劇場彷徨人・高橋彩子の備忘録

演劇、ダンスなどパフォーミングアーツを中心にフリーランスでライター、編集者をしている高橋彩子の備忘録的ブログです。

極私的な思いから ~ピナ・バウシュ ヴッパタール舞踊団『私と踊って』~

2010-06-09 22:22:52 | 観劇
ピナ・バウシュ ヴッパタール舞踊団『私と踊って』@新宿文化センター


カリスマ的人気を誇ったリーダー、ピナ・バウシュ逝去後、初めてのヴッパタール舞踊団来日公演。
ロビーにはこれまでの彼女の作品の写真が飾られ、彼女を偲ぶ人々の熱気に包まれていた。
私自身、深い感慨をもってそれらの展示を見て回ったのは事実である。

しかし、開演後、私の胸に去来したのは、彼女の不在の大きさではなかった。
むしろ彼女は「いた」。女として女のために女を描いた、若きピナの魂がそこにはあったのだ。

男に向かって、「私と踊って」「愛してる」と、時に懇願するように、なだめすかすように、
あるいは脅しながら、泣き叫びながら、繰り返す一人の女。男は「信じられない」と言い続ける。
女はドレスを着替え、しなを作っては、男の気を引こうと無駄な努力を重ねる。その声が、男に届くことはないのに。
決してわかり合えない男と女。愛の不毛。“ディスコミュニケーション” ――。
これらはピナがしばしば取り上げたテーマではあるが、
ここまで女の痛切な思いにフォーカスをしぼっているのは、彼女の初期作品の特徴だろう。

この作品を初演した時、ピナは36歳だった。
世間が女に与える定義、または女に求める役割に、困惑し、怒り、うんざりし、振り払おうとしては傷つくさまが、
一方では、男の愛を渇望し、理解されようとするその焦燥感、虚しさ、孤独が、舞台から伝わって来る。
彼女の自伝的作品と銘打たれているわけではまったくないけれども、
女を巡る言説に対し、無防備ではいられない年齢だったことは、作品に少なからず影響したはずだ。
なお、この作品に、愛を歌った古いドイツ歌謡を用いた点も、重要な意味をもつだろう。
こうした曲は人々の口づてに、さまざまな人生とともに伝承されたものなのだから。

終盤、女が別の女と一緒にげらげらと笑い転げる場面がある。
女は笑いで顔をぐちゃぐちゃにしながら化粧をしている。その光景の残酷さが、目に焼き付いて離れない。
化粧を一切せずに美しいと言われるような人間になりたいと願った、
幼き日の、いささかフェミニストめいた自分がふと思い出される。

男性が観念や様式から作品を作るとしたら、生理・感情の細部から積み立てていくピナは、
女性的な作家だ。なんて言ったら、かつての自分自身から叱られるのは間違いない。
けれども、こんなふうに極私的な思い出から語ることができるのもまた、
ピナ作品ならではの魅力と言えるのではないだろうか。

---------------------------------------------------------------------------------------------------------

【追記】

上の感想は6月9日のジュリー・シャナハンのパフォーマンスを観て書いたもの。
その後、12日にオリジナル・キャストのアン・エンディコットのパフォーマンスを観た。
鋭利で痛烈な雰囲気のシャナハンもとても好きだが、
エンディコットはオリジナルキャストだけあって動きが体に馴染みきっている印象。
彼女独自のファニーな風情も手伝ってか、多義的な広がりが感じられ、ドラマに複雑なニュアンスを与えていた。

終演後、お忙しそうな現芸術監督(の一人)ドミニク・メルシー氏をつかまえて手短かにご挨拶。
作品への感動を伝え、今後も活動を続けていってほしいと改めてお願いする。
氏はがんばっていくよと言って、柔和に微笑んでくれた。
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« お堀に浮かぶユニークなカフ... | トップ | twitter発の公演へ行ってきた »
最新の画像もっと見る

観劇」カテゴリの最新記事