためき第2弾はTシャツアート展
kakaakoの公園にはためく800枚のTシャツ
高知の黒潮町からはるばるやってきたTシャツたち
黒潮の風にはためき、雨にぬれてやってきた
ハワイの地で、びゅーびゅー吹きつける貿易風に
はたはたとはためいていた
ランディさん訳の般若心経の詩を思い出した
お母さんたちが洗濯してるシーンが出てくる
そこでなぜか涙が出てくるのだ

「アレクセイと泉」の本橋成一監督作のTシャツもあった
このアート展の審査員をなさったらしい
「どこへ行けというのだ 人間が汚した土地だろう」
っていう言葉にドキリ


岩手三陸がテーマのTシャツ


好きだなって思ったTシャツ



ゆらめき第2弾はハワイ灯籠流し。
戦没者追悼の日であるメモリアルデーに
アラモアナで行われているlantern floating
灯籠に思い思いにメッセージを書いて、組み立て
夕日の沈む7:00ごろに海に浮かべる

この灯籠がビーチいっぱいにゆらゆらと浮かんで幻想的。



灯籠に書くことが見つからずにいたのだけれど、
そうだ、ランディさんにご紹介いただいた
ワイメア東本願寺の藤森氏からいただいていた
宇梶静江さんの詩はどうだろう?と取り出して
日本語と英語とで書いてみた。ぴったり。
油性ペンが無くて、グリーンの水性ペンで書いた
けど、海の水に溶け込んで流れていくっていうのも
けがの功名



うっかりGパンをはいて行ったので、
岸辺までしか水に入れず、
ランタンが此岸近くで漂ってしまったのですが、
だれかが、ふうわりと沖に向けて押して行ってくれた
ああ、彷徨ってしまっても大丈夫なんだな、と
不思議に感動してしまった

ゆらりゆらりと水に浮かぶランタン
魂って言葉がどうしたって浮かんでくる



これはnorth shore からの帰り道で見た風力発電の風車。



A lot of thanks for
Nagao-san, Astushi-san, Ogata-san, Mr.&Mrs.Takita, Mr.&Mrs Harada (Kagetora)
Mie-san (T-shirts Art Exhibition)
Noriko-san (the 13th Annual Lantern floating Hawii)


不安に対処するには胆力がいる

2011-05-19 09:51:55 | 考えたこと
ネットワークでつくる放射能汚染地図」と
をみて、
「そうは言っても、それほどひどくないでしょう」
とどこかで思おうとしてた
ちょぴっとの信頼なるものもガラガラと崩れる音がした。

そして、一旦抱かれた不信感は、もしもあるときは本当のことを
伝えているとしても、それも信じられないことになり、
ますます、信頼できるものが無くなるという悪循環がスタートする。

信頼できるデータを共有するっていうことは、
暗黙の了解のような気がしていた。
それをどう読むかはそれぞれの責任になるとは思うけど。
つくば大で混ぜてもらってる
「テクニカルライティング」の授業もそういうテーマだ。
でも、専門家に情報として読み解いてもらう以前の問題だったんだね。

それにしても、webやツイッター上でこれだけの批判や
問題の指摘があっても、ことが明らかになってくるのは2ヶ月後。
現実の変化につなげるには、弱いツールなのだろうか?
つぶやきやさえずりは、言いっぱなしだから、
「お願い」や「対話」では無いということなのかな。

あんまりにもいろんなことが同時に起こっているので、
だれに何のことを、何と伝えればいいのかわからない。
この歯がゆい気持ちは怒りにつながりやすい。
でも、いきなりの怒りとして表現することは、受け入れられにくい。
「怒りだ」ということで拒絶、批判されやすい。

怒りの爆発ではなく、お願いとして伝えたい。
「私や私の家族の生命にかかわることで、
あなたが知っていることを、教えてください」

不安は伝染しやすい感情のひとつだ。
この不安な感じと対決するには胆力がいる。
いろいろ大変さや狂おしい気分はわかってるけど、
なんとかやり過ごしたり、ときどき忘れたり、
気分転換したり、みんなで笑い合ったり、
ぐっとこらえてみたりする。

否認や抑圧と言われる対処もいっぱい使われているだろう。
関係性のなかでは、脆いところにストレスのしわ寄せが
いく可能性も高い。
身近なだれかひとりに不安のストレスがたまってしまわないように。
そして、なんとか、不安が濁流になってしまわないように。
ゆったり不安を共有したり、いなしたり、なだめたり
しあえる場があることが望ましいように思う。

セリグマン学習性無気力に端を発し、
happinessの研究や実践を行っていることに
勝手にオリエンテーションされつつ、
こっちで開くリトリート的ワークショップができないかと模索中。

そして、ワークショップを開く前に、自分の胆力を
つけておかないと、とも思っているところ。
こころのピラティス、
こころの筋力トレーニングであります。

夫曰く「無意識は仮説だからね」

2011-05-13 12:09:06 | 読んだ本
池田晶子著「魂とは何か」を読み読み中。

彼女の本では心理学はブが悪い。カウンセラーの評価も格段に悪い。
そんだもんで、ついつい、会って説明したくなる。

(返す返すも残念だ。このとき、会いたいと思ったら、
とにかく会う算段をつけなきゃいけないんだと学んだ。
あの世で会ったとしてもそんな面倒なことをしようとは思わないだろうし)

あんなに賢い彼女だから私が今更、なにをかイワンヤ、だとは思うのだけど、
まあ、自分のために、忘れないように書いておこう~。

多分、心理学は
「自分のことは一時棚上げにして」
いる。
こんな例えはナンだけど、イヌをじっくり見て、
「尻尾を振っているときは、どうも嬉しいらしい
と理解するようなかたちのアプローチ。
自分にしっぽがあろうと、無かろうと関係ない。
外側から内側を理解する枠組みをいろいろ、考えているのだと思う。

だから、例えば「無意識」があるかどうかはわからない。
だって、自分ではわからないものが無意識なのだから。
だけど、無意識なるものを仮定すると、
いろんな不可解な行動に説明がつく感じがする。
その仮説をいろんな人に当てはめてみるに、
結構、使い勝手がいいし、解説しやすいって感じで
広まってるんだと思う。
その考え方がツールとして「使えるかどうか」だから、
目に見えないとはいっても、形而上というときのイメージとは
違うものなんじゃないかって思うのだよね。

池田氏のアプローチは、あくまでも自分の内側から始まってるから、
そこいらへんで、
「何なの! 心理学って?」
っていう期待はずれ感があるのではないかなぁ。
心理学を専攻しようという若者も類似のがっかり感を味わうかも。

そして同様にカウンセリングの考え方も
「自分は一時棚上げにして」
よそ様のことを考える枠組みだから、自分のことを
考えるためには、カウンセリングの枠組みじゃない
ほうが適切なんじゃないかなぁー、というか
より適切な枠組みがあるんじゃないかなぁーと
思ったりしながら、ちびちび、読んでいるのでありまする。

久しぶりにipadから、投稿。なぜか、PCがネットに繋がらなくなりました

ピラテストレーニングに挑戦!

2011-05-11 16:54:04 | あれこれ
何かやりたいことを見つけないと…、
と20代の若者のようなことを考えていたのですが、
この間、ニジヤマーケットという
日本ものスーパーに買い物に行って見つけた
ピラテストレーニングの案内パンフ。

心理療法なるものを頭で理解(ま、一部分ね)し、
感情のことをここ数年やってきたから、
次は体だよな、とは思っていました。
でも、体、苦手なんです。
「マッサージセラピストの資格とれば? ハワイだし
というお勧めをされたりもしたのですが、
どおも、「それはやりたくはないなぁ」と。

去年あたりからランディさんの太極拳の会に出たりして、
自分のからだについての関心は無いことはない。
でも、それを何か生業に結びつけるっていうことは
全く考えていませんでした。

そんなところに手に取った案内パンフ。
カイルアというオアフ島の東北あたりに位置する街に
あるピラティストレーニングセンターで、日本の方もトレーナーで
いらっしゃるとのこと。
カイルアの街は行ってみたいところではあったのですが、
根がケチなので、ただ、ビーチとランチじゃあもったいないなぁと。
ピラティスのトレーニングってのはなかなか、いいんでは?と
検索してみました。

なんか、ゆったりしてそうで、いいかも。
ということで、申し込み、行ってきました。

一対一で、じっくり1時間ほど。
立った状態で足の地面への着き具合や、姿勢などを見てもらいます。
足にちょっと触ってもらっただけで、重心の置き方が変わります。
肋骨のイメージがケージで、
足や腕がソケットに嵌まっているというイメージも面白い。
筋肉や骨の解説が面白いんです。

次に寝た状態でお腹周りの筋肉や背骨、骨盤、肩甲骨あたりを
見てもらいます。軽い動きで「居心地のいい場所」を探します。
首から頭あたりが固まってましたね。

激しい運動はいっこもありません。
汗かくことも、痛いことも全くない。
からだの内側を確かめ、確かめという感じ。
これは自分の内面の感情の動きに注目することと
とってもよく似ている。
「うん? これってどういう感じだ? 心地よいのか?」
みたいな。こんなにじっくり、からだに注目するチャンスって
無いですからね。これは楽しいです。

私のからだは右が前に出て左が後ろに引っ込む形で
ねじれたがっているらしいです。足、組むのも右が上だ。
終わったあとは、なんかからだが納まるべきところに納まってる感じ。
膝や足首がスムーズな感じでしたよ。

バスで40分ほど、山を超えて海に出るという小遠足のような旅ですが、
とっても気持ちがいいでした。来週も予約しちゃいました。
「歩く」トレーンングもあるようです。



帰りにKALAPAWAI CAFE&DELI というところでランチしましたよ。
おいしかった!


表現ということ

2011-05-04 09:28:56 | あれこれ
約1ヶ月がたち、こっちでの生活も「日常」という感じになった。
中学校(ここではmiddle schoolという)の最終学年に在籍している娘は
ESLクラスに通っている。ESLは母語が英語ではない子たちのためのクラス。
学年に関係なく、英語とどれくらい慣れ親しんでいるかで3段階ぐらいに分けているらしい。

ESLは英語を教えてくれる時間なのかと思ったら、そうではなく
理科や社会をヴィジュアル中心の教科書で教えてもらえるクラス、
という感じ。文字が少ないので、英語がよくわからなくても、
だいたいの内容はわかるということになるらしい。

「英語」を学ぶ時間もあり、ペーパーバックを1冊、読んでいく。
CDをかけて読んでいったり、先生が読み聞かせをしてくれたり。
単語を調べる宿題や内容についての記述式の宿題がでたりする。
1週間で1、2章ずつ進んで行くから、20ページぐらいは読む。
そして、宿題、結構、時間がかかる。
日本の国語の読解の問題のように、文章内から抜き出して書くという
答え方ができない出題になってる。
それに、そのまま書くのではダメとも言われている。

あいかわらずケンカしながら宿題をやっているわけだけれど、
娘がひっかかるのは、文章内から抜き出して書け、という形式じゃないこと。
そして、回答欄が答えに見合った大きさじゃないこと。
確かに、回答欄が大きいといっぱい書かなくてはいけない感じになっていて、
小さいときは、一行ぐらいでいいという回答欄になってたね。
ここの宿題は先生がタイプしたもので、回答がいっぱいだろうが少なかろうが、
2、3行分改行して次の問題が書いてあるっていう
そっけないもの。回答欄の大きさから回答を推察することはできない。

日本の中学の国語の問題に適応していた娘は、読解問題、得意なほうだった。
「あ、答えはここだな」って見つける技を身につけていた。
私立だったし大学受験に結構、特化しているところもあったと思う。
だけど、その技が通じないイライラが募るんだろうね。

「あなたはどう思ったのか」がいつも聞かれる。
「表現しなさい」ということをさかんに言われている。

表現ということで、ふと思ったのだけれど、
ここでは表現することは周りの人にとって安心でもあるんだよね。
見かけと話す言語が全然マッチしないから。
顔、絶対東洋人、と思われる人が英語onlyだったり、
日本語とは縁の無さそうな見かけの人が流暢な関西弁だったり。
それは何語だろう? と思われる言葉で話していたり。
何かを表現している場を見て
「ああ、英語だ」とか「あ、日本人?」とか了解する。

きっと日本でもひとりひとり背景はいろいろなんだよね。
だけど、それが前面に出ることは少ないから、
気づかないですんでいるということなのかもしれない。