墨汁日記

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ねこ

2005-07-20 19:47:26 | 
 家に帰ると誰もいない。親父すらいない。
 風呂場からザバババーンと音がする。親父は入浴中か。

 ピンポーン。
 呼び鈴が鳴る。俺が出なければならないようだ。玄関の扉を開けると、若い女性と男の子が立っていた。

「こんばんわ。307の木村です」

 あー。どうやら隣の部屋の木村さんの奥さんとその子供らしい。5年ばかりここに住んでたが、今日はじめて見た。子供が突然、俺に尋ねる。

「ねこきてない?」

「ごめんなさい。ベランダから逃げ出して行方不明なんです。もしかしてお宅のベランダにと思いまして」

 さっき、ベランダに植木の水やりに出たけどネコはいなかったなー。

「どんなネコなの?」
 俺は子供に尋ねる。

「角が三本あって足が六本あるの」

 はぁー?どんなネコだよ!

「いえ。あの、カブトムシなんです。子供の飼ってる。それがベランダから逃げ出しまして」

「カブトムシじゃ駄目だよ。ヘラクレスって言うんだよ!」

 俺は子供にさらに尋ねる。

「カブトムシなんだよね!なんでネコなの?」

「名前がねこなんだよ」

「なんで名前がねこなの?」

 子供は突然に口をつぐんだ。お母さんがかわりに答える。
「うちの主人がきまぐれでねことつけたんです」

「あー。なんで旦那さんはカブトムシにねこと名づけたんですか?」

 そのとたん、お母さんも口をつぐむ。
 どうやら深く突っ込みすぎたようだ。

「じゃあ、ベランダにカブトムシがいないか見てきます」

「あー。お願いします」

 お母さんが安心したように言う。そのとたん。

「あっ!」

 子供が何かを直感したようにうしろを振り向く。
 夕日の中、キラキラと輝きながら、東の空に飛び去る三本角のカブトムシ。

 あれがねこらしい。俺はもうベランダに行く必要がなくなった。母子は呆然とカブトムシの行方をながめる。俺はもう用がないらしい。静かに扉を閉めて部屋に戻る。


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