知識(K)とは、正当化された(J)真なる(T)信念(B)であると言われてきた。しかし、1963年にE. GettierがJTBを満たしているが知識でない事例を提出して(ゲティア問題)、この問題を解決するために、K=JTB+αなる諸々の説が提案されてきたようだ。しかし、ゲティアの事例も、その後の事例も人為的(作為的)で不自然なものばかりで、重箱の隅をつつくような印象を受ける。「正当化」に力点が置かれていて、最近のSNS上での「ソースは?」攻撃と似ている。そもそも「真のソース」というものは存在しないから、無理というものであろう。第8章の「徳認識論」に至ると、いい加減にしてくれと放り出したくなる。結局のところ、K=JTB+αではうまくいかなくて、最近ではK=JTBをひっくり返した「知識第一主義」への流れもあるようだ。
無難なのは、次のようなところか。
「科学的および哲学的な目的にとって私たちにできる最善のことは、知識の概念を工合が悪いものとして放棄し、その代わりにその別々の構成要素で間に合わせることである。私たちは依然、真なるものとしての信念について、また、一つの信念をそれが信じる者の心にとっては別の信念よりもより堅固なものであるとして、語ることができる。正当化の要素もあるが、私たちはそれにも限界があることを見た。」(W. V. クワイン、「哲学辞典」)
無難なのは、次のようなところか。
「科学的および哲学的な目的にとって私たちにできる最善のことは、知識の概念を工合が悪いものとして放棄し、その代わりにその別々の構成要素で間に合わせることである。私たちは依然、真なるものとしての信念について、また、一つの信念をそれが信じる者の心にとっては別の信念よりもより堅固なものであるとして、語ることができる。正当化の要素もあるが、私たちはそれにも限界があることを見た。」(W. V. クワイン、「哲学辞典」)