印刷図書館倶楽部ひろば

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IGASのルーツと印刷文化展覧会

2015-05-29 16:43:43 | エッセー・コラム

 松浦 広

IGASのルーツ




Drupa(ドイツ・デュッセルドルフ市)・Ipex(イギリス・バーミンガム市)・Print(アメリカ・シカゴ)とともに世界4大印刷機材展として数えられているIGASが、今年は9月11日(金)から16日(水)までの6日間にわたり、東京ビックサイトにて開催される。

 IGASのルーツは、これまで語られることが少なかったが、大正10年(1921)にお茶の水で開催された「印刷文化展覧会」にさかのぼる。さらに「印刷文化展覧会」のルーツを探ると、明治10年(1877)に上野で開催された「内国勧業博覧会」になる。これは明治6年(1873)の「ウィーン万国博覧会」を範としていることが知られている。

つまりIGASを川に例えれば、上流に「印刷文化展覧会」や「内国勧業博覧会」があり、その源泉を探すと142年前の明治6年にオーストリアで開催された「ウィーン万博」に行きつくのである。





未来を覗いた男達


幕末にアメリカやヨーロッパ諸国との修好通商条約を締結させるため、幕府は万延元年(1860)に「遣米使節」、文久元年(1862)に「遣欧使節」を派遣した。

慶応3年(1867)の「パリ万博」では、江戸幕府のほかに薩摩藩と佐賀藩が独自に参加している。慶応3年の翌年は明治元年(1868)。つまり、明治時代を迎える前に、それぞれの使節団のメンバーや「パリ万博」出典のために随行した人々は、ヨーロッパやアメリカの地を踏み、現地の文化や文明を体験し、いわば「未来を覗いてきた」のである。他にも長州藩の伊藤博文や井上馨など5名は文久3年(1863)ロンドンに半年間の密留学している。

幕末に29歳の若さで刑死した吉田松陰(1830-1859)が、23歳の時に死を覚悟で黒船に乗って自分の目でアメリカという異国を見ようと切望したことが翌年の万延元年に実現したのである。「遣米使節」には、勝海舟や福沢諭吉などが随行した。「遣欧使節」には福沢のほかに福地源一郎(桜痴)などが随行した。明治以前の幕末に、彼等のような旺盛な好奇心と冷静な判断力を持っていれば、先進国の技術や生活習慣が日本に伝わることを予見できた。

そして明治6年(1873)6月に明治政府は、統一国家の日本として初めて公式に「ウィーン万博(5月1日~11月1日)」に参加、出品したのである。この万博のために日本から72名のほか技術伝習のため24名の技術者が派遣された。

その会場を6月に「岩倉使節団」が視察をした。この「使節団」は明治政府を代表する、右大臣・岩倉具視、参議・木戸孝允、大蔵卿・大久保利通、工部大輔・伊藤博文をはじめ総勢46名が明治4年(1871)11月から明治6年(1873)9月まで1年と10か月にわたり、アメリカやヨーロッパ諸国との修好通商条約改正と視察のために派遣されたものである。


大久保利道




内国勧業博覧会


明治10年(1877)5月、西南戦争のさなかに木戸孝允(1833-1877)が病死した。その4か月後の9月に西郷隆盛((1827-1877)が自刃し、7カ月に渡って続けられた日本最大で最後の内戦が終結した。(維新3傑の最後の1人、大久保も翌年刺客に襲撃されて世を去った。)

 この内戦を機に、テレビもラジオもない時代の庶民は情報源として、また娯楽の一つとして新聞を読むようになり、購読部数が飛躍的に伸びた。
「内国勧業博覧会」は、8月21日上野で開会式が挙行された。天皇の行幸を軍楽隊が迎え、主催する内務省の長官だった大久保利通(1830-1878)が祝辞を述べた。夜には花火が打ち上げられ、不忍池に屋形船が浮かび、酒楼に無数の提燈が掲げられた。

会期は11月30日までの102日間で、45万人を超す入場者を記録した。「西南戦争が終結していないから。」という開催反対の声もあったが、この博覧会は1年前に開催が決まっていた。大久保は上記の祝辞で「博覧会の功績は、大いに農工の技芸を奨励し、知識の開進を助け、貿易の拡大のもととなり、以って国家を富強に導く。」と述べている。つまり、博覧会は日本という国の富みを殖やす源であると主張した。
4年前の「ウィーン万博」を模して開催した「内国勧業博覧会」は、その成功により、大久保が祝辞で述べたように「出展物が入場者の感性を刺激し、知識を増幅させ、経済を伸展させる」ことに繋がったのである。



印刷文化展覧会




印刷という名詞が付いた博覧会は、大正10(1921)年9月25日から10月25日まで文部省と東京教育博物館の主催による「印刷文化展覧会」である。教育博物館は、お茶の水の「湯島の聖堂」である。




文部省は、この教員博物館を使用して18回の特別展覧会を開催したが、最多参加者数の記録は「印刷文化展覧会」の313,580名。異常なほど過熱した。
この「展覧会」には皇太子の裕仁殿下(のちの昭和天皇)をはじめ宮家の人々が視察訪問したことも過熱に拍車をかけた。




その大盛況の様子は『印刷雑誌』大正10年10月号に詳しく報告されているが、この10月号の表紙や、「印刷文化展覧会」ポスターをデザインしたのが杉山寿栄男(1885-1946)。じつは杉山が「印刷文化展覧会」を提唱し、私費で奔走して大蔵省印刷局と東京印刷同業組合による「印刷文化展覧会協賛会」を組織した。「展覧会」の主催は文部省と博物館だが、実務は「協賛会」が担当したのである。




「協賛会」会長は印刷局局長の池田敬八。




副会長は秀英舎の杉山義雄と東京築地活版所の野村宗十郎。理事長に中屋印刷の鈴木正平。理事に凸版印刷の井上源之丞、博文館印刷所の大橋光吉、印刷雑誌社の郡山幸男、図案家の杉山寿栄男ほか6名、など錚々たるメンバーが協力した。この「展覧会」の成功が、のちの各種印刷機材展や印刷文化典に引き継がれるのである。








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