自分の頭で考えて行動できていると感じだしたのは30才ぐらいからだったと思う。
若い頃の俺の自我は希薄であり、自我と呼べる様なものすら存在したのか危うい。俺が俺だと堂々と言えるようになったのは、30才を超えてからであろう。
それ以前の俺は漫画という夢の世界に生きており、他人も自分もなかった。25才のある日、仕事の帰りに事故を起こしてから俺は俺というモノがナニモノなのかと考えだした。
でてきた結果は俺はヒトのオスである。ただそれだけの答えだ。そして答えに忠実に生きる道を進みだした時、俺は漫画と決別せざるえなくなった。
20代の俺はさんざん迷った。まわり道をして生きてきた。とゆーか、迷えるようになったのは、20才過ぎからだろう。十代の俺には明確な迷いすらなかった。自我と言うか自分がなかったのだから。
だが自我を確立するには、ある程度は自分の損得をすてなくてはならない。己の限界を見極め、当たり前の幸せとそれにともなう欲を制御しなくてはならない。これが早いうちに出来るヒトもいれば、一生できないヒトもいる。俺みたいに30年かかるヒトもいる。
俺は他人である。俺というキャラは他人によって生成された個性だ。他人が無ければ俺は単なる考える葦だ。
若い頃の俺の自我は希薄であり、自我と呼べる様なものすら存在したのか危うい。俺が俺だと堂々と言えるようになったのは、30才を超えてからであろう。
それ以前の俺は漫画という夢の世界に生きており、他人も自分もなかった。25才のある日、仕事の帰りに事故を起こしてから俺は俺というモノがナニモノなのかと考えだした。
でてきた結果は俺はヒトのオスである。ただそれだけの答えだ。そして答えに忠実に生きる道を進みだした時、俺は漫画と決別せざるえなくなった。
20代の俺はさんざん迷った。まわり道をして生きてきた。とゆーか、迷えるようになったのは、20才過ぎからだろう。十代の俺には明確な迷いすらなかった。自我と言うか自分がなかったのだから。
だが自我を確立するには、ある程度は自分の損得をすてなくてはならない。己の限界を見極め、当たり前の幸せとそれにともなう欲を制御しなくてはならない。これが早いうちに出来るヒトもいれば、一生できないヒトもいる。俺みたいに30年かかるヒトもいる。
俺は他人である。俺というキャラは他人によって生成された個性だ。他人が無ければ俺は単なる考える葦だ。