墨汁日記

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分からん

2007-12-14 19:11:11 | 駄目
 自己愛とは、自分を愛する心だとする。
 それならだ、幼い子供の持つ全能感にちかい物であるような気がするのだ。

 ところで、幼い子供の全能感と言えば、フランスのラカンと言う精神分析家が思い出される。

 そこで、いまちょっとネットで調べてみた( Wikipedia を調べた)。
 
 ラカンは基本的に人間とは空虚なベース(エス)であると言っているらしい。

 産まれたてホヤホヤの幼い子供のエスは、上手く動かせなかった自分の身体を段階的に操られるようになるに従い全能感を身につけていく。
 ようするに、
「僕が一番上手に(僕の体を)操れるんだぁ!」
 ってかんじで自信をつけテングになる感じだろう。
 おいおい、またガンダムネタかよと若い人には引かれるだろうが、たぶんそういう感じなのだ。

 だが、全能感は、ブライトさんからだけではなく、社会的にも抑圧を受ける。

 自分の行動を反射する鏡として他人を利用し、他者の中に自己像を見出す。
 その自己像が「自我」となる。
 なのだが、また、他者と接触する事によって、圧倒的な力を持つ大人の言語や行動による禁止事項が介入する事により、幼児の全能性(ファルス)は傷つけられる。

 これがラカンの鏡像段階論である。
 フロイトのエディプス理論のラカン的な読み替えが、鏡像段階論なのであると、Wikipedia に書かれている。(フロイトはフロイトの生きていたの当時の一般的なヨーロッパ人の精神構造を語っていたにすぎないと現在では言っている人もいるので、そのフロイトの言う事を基本とした話なら現在の日本人にはあんまり関係ないかも?)

 てか、もともと、人間は空虚なベースで他人の反応を規範として自我がつくられるという話が俺には良く分からない。

 だが、幼児の全能感が大人からの抑圧によって阻まれるのは、それはその通りのだと思える。

 良く分からないんだけど、それぞれの人間のもつ、もって生まれながらの個性を無視して、自我は周りの他人をもとにしてだけつくられると言っているのなら、それは間違いだと思うけど、そうじゃないかもしれない。
 ラカンさんはもっとすごい事を言いたいのかもしれないが、そこらへんはラカンさんに直接聞かないと分かいし、だいたいもうラカンさんは死んでいる。
 生きていても俺にはフランス語は分からん。

 ラカンは分からん。


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