ちょっとピンぼけ/倉敷界隈

日々の記録。見たり、聞いたり、買ったり、食べたり。

出来ること、出来ないこと

2007年06月06日 21時56分23秒 | 写真

私の仕事は特殊な仕事で、いつまでも子どものような正義感とか真面目さを持ち続けていないとできない。性善説を基に、愚鈍なまでの実直さが必要と思っている。本当は、いい大人になったのに、いつまで子どものような甘ったれた考えをしているんだ!と叱られるのかもしれない。が、そう言う考えを持っていなければ勤まらない仕事だから、もののわかった考えなどしてはいけないのである。人を見たら泥棒と思え的な考えではこの職は無理なのだ。人生を渡るテクニックなんて言ってはいけない仕事なのだ。

その考えでいると、人が困っていたら盲目的に助けようとしてしまう。どうにか助けてあげたいと頑張ってしまう。残念なことに、自分はその人を助けられると思ってしまうことがある。自分の力でどうにか出来ると過信してしまうことがある。

中には、最初からそれを狙って近づいてくる人がいる。格好のエサなのかも知れない。それでも愚鈍なまでの実直さが出てしまう。気づいたら底なし沼でもがいてしまっていた。理由は簡単。最初からそれが目的でそばに寄ってきた人だったからだ。それを私が見抜こうとしなかったからだ。

なるほどこういうものか。人とはこういう生き物か。今、表面ではこの職に必要な資質を持っているように振る舞っているが、心の中は年齢並みに成長していると思う。人を見抜く冷静な目と冷徹な振る舞いが必要なことを知っている。

もう一つ成長したことがある。

人一人を助けることなんてそう簡単にできることではないことが判った。自分にそんな力があると勘違いしたのが一番の原因と悟った。人を助けるのは命がけでないと無理。生半可な同情などで出来ることではないと知った。

私の周りにいる人、悩んだり助けを求めたりしている若者、同僚、友だち、、、、私に一体何が出来るのか。何をやっても、結局は力になれないではないか。アドバイスをあげても、その言葉って評論家の言っている無責任な言葉とかわりはしないではないか。話を聞いてあげることが出来ても、結局はその本人が自らを助ける以外に私の出来ることなど無いではないか。いまつくづくそう思っている。

有名な哲学者は自分は無知の知を知っていると言っていたが、私には無能の知がある。自分には出来ないことを知っている。他人に対する自分の力は無能であり不能であるのを悟っている。

自分のことでも全部処理できないのに、人の世話などおこがましい。そう言われても返す言葉はない。人とは弱いものだと思う。私だけがそうなのだろうか。

日記@BlogRanking