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時代を駆ける:土井香苗/3~4

2010年03月28日 | スクラップ

時代を駆ける:土井香苗/3 「下から目線」の大切さ痛感

 

 <93年5月にエチオピアから独立したばかりのアフリカ東北部エリトリアで97年5月~98年5月、同国法務省調査員を務めた>

 犬養道子さん(評論家)が書いた「人間の大地」を高校時代に読みました。アジアやアフリカの難民キャンプのルポで、そこに描かれている不正義に驚き、怒りました。以後、アフリカ行きを夢みていました。

 司法試験に合格してから、NGO(非政府組織)「ピースボート」に相談したところ、エリトリアでの法律ボランティアを提案されました。世界一周の船旅を途中下船し、きちんとした当てもないまま97年3月にエリトリアへ渡り、飛び込みでフォツィア法相(当時)と面会しました。エリトリアは当時、エチオピア刑法を使っていましたが新刑法を作る参考として、私が世界各国の資料を収集することが即決されました。

 その作業で、首都にあるアスマラ大学の法学部生たちと仲良くなりました。大学は戦争で一時閉鎖され、独立と同時に再開したので、彼らは再開後の1期生で4年生でした。「市民が警察に捕まった時の権利保障は」などと議論していました。人権に燃えていた。全盲の男子学生もいて、何十人もの学生が順に教科書を読んで手伝っていました。

 私は世界中の刑罰や検察システム、少年法を調べ、リポートをムサ検事総長(当時)に提出しました。「死刑廃止」の提案も入っていました。

 


 <一銭ももらわない完全なボランティアだった>

 アスマラの家庭にホームステイしたので、生活費はほとんどかかりませんでした。首都周辺の気候は快適で、人々の勤勉さや女性の内気な様子は日本人によく似ていました。しかし大きく違うのは、30年にも及ぶエチオピアからの独立戦争の影響です。その家庭もいったんは英国へ難民として逃れていた。その時に受けた差別など厳しい体験も聞きました。

 


 <エリトリア憲法による国政選挙はエチオピアとの紛争(98年5月~00年6月)などで延期されたままだ>

 エリトリアは今、人権侵害国家になっています。当時からイサイアス大統領が権力を握っています。動画サイトで見たインタビューで大統領が、「あなたたちが言うような西洋的な選挙をやる気はない」と答えている。振り返ると、私がいた当時から兆候はありました。新聞は国営のみ、テレビも国営1局。インターネットに接続していなかった。法相の下に裁判所が位置づけられていました。

 憲法素案は多党制をうたい、上司だった検事総長も各国大使館に選挙法について問い合わせるなどやる気だった。エチオピアとの紛争が転換点だったとも思います。私がナイーブだったという思いもあります。結果的に独裁国家を手伝った。“良いこと”なら何でもいいというわけではありません。ヒューマン・ライツ・ウォッチ(HRW)のような「下から目線」が大事なのです。

 


 <今年1月、うれしい再会があった>

 アスマラ大学で親しかった学生の一人、ペトロスさん(仮名)から昨年末、突然メールが届きました。首席で卒業した男性です。HRWの情報を探していて私の名前を見つけ、「米国のワシントンで弁護士をしている」と。米国へ出張の予定があったので再会を約束した。不安もありました。弁護士といっても、エリトリア政府との関係や立場が分かりませんでしたから。

 1月に米ニューヨークのHRW本部やワシントンへ出張した際、十数年ぶりに再会しました。政府側の弁護士ではありませんでした。米国に国費留学し、母国に対する反体制集会に出て、留学生資格を取り消されました。恩師らの取り計らいで退学にならず、バイトずくめの生活を送った後、難民認定されました。弁護士アシスタントになり、さらに弁護士資格をとってパートナー弁護士になりました。今は同胞難民を助けている。美しい話です。

 

 聞き手・花岡洋二

 


 ■人物略歴
 ◇どい・かなえ
 国際人権団体「ヒューマン・ライツ・ウォッチ」日本(電話03・5282・5160)代表。神奈川県生まれ。東大3年の時に司法試験に合格。00年弁護士登録。アフガニスタン難民弁護団などで活躍。34歳。

 


毎日新聞 2010年3月3日 東京朝刊

 

 

 

時代を駆ける:土井香苗/4 検事の「女性枠」反対に決起

 


 <司法試験合格者は司法修習生を経て裁判官・検察官・弁護士などの進路を決める。そのとき検察官採用の「女性枠」があると知り、黙っていられなかった>

 
東京都千代田区のヒューマン・ライツ・ウォッチ東京オフィスで=武市公孝撮影 99年春から第53期修習生として、1年半の司法研修を受けました。最初は検事にも興味がありました。人権行政をつかさどるのは法務省人権擁護局の検事です。難民問題に興味があり、スウェーデンで人権救済機関の調査も経験していました。

 しかし女性の検事採用は、(70人弱の)各クラスから1人ずつに限る暗黙の「女性枠」があることを知りました。「1人だから。決まっているから」などと教官が普通に話していました。あまりに「当然だ」と提示されると、間違いに気付きません。やがて真っ赤な女性差別だと思うようになりました。

 仲間10人ぐらいで、タイ料理屋でお酒も飲んでいる時に、「おかしい」と盛り上がってしまいました。私たちが行動したら無くなる、と思いました。その場で「検察官任官における『女性枠』を考える修習生の会」を結成。チラシを作り、朝、修習生800人の机に置きました。採用率が低いことも調べました。

 


 <マスコミにも出て不当性を訴えた>

 改善を申し入れる段になり、毎晩開いていた会議が紛糾。「後からにらまれる」と。先輩たちからも心配されました。その時、仲間の男1人が「正しいことを言うのだから、おれは構わん」と言ってくれ、研修所の所長に1人で申し入れてくれました。かっこいいですよね。私と一緒に毎日新聞、朝日新聞やNEWS23にも出ました。「インパクトがあるから」と名前も顔も出しました。

 法務省は「女性枠」の存在を一度も認めていませんが、結局、女性の採用は増えました。

 学んだことは三つ。コソコソでなく大っぴらにやれば、つぶされない。運動を作ること。草の根運動のように世論を研修所で作りました。なんでも使う。交渉時も新聞記者に取材をお願いしました。弁護士会に依頼したら、実態調査報告書を出してくれました。

 


 <カンボジアの司法支援に加わった上柳敏郎弁護士や木村晋介弁護士、憲法を重視する司法試験指導で知られる伊藤真弁護士、刑事弁護の寺井一弘弁護士らと出会い、「弁護士」という職業を選択することになった。00年10月に登録した>

 したくないのに勉強していた期間が長かった。司法試験合格後の勉強が初めて充実していました。

 エリトリアでの司法ボランティアの時は、多くの先輩弁護士にお世話になりました。上柳弁護士らのカンボジア支援活動を知り、「こういうこともできるのか」と学びました。伊藤先生が設立した司法試験受験予備校「伊藤塾」で学んだ縁で、日弁連の米国調査団に加えてもらいました。国選弁護の調査で、団長は寺井弁護士でした。オウム真理教の麻原彰晃(本名・松本智津夫)被告を担当する国選弁護人を調整された方で、世論は死刑を求め、国選弁護人にも脅迫が届いたようです。「最悪」とされる人物でも弁護しなければ、司法制度は成り立ちません。「被疑者弁護という制度を守るために、命がけでも闘う」と、すごい迫力で語られていました。当初は検事も選択肢にありましたが、熱い人たちとの出会いを通じ、「弁護士、いいじゃない」と気持ちが固まりました。

 


 <夫は「女性枠」問題で共に闘った男性>

 司法修習が終わった2、3カ月後に私から「結婚してください」と頭を下げました。初めは「レーダー外(眼中にない)」だったのに。夫も弁護士で、「日の丸・君が代問題」での処分撤回や刑事、労働問題などを担当しています。人権ゴリゴリで、家でも「他に話はないの?」みたいな感じ。女が飯を作るという発想もない。自宅を新築した際に「台所は要らない」と言い出す始末。さすがに小さい台所は作り、食事も時々作ります。

 

 聞き手・花岡洋二

 

 ■人物略歴
 ◇どい・かなえ
 国際人権団体「ヒューマン・ライツ・ウォッチ」日本(電話03・5282・5160)代表。神奈川県生まれ。東大3年時に司法試験合格。00年弁護士登録。アフガニスタン難民弁護団などで活躍。34歳。

 

 

毎日新聞 2010年3月8日 東京朝刊

 

 

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