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皇女和宮について

2008年10月25日 | スクラップ
©2001  こちらより転載。





 和宮親子内親王(かずのみやちかこないしんのう)は、弘化 3年(1846年)閏 5月10日未刻(ひつじのこく)(午後2時頃)、仁孝(にんこう)天皇第八皇女として生まれた。 母は典侍(てんじ)橋本経子(つねこ)(議奏権大納言(ぎそうごんだいなごん)橋本實久(さねひさ)の女(むすめ))、のちの観行院(かんぎょういん)である。仁孝天皇は多くの后妃との間に七男八女を儲けられたが大半は夭逝して、成人したのは三人のみ。姉の敏宮(ときのみや)と兄、のちの孝明天皇、そして和宮であった。
 和宮が生まれた時は、父仁孝天皇はこの世になく、和宮誕生間近の弘化3年1月26日にお風邪がもとで病死なされている(御年47歳)。御誕生後、七夜に当たる閏 5月16日に命名の儀が行われ、御兄帝により和宮と命名された。

 和宮は6歳の時、有栖川宮家の長男熾仁(たるひと)親王(天保6年2月19日生)と婚約、以来学問を有栖川宮家で学んだ。熾仁親王は17歳、早婚の当時としては、そろそろ配偶者を迎える年頃でありながら6歳の婚約者は有難迷惑であったに違いないが、 孝明天皇の妹ということで受け入れたと思われる。阿弥陀寺に和宮の書面が保存されているが、和宮の文字は実に流麗で美しい。和宮は熾仁の父幟仁(たかひと)親王から習字の手ほどきを受け、のちに熾仁親王より和歌を学んだのである。
 和宮は小柄でとても可愛らしい少女で、1メートル43センチ、 34キロくらいだったとのこと。和宮は成長して14歳を迎える頃、熾仁親王は25歳の立派な大人であり、容姿もそれは立派な青年であった。その親王との婚礼を胸に描きながら、夢見がちの日々を過ごしていたある日、突如として沸き起こった「公武合体」。

 この時代は日本にとって重大な政治問題が山積、国際的な問題も多々あり、国内的には尊王攘夷を旗印として倒幕を目指す連中の力を殺(そ)ぐためには、 「公武合体」即ち江戸と京都の間で政略結婚を行う以外にないと幕府は考えた。ときの将軍は紀州家から来た家茂(いえもち)(弘化 3年閏5月24日生)であった。 大老井伊直弼(いいなおすけ)は早くから公武合体を望んでいた。こうして和睦を図る一方で、京都の反対を押し切ってアメリカと条約を結んだが、反対派が激昂すると彼らを次々と捕えて投獄していった。 いわゆる安政の大獄である。吉田松蔭、梅田雲浜(うんびん)、頼三樹三郎(らいみきさぶろう)、橋本左内(さない)など、前途有為の人たちが犠牲になった。その後しばらくして、こんどは井伊直弼自身が水戸浪士らの凶刃にかかって桜田門外で果てたのであった。
 井伊大老横死の後、 老中 久世広周(ひろちか)、 安藤信正(のぶまさ)らの画策により、万延元年(1860年)4月、公武合体のため幕府から朝廷へ正式に徳川 第十四代将軍家茂の妻として和宮の降嫁が願い出された。兄帝孝明天皇からこの話を告げられた和宮はどんなに驚いたことであろう。有栖川宮家への輿入も年内には、と聞かされていた身には大変な衝撃であったはずである。

 和宮は拒絶した。帝も妹宮の胸の内を思いやり、この結婚には反対の旨を幕府に伝えたのである。しかし幕府は諦めず何度となく圧力をかけて来た。帝は「仕方がない。それでは去年生まれた娘壽萬宮(すまのみや)を江戸へ送ろう。 嬰児では困ると幕府がいうなら、退位しょう」と、帝は関白九条尚忠(ひさだだ)に手紙を宛てて信条を述べた。この手紙の写しが新大典侍(だいてんじ)勧修寺徳子と勾当掌侍(こうとうしょうじ)高野房子の両名により和宮の所へ届けられた。書面には「壽萬宮を江戸へ」と書かれたあと、帝は「一人娘のことで、少々寂しくはあるが」と添えられてある、その書面を見せられた和宮は胸を衝かれた。 「私が我(が)を張り続けているために、まだ乳のみ子の壽萬宮が江戸へ送られる。そればかりか、話がこじれれば帝は退位するとおっしゃっておられる」和宮は血をはく思いで「承知」の一言をもらされたのであった。

 文久元年10月20日辰刻(たつのこく) (午前8時)、和宮の行列は江戸に向かった。幕府はこの時とばかりと、衰えぬ威勢を示すため、お迎えの人数 2万人を送ったという。道路や宿場の整備・準備・警護の者たちを含めると総勢20万にもなった。公武合体に反対の連中から護るため、庄屋の娘三人を、和宮と同じ輿を造り計四っの御輿で中山道を通って江戸へと行列は続いた。京より他の土地を知らない宮の御心を慰めようと、途中名勝を通る時など御輿をお止めして添番がご説明申し上げたという。和宮は、その時つぎのような一首をつくられたのである。

   落 ち て 行 く 身 を 知 り な が ら 紅 葉 ば の
   人 な つ か し く こ が れ こ そ す れ

 大好きであった熾仁親王と別れて来た。 その人の面影を想い、 涙を流したことであろう。11月14日に無事板橋の駅に到着、翌十五日江戸九段の清水邸に入られた。それから約1ヵ月後の12月11日に、それは素晴らしい行列で江戸城に入ったのである。



 翌文久2年(1862年) 2月11日、江戸城内で将軍家茂と和宮の祝言が盛大に執り行われた。 ときに家茂、和宮共に16歳。京風とは全く違う、関東の荒々しい若者を想像していた和宮は、家茂が眉目律々しい気品を備えた初々しい青年であったのでとても安堵した。運命に翻弄された薄倖の和宮にとって唯一の救いは、夫家茂がとても思いやりのある立派な青年であったことである。家茂が、井伊直弼らの策謀にかつがれ、人望ある一橋家の慶喜(よしのぶ)(水戸藩主徳川斉昭(なりあき)の第七子、初め一橋家を嗣ぎ、後に後見職として家茂を補佐、家茂亡きあと第十五代将軍職を継ぐ)を押し退けて将軍の座についたとき、ようやく数え年13歳であった。しかし、聡明な家茂はよく自分の置かれた立場を理解し、自らの能力の限度いっぱいを以て難しい政局に対処した。自分自身、攻略の犠牲となって遥々関東に送られてきた和宮は、幕府方、朝廷方と立場こそ違うが、同じ政治という怪物に苦しめられているこの同年代の夫に深い同情を抱いたのである。家茂は、か弱い少女の身で馴れない異郷へ送られてきた花嫁に、青年らしく純粋ないたわりを示したのであった。和宮もまた婦道を弁え、いたらざる所がなかったという。

 和宮にとって不幸なことに、苦心の公武合体策は結局実らず、倒幕運動は激しさを増していった。結婚の翌年3月と、その次の年の正月の二度に渡って家茂は入洛(じゅらく)した。そして、慶応元年5月16日長州征伐のため大坂(現在の大阪)へ赴いた。 家茂はその年は江戸に帰れず、翌年7月脚気のため病床についた。 和宮は大層心配して、イギリス船で医者を送ったり、夜具や衣類、見舞の菓子などを届けさせたりした。しかし、その甲斐もなく家茂は慶応2年(1866年) 7月20日、20年の短い生涯を大坂城で終えたのであった。
 9月6日、家茂の遺骸は江戸へ帰った。そのとき、側御用取次平岡丹波から和宮へ西陣織物が届けられた。これは、家茂が征長出立の際に「土産は何がよいか」と尋ねたのに対し、和宮が「西陣織を」と、ねだったためである。形見となてしまった西陣織を抱きしめた和宮は、つと立って奥へ入って行き、そこで突っ伏して心ゆくまで泣いたのであった。

   空 蝉 の 唐 織 ご ろ も な に か せ む
   綾 も 錦 も 君 あ り て こ そ

 家茂没後、 和宮は江戸城にとどまり、 その年の12月9日に薙髪(ちはつ)して静観院宮(せいかん  いんのみや)と称せられることとなった。

 時移り、風雲急を告げ、朝廷軍が江戸城を攻めるという際に、和宮は徳川家のために精一杯の努力をした。新将軍慶喜追討軍の総帥が、和宮のかつての許婚者有栖川熾仁親王であったのも不思議な巡り合わせといえよう。和宮の尽力により、何事もなく、徳川第十五代将軍慶喜は政権を朝廷に返上した。ときに慶応3年10月14日(1867年11月9日)、いわゆる大政奉還である。和宮は慶喜の助命を嘆願、徳川の家名存続にも尽力された。
 慶応4年(1868年)4月9日、和宮は江戸城を出て清水邸に移られた。 その後、京都に帰住されるため明治2年1月18日東京(明治元年7月17日、 江戸を東京と改称)を立ち京都に向かわれた。京都在住は明治7年6月までの5年に及んだ。
 既に東京に移られていた天皇のお勧めにより、東京移住を決心された和宮は、明治7年6月24日京都を立ち7月8日東京に到着、かねて用意されていた麻布市兵衛町の御殿に入られた。和宮はここで3年有余を過ごされたのである。

 和宮は数え年32歳になった頃より脚気の病になり、 伊藤博文公の勧めにより明治10年8月7日から箱根塔之沢の「元湯」(もとゆ)に静養のため滞在され、 一時よくなられて歌会を開かれるまでに快復されたが、26日目の9月2日、俄に衝心(しょうしん) の発作が起こり、この地で他界されたのである。
 すぐさま知らせが東京に飛び、協議に入った。その間、増上寺が徳川家の菩提寺であるので、その末寺の塔之沢阿弥陀寺の住職武藤信了が通夜、密葬をつとめたが、なかなか東京からの知らせがこない。東京では和宮の葬儀を神式葬か仏式葬かで激論が繰り広げられていたのである。 しかし、和宮の遺言「将軍のお側に」とのお言葉が取り上げられ、9月13日増上寺での本葬となった。御遺骸は芝の増上寺に眠る夫君、徳川十四代将軍家茂公の隣に葬られた。御法名は「静寛院宮贈一品内親王好譽和順貞恭大姉」と申し上げる。和宮様の七回忌の法要が、明治16年旅館「元湯」で行われ、増上寺からは立譽大教正 (福田行誡) が78歳の老躯をおして参列され、導師をつとめられた。

 和宮の七回忌が行われた明治16年9月2日、箱根阿弥陀寺は箱根、小田原をはじめ各地から集まった人々で賑わった。その際、和宮が朝夕に将軍家茂の無事を祈るために手元に置ていた仏像、もと徳川家康の護り本尊であった黒本尊が遷座された。
 そして、百年が過ぎた昭和49年9月2日、阿弥陀寺で盛大な百年忌法要が行われ、その折りに作られた千葉仔郎詞の「和宮の歌」が今も和宮の歴史を伝えている。
                                



(執筆:水野賢世 )
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