奥永さつき

日々のできごとをそこはかとなくつづります。

安保法案「NO」 県内各地で立場超えアピール

2015-09-06 20:51:38 | 社会
信濃毎日によれば、長野県の長野市や軽井沢などでデモがあったようだ。

県内小中学校などの教員や教員経験者らはこの日、長野市で「安保法案に反対する義務教育関係者連絡会」を結成。(信濃毎日)

このようなデモを主導している人たちがどういう人かはすぐわかる。
法案の中身も知らない人が「子供たちが戦争に行かされる」などと脅迫されれば、「それは大変だ」ということにもなろう。それで「立場超え」ということか。

あたかも国民の多くが反対しているように見せかける、毎日新聞の得意技。

国際の厳しい現実を直視している人の多くは、安保法案に、物足りなさはあるが賛成するはずだ。
左翼は安保法案推進派のことを「反知性」だとか騒いでいるが、その言葉はそっくりお返ししたいね。

歴史貫く「国のさゝやき」?

2015-09-06 18:12:56 | 社会
9月1日付け産経新聞「正論」で新保祐司氏が、11月20日の「海道東征」大阪公演と11月28日の東京藝術大学での追加公演にふれている。

明治の批評家、斎藤緑雨は鋭いアフォリズムを多く残した人だが、その一つに「音楽は即(すなわ)ち国のさゝやき也」というものがある。その時代に鳴っている音楽は、単に人間の喜怒哀楽の表現にとどまらず、国の、あるいは国民の本質を表しているということである。戦後70年に至って、長きにわたって封印されてきた「海道東征」が、大阪、東京でほぼ同時に演奏されるということは、日本という「国」の「さゝやき」が深く正しい美しさを回復してきたということではないか。戦後70年経って、やっと「安倍談話」が出た。戦後70年経って、やっと「海道東征」が再演されることになったのである。(新保)

音楽が、その作曲者の個性とともに、その作曲者の生まれた土地柄や伝統音楽を反映していることは確かだ。斎藤緑雨の言う「国」はむしろ「民族」と置き換えた方が良い。ただし、「国」が人々の集まりの意味で使われているのならば、それはそうなのかもしれない。
だが、新保さんの「日本という『国』の『さゝやき』が深く正しい美しさを回復してきたということではないか。」というのは、果たしてそうなのだろうか。

北原白秋作詩、信時潔作曲の交声曲「海道東征」から聞こえて来る「国のさゝやき」は、神武東征から今日までの日本の歴史の底流を貫いている精神の真髄(しんずい)ともいうべきものである。これを、戦後70年間、日本人は耳を閉じて聴くことをしなかった。
 現在の日本を生きている日本人が、今の日本を肌身で感じている若い日本人の精神と肉体を通しての生演奏で、75年前の「紀元二千六百年」のための奉祝曲であった「海道東征」に耳を澄ますということは、だから尋常のことではないのである。大事件と称した所以(ゆえん)である。(新保)


どうやら新保さんは「戦後70年」よりも「紀元二千六百年」から75年(4分の3世紀)経ったことに重きを置きたいようだ。
だが、皇紀は明治6年に制定されたに過ぎない。

ご維新後明治政府は、「天皇」の権威を誇示するために、初代天皇と言われている神武をことさら持ち上げた。明治天皇行幸記念碑のとなりに神武天皇行幸記念碑が立っている神社もある。
神武が存在したという確たる証拠はないし、「海道東征」は船舶・港湾技術的にも戦略的にも無理である。
まさか新保さんは「海道東征」が「歴史的事実」だと信じているわけではないだろうから、「神話も歴史」と言うことなのだろうか。
新保さんの言う「日本の歴史の底流を貫いている精神の真髄」は高々江戸後期から明治期に作られたのであって、日本人の心にはそれとは別の精神が受け継がれていると思う。