人殺しはタブーだから、普通の人は人を殺さない。
と言い切るのは、やはり、ある意味で間違い。
これは、認めざるを得ない。
だがまた、コレも認めざるを得ないことであろうと思うが、人殺しのタブーが全く無いわけではない。
確かにある。
タブーはあるにはあるはずだが、誰もがそのタブーをきちんと認識しているワケではなく、そのタブーは人殺しを望んだ人間があらわれた時にはじめてタブーとして形となる。
タブーがあるのに、なんでタブーだから人殺しをしないと言い切れないかと言うと、人殺しがタブーだから普通の人は人殺しをしないという言葉に対して、誰か一人でもソレは違うと言う人がいるかぎりは、ソレは絶対ではなくなるから。
反対意見があるかぎり、タブーだから普通の人は人を殺さないと言い切るのは無理。
人殺しのタブーを、誰もがみんな持っているタブーだとみんなが認識して認めないかぎり、誰か一人でも、自分の意志によって人殺しをしないと言う人間がいるかぎり、タブーだから人殺しをしないと言い切れない。だって人の心は他人には分からないから、みんな同じなんて言い切れないしね。
もしかしたら、中には、本当にタブーなんか関係なく、純粋に人殺しなんかしたくないから人殺しをしないって人がいる可能性も絶対に捨てきれない。
なにもかもタブーだからと語るのは強引で間違いだと思う。
「俺は、心が優しいから人殺しなんかしないのだ。その証拠に、一度も人殺しなんかしたいと思った事もない」
と、誰かが言うなら、もはや「そうなんだ」としか言いようもなく、その意思を認めるなら、タブーだから人を殺さないと言う意見はもう通らなくなる。
なんだけど、それってただの主義主張じゃんとは思う。
例えば、酒を飲む人と飲まない人がいたり、喫煙者も嫌煙者もいる。
だけど、そういった好みの問題と、道徳を同列に並べていいのだろうか?
俺は人なんか殺したくないから殺さないってのと、俺は酒なんか飲みたくないから飲まないのと、同じ事にしていいのか?
悪くはないけど、でも、そういう言い方をすると、逆を言うなら、酒を飲む人もいれば飲まない人もいるように、殺したい人間は殺したい人間の勝手だから殺すのもやむを得ないと言っているのと同じような感じとなるかなと思う。
タブーだからって言うより、道徳的に考えて人殺しは悪いから、人殺しだけは止めましょうとみんな思っています。と言うほうが通りが良いのだろう。
例えば。
人前で全裸になることはタブーだ。
だいたい、人がたくさんいる場所で全裸になりたいなんて考える人間さえおかしい。人前で自分だけ全裸なんて、普通はしたいと考えた事もないだろう。
なんだけど、そんな人間も銭湯に行けば、人前でも平気でパンツまで脱ぐ。
逆にみんなはだかの銭湯で自分だけパンツを履いていると、湯船につかろうとしたとたんに、まわりからメチャクチャに怒られる。
そして、銭湯に慣れてない人間が、社員旅行や種学旅行の旅先の共同浴場で服を脱ぐ時に感じるとまどい。
そんなとまどいこそ、タブーがある証拠ではないだろうか?
タブーは、禁止された事をしようとする人間にだけ効力があると思う。タブーを犯そうとすることで、自分がタブーに縛られている事を意識することができる。
すごく有名なタブーに、近親相姦へのタブーがある。
だが、ごく普通の人間なら、近親相姦なんて、したいとも思わない。
親やきょうだいとやりたいと考えないかぎり、てか、そもそもしたくもないだろう。俺自身も、肉親とやりたいと思った事は1度もない。
だいたい、肉親は性的対象の対象外で、かすりもしない。
そんなことしたいとも思わない人間にとって、近親相姦なんて考えた事もないし、別にやりたくもない。
だが、したいとも思わない人間が多数派なら、少数派のしたい人間の意思を抑圧するのだけは確かだ。
近親相姦なんてしたいとも思わない。
近親相姦なんて気持ち悪い。
と、意思表明するのが普通の人間であるなら、したくない人間は多数派として、したい人間に普通でないと抑圧を与える。
社会的にしてはいけない事をしたいと思う人間がいるから、タブーが存在する。
もちろん、したいと望む人間の欲望を全てタブーで縛れるわけではない。
タブーそのものはただの禁止であり、禁止だけで人をしばるのは効率が悪い。
むしろ、タブーな事は全く望まないような人間に育てた方が、共同体の秩序の維持の為には効率が良くはないか?
万引きなんかしたいとも思わない人間。
置き引きなんか考えたこともない人間。
暴力をふるいたいなんて思わない人間。
その他エトセトラ。
なんにしろ、世の中にとって都合が悪い事を、タブーと意識させずに、それだけはやっちゃ駄目なんだよと思い込ませるのが、手っ取り早くて効率的な方法だ。
理由はともかく、やったら駄目だからやんないって人間ばかりになれば警察もいらない。
近親相姦なんかしたいとも思わない人間にとって、近親相姦なんかする人間が気持ち悪くてしょうがない。
また我らは、「食人」を当たり前とした歴史を持ってないから、人肉を食う者たちに対して、すごく抵抗を感じる。
だいたい人肉なんか食べたいとも思わないだろう。
だけど、したくてしょうがない人間はしたいのだ。
近親相姦なんかしたくもないという、ごく一般的な大多数の意思は、したい人間の意思を、してはいけないと縛る。
近親相姦なんてしたくもないと思うだけで、したい人への抑圧となる。
あなたが、タブーだからしないのか、自分の意思でしないのかは分からないが、あなたがそんなことだけはしたくないという思いが普通で多数であるならば、確実にしたい人間への抑圧となる。
したいとも思わない一般の人が、したい人にしちゃいけとは暗黙の禁止をせまる。したいとも考えない人間はタブーなど意識もしない。
だが、したい人間にとって、したくない人間の意思はタブーとして、確かな世間からの抑圧として存在してしまう。
もしかしたら、したいとも思わない人は、タブーを犯したいと意識する事さえも、過去からの蓄積したタブーによって厳重に禁止されている可能性がないともあるとも言えなくもないが、そもそも、したくない人はしたくないだけなんだろう。
したい事やしたくない事が、自由意志か共同幻想かは、個人だけでは区別もつかない。
と言い切るのは、やはり、ある意味で間違い。
これは、認めざるを得ない。
だがまた、コレも認めざるを得ないことであろうと思うが、人殺しのタブーが全く無いわけではない。
確かにある。
タブーはあるにはあるはずだが、誰もがそのタブーをきちんと認識しているワケではなく、そのタブーは人殺しを望んだ人間があらわれた時にはじめてタブーとして形となる。
タブーがあるのに、なんでタブーだから人殺しをしないと言い切れないかと言うと、人殺しがタブーだから普通の人は人殺しをしないという言葉に対して、誰か一人でもソレは違うと言う人がいるかぎりは、ソレは絶対ではなくなるから。
反対意見があるかぎり、タブーだから普通の人は人を殺さないと言い切るのは無理。
人殺しのタブーを、誰もがみんな持っているタブーだとみんなが認識して認めないかぎり、誰か一人でも、自分の意志によって人殺しをしないと言う人間がいるかぎり、タブーだから人殺しをしないと言い切れない。だって人の心は他人には分からないから、みんな同じなんて言い切れないしね。
もしかしたら、中には、本当にタブーなんか関係なく、純粋に人殺しなんかしたくないから人殺しをしないって人がいる可能性も絶対に捨てきれない。
なにもかもタブーだからと語るのは強引で間違いだと思う。
「俺は、心が優しいから人殺しなんかしないのだ。その証拠に、一度も人殺しなんかしたいと思った事もない」
と、誰かが言うなら、もはや「そうなんだ」としか言いようもなく、その意思を認めるなら、タブーだから人を殺さないと言う意見はもう通らなくなる。
なんだけど、それってただの主義主張じゃんとは思う。
例えば、酒を飲む人と飲まない人がいたり、喫煙者も嫌煙者もいる。
だけど、そういった好みの問題と、道徳を同列に並べていいのだろうか?
俺は人なんか殺したくないから殺さないってのと、俺は酒なんか飲みたくないから飲まないのと、同じ事にしていいのか?
悪くはないけど、でも、そういう言い方をすると、逆を言うなら、酒を飲む人もいれば飲まない人もいるように、殺したい人間は殺したい人間の勝手だから殺すのもやむを得ないと言っているのと同じような感じとなるかなと思う。
タブーだからって言うより、道徳的に考えて人殺しは悪いから、人殺しだけは止めましょうとみんな思っています。と言うほうが通りが良いのだろう。
例えば。
人前で全裸になることはタブーだ。
だいたい、人がたくさんいる場所で全裸になりたいなんて考える人間さえおかしい。人前で自分だけ全裸なんて、普通はしたいと考えた事もないだろう。
なんだけど、そんな人間も銭湯に行けば、人前でも平気でパンツまで脱ぐ。
逆にみんなはだかの銭湯で自分だけパンツを履いていると、湯船につかろうとしたとたんに、まわりからメチャクチャに怒られる。
そして、銭湯に慣れてない人間が、社員旅行や種学旅行の旅先の共同浴場で服を脱ぐ時に感じるとまどい。
そんなとまどいこそ、タブーがある証拠ではないだろうか?
タブーは、禁止された事をしようとする人間にだけ効力があると思う。タブーを犯そうとすることで、自分がタブーに縛られている事を意識することができる。
すごく有名なタブーに、近親相姦へのタブーがある。
だが、ごく普通の人間なら、近親相姦なんて、したいとも思わない。
親やきょうだいとやりたいと考えないかぎり、てか、そもそもしたくもないだろう。俺自身も、肉親とやりたいと思った事は1度もない。
だいたい、肉親は性的対象の対象外で、かすりもしない。
そんなことしたいとも思わない人間にとって、近親相姦なんて考えた事もないし、別にやりたくもない。
だが、したいとも思わない人間が多数派なら、少数派のしたい人間の意思を抑圧するのだけは確かだ。
近親相姦なんてしたいとも思わない。
近親相姦なんて気持ち悪い。
と、意思表明するのが普通の人間であるなら、したくない人間は多数派として、したい人間に普通でないと抑圧を与える。
社会的にしてはいけない事をしたいと思う人間がいるから、タブーが存在する。
もちろん、したいと望む人間の欲望を全てタブーで縛れるわけではない。
タブーそのものはただの禁止であり、禁止だけで人をしばるのは効率が悪い。
むしろ、タブーな事は全く望まないような人間に育てた方が、共同体の秩序の維持の為には効率が良くはないか?
万引きなんかしたいとも思わない人間。
置き引きなんか考えたこともない人間。
暴力をふるいたいなんて思わない人間。
その他エトセトラ。
なんにしろ、世の中にとって都合が悪い事を、タブーと意識させずに、それだけはやっちゃ駄目なんだよと思い込ませるのが、手っ取り早くて効率的な方法だ。
理由はともかく、やったら駄目だからやんないって人間ばかりになれば警察もいらない。
近親相姦なんかしたいとも思わない人間にとって、近親相姦なんかする人間が気持ち悪くてしょうがない。
また我らは、「食人」を当たり前とした歴史を持ってないから、人肉を食う者たちに対して、すごく抵抗を感じる。
だいたい人肉なんか食べたいとも思わないだろう。
だけど、したくてしょうがない人間はしたいのだ。
近親相姦なんかしたくもないという、ごく一般的な大多数の意思は、したい人間の意思を、してはいけないと縛る。
近親相姦なんてしたくもないと思うだけで、したい人への抑圧となる。
あなたが、タブーだからしないのか、自分の意思でしないのかは分からないが、あなたがそんなことだけはしたくないという思いが普通で多数であるならば、確実にしたい人間への抑圧となる。
したいとも思わない一般の人が、したい人にしちゃいけとは暗黙の禁止をせまる。したいとも考えない人間はタブーなど意識もしない。
だが、したい人間にとって、したくない人間の意思はタブーとして、確かな世間からの抑圧として存在してしまう。
もしかしたら、したいとも思わない人は、タブーを犯したいと意識する事さえも、過去からの蓄積したタブーによって厳重に禁止されている可能性がないともあるとも言えなくもないが、そもそも、したくない人はしたくないだけなんだろう。
したい事やしたくない事が、自由意志か共同幻想かは、個人だけでは区別もつかない。
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