劇場彷徨人・高橋彩子の備忘録

演劇、ダンスなどパフォーミングアーツを中心にフリーランスでライター、編集者をしている高橋彩子の備忘録的ブログです。

東京二期会 ペーター・コンヴィチュニー演出『サロメ』

2011-02-23 20:19:05 | 観劇
東京二期会 ペーター・コンヴィチュニー演出『サロメ』@東京文化会館 ※本日観劇。余裕がないので、取り敢えず走り書き。




■現代を象徴する示唆的な舞台

面白かった。基本的にいつものコンヴィチュニー・ワールドーーすなわち、
斬新で刺激的でシニカルで、理に適っていてとても現代的な舞台だった。

幕が開くとそこは天井も上手も下手もふさがれた、いわば密閉された空間。
白いテーブルクロスに燭台・・・と優雅な食卓がセットされ、着飾った人々がこれを囲んでいる。
もともと場所の変化があまりないオペラ『サロメ』ではあるが、
このプロダクションでは、ほぼ全ての事柄がこの空間の中で行われ、人の出入りもほとんどない。
幕開きから、ヘロデもヘロディアスも、そして、
通常は井戸の中にいるヨカナーンさえ、舞台上にいる(彼は紙袋を頭に被ってテーブルに着いている)。
ドアも窓もない閉鎖された部屋で人々は明らかに頽廃的なムードに身を委ねており、
暴力、セックス、ドラッグなどであふれた場内は、さながら乱交パーティーだ。

コンヴィチュニーは無論、こうした悲惨な閉塞状況を、“今”と重ね合わせている。
出口も未来も見えない、絶望的な世界。その打開は、ヒロインのサロメに託されることになる。


■未来への扉を開けるサロメ

タイトルロールのサロメは従来、男を惑わせるファム・ファタルとして扱われるキャラクターだ。
「すべての災いは女にある」という態度でサロメを否定するヨカナーンの言葉はその代表例だろう。
しかしコンヴィチュニーはこうしたステレオタイプを否定し、彼女を“正当に”扱っている。

まず、このプロダクションでは、サロメの周囲の人々の身勝手さ・俗悪さが前面に押し出される。
通常の『サロメ』ではサロメの魅力に惑わされて自殺するナラボートだが、
ここでは男たちの集団レイプの果ての死として描かれる。
ヘロデ王は、卑猥な笑みを浮かべて意味ありげにバナナをサロメに勧めたり、
「お前の母の玉座に座れ」のくだりで嬉しそうに自分の膝の上を示すエロおやじだし(まあ、元々そんな人だけど)、
ヨカナーンですらドラッグに興じている。終盤、そのヨカナーンをヘロディアスがレイプする。

サロメはかくまで荒廃し切った状況に身を置き、大胆に振る舞いながらも、同時に“愛”を希求する。
愛はその場に存在しないもの/彼女が経験したことのないものだからだ。
ここにコンヴィチュニーの演出のポイントがある。
彼は最後の15分間を、自身の演出で最も重要な箇所だと断言している。

その最後へとなだれ込む直前、「七つのヴェールの踊り」と呼ばれる場面で、
コンヴィチュニーはしばしば用いられるストリップティーズを敢えて避けた。
サロメは踊りで周囲を魅了するというよりも、外へ出たいという思いを顕す。
つられるように出口を求める人々が暴れ出し、遂にはそのほとんどが落命する。
一方、サロメはヨカナーンの首を求めるが、このプロダクションでは実際にその生首にくちづけをしはしない。
そしてーーここからが、コンヴィチュニーの言う15分間に該当するのだと思うのだがーー、
サロメは「生きた」ヨカナーンを伴い、外へ・・・出口のない舞台の、その外への脱出に成功するのだ。
文字通り舞台装置の枠外へ出たサロメはラスト、死の匂いに満ちた陶酔の歌ではなく、
ヨカナーンとの新しい愛を喜ぶ歌として独唱を歌い上げる。

今日、サロメを演じた大隅智佳子は、ハードな演技も堂々とこなしていた。
歌声もよく響いており、非常な好演だったと思う。


■音楽の根底にあるものを現代へ

この作品に限ったことではないが、コンヴィチュニーはヨーロッパ文化の終焉を描く。
言うまでもなくオペラとは、そうした文化の成熟の極致を表すものだ。
舞台上の食卓も「最後の晩餐」をイメージしたものだというのもこれに符合している。
実際、ヨーロッパが育んで来たキリスト教文化とは男性中心主義に他ならない。
コンヴィチュニーがその象徴とも言うべき『サロメ』の世界でそこに一石を投じた意義は大きいだろう。
キリスト教文化で否定されてきた女性が、彼の舞台では未来を切り開くのだ。

といっても、刺激的な趣向に満ちたその演出世界も、
リヒャルト・シュトラウスの作曲の意図に反したものとも言い切れない。
今日のコンヴィチュニーのアフタートークによれば、彼はオペラには3つのテキストがあるとしており、
それは第一義に音楽、第二義に歌詞などの台詞、第三義がト書きである。
このト書きに寿命があると考えているからこそ、
音楽の根底にあるものを現代に蘇らせるために新たな演出を施すのだと、彼は述べた。

ラストのハッピーエンドにしても彼は、
「リヒャルトの音楽にそうしたニュアンスを感じたからこそ、こういう演出をした」と語る。
破天荒なオペラ演出は今や珍しくないが、
音楽への独自のアプローチがあることが、彼の演出の説得力を高めているとも言えそうだ。

ともあれ極端な舞台ではあるので、賛否や好みは分かれるかも知れないが、
極めて示唆に富み、かつ感動的なプロダクションだった。
また、ついでのように書いて恐縮だが、シュテファン・ゾルテス指揮・東京都交響楽団の演奏も良かった。

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