KIN34白い銀河の魔法使い(完全性 調和させる かたどる/永遠 魅惑する 受容性)
(リンク音量及びリンク切れご注意ください)
なんと1ヶ月以上ぶりの更新になってしまいました!既に師走、光陰矢の如し…ですね
この1ヶ月間、特にソーラーエッセンスのセッションが増えて非常に手応えのある仕事をさせていただき、更に新しいことにもチャレンジして慌ただしくしておりましたが、パソコンに向かえばブログ書くよりジュリー見てました ハイ、そっち優先
重ね重ね思ったのが、子どもの頃に何も考えずにポカ~ンと見ていたジュリーが、無意識なだけにどれだけ強く刷り込まれていたのかということ!
なんか中途半端な世代で、GSブームや日劇ウエスタンカーニバルを享受したお姐さまたちが羨ましい~などと常々思っていたのですが、美しいジュリーをテレビつければ見ることができた日常の贅沢さに、30年経って感動してます
これは多分たった一度の企画物の放映ですが、ハッキリ覚えていたことに我ながらビックリ(N○K昼プレのロッド・スチュワート特集)。
1978年ってことはサムライとかダーリング歌ってた絶頂期だけど、この演じ分けが余計に印象深く、そして当時でさえ気恥ずかしさスレスレ(←ここがミソ!決して見てるほうを恥ずかしくさせないのがエンターテイナー)の甘美な「永遠の青春」のイメージを、確かに受け取ってました
歌のうまさもさることながら、本当にハートで歌っている人だから、こんなにストレートにハートに刻み込まれてしまうのでしょう…
でも、こうして再び出会えなければ完全に埋もれた記憶でした。。
ちなみに私が好きな曲ナンバー3に確実に入るのが憎みきれないろくでなし(ニ○ニ○動画です)なのですが、今の若者達に「本物のエロカッコイイってこれなのよ!」って言いたい(笑) エロには品格が要るんですよ これをカバーする勇気ある歌手はまずいないでしょう。
この曲は私的にはビジュアル不可欠なのですが…ドーム公演ではかなりお身体を絞られたようですが、この衣装はさすがにもう無理だろな~?
ま、ジュリーはきりがないのでこのくらいにして…(ホントつなぎがムリクリすぎ)
先月見たヴィルヘルム・ハンマースホイ展がとても印象深かったのでそのことを。もう会期終わっちゃいましたけどね。
見ていてあまりに心に響いたため、はしごしようとしていたフェルメール展を諦めて時間を過ごしました。多分その時の私はオランダの光よりもデンマークの光を味わいたかったのでしょう。(フェルメールも会期中になんとか見たいものですが…)
写真は購入したポストカードを撮ったものなので伝わるかどうかはわかりませんが、この静けさと空気感をどう表現すれば良いのでしょう?
まずはどうやったってお片づけが苦手な私は、こんなふうにモノや生活感のない広々としたスペースへの尽きない憧れがあることは確かです(笑)
ハンマースホイはこのようにお気に入りの自宅の部屋を描いた作品を沢山残していますが、実際にはもっと多くの家具や物がありました。ですからこれらの作品は部屋を描いているようで、それを超越した夢の空間なのです。
描かれることを許された家具や建具は、キャンバスの中でモノであるそれ自身の存在する幸福感を静かに呈しています。
開け放たれて、向こう側の空間へ誘う白いドア、よく磨き込まれているに違いない床、更にその向こうには北欧のやわらかい日差しが差し込むガラス窓、まるで調度品の一部になってしまったかのように美しいうなじを見せる夫人の後姿。。
この美しいソファのある部屋の壁に投影された窓ガラスの光は、刻々と移り行きながらも切り取られたこの瞬間を静かに喜んでいるように感じられます。そしてソファは座る人を誘っているようで、同時にそれ自身が空間に息づく侵しがたい存在感を呈しています。座る人を拒絶はしないけれど、物としての役割以上の存在を許すしかないことを、観る側に慎ましくもやわらかに主張してきます。
同時にこれらの物たちは永遠の夢の時間の中で淡くまどろんでいます。いろいろなイメージを喚起する作品ではあるのですが、私はただそれらがあるがままに、ただ永遠に続く淡く幸福な静謐さとして受けとっていたいと思いました。
そして淡く幸福なこの感覚は、自分のハートのスペースの中に確かにこの質があると気づいた幸福感でもあるのでした。
オーラソーマでは、ハートは「自分だけの庭」なので、雑草は抜いていつもガーデニングしていましょう、という表現をします。ハートの中には、自分以外のものは入れてはいけないのです。
でも一体何が雑草なのかそうじゃないのかわからなくなっている、というのが殆どの方に当てはまるのではないかなと思います。私もずっと(今でも)そうでした。。
外界のことも内面的なことも、無意識のうちにでもすべて受け入れて識別するのはハートです。幼いころから、誰もがそうしてきているはず。だから自分のハートが今一体何を受け入れたり、拒んだりしているのかに意識的になるワークは非常に重要ですし、全ての出発点です。
「ただ自分のハートを感じること」…とてもシンプルなことなのですけどね。
ともあれ、私は感受性形成期に自分のハートが美しいジュリーを無条件に受け入れていたことを感謝します
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なんと1ヶ月以上ぶりの更新になってしまいました!既に師走、光陰矢の如し…ですね
この1ヶ月間、特にソーラーエッセンスのセッションが増えて非常に手応えのある仕事をさせていただき、更に新しいことにもチャレンジして慌ただしくしておりましたが、パソコンに向かえばブログ書くよりジュリー見てました ハイ、そっち優先
重ね重ね思ったのが、子どもの頃に何も考えずにポカ~ンと見ていたジュリーが、無意識なだけにどれだけ強く刷り込まれていたのかということ!
なんか中途半端な世代で、GSブームや日劇ウエスタンカーニバルを享受したお姐さまたちが羨ましい~などと常々思っていたのですが、美しいジュリーをテレビつければ見ることができた日常の贅沢さに、30年経って感動してます
これは多分たった一度の企画物の放映ですが、ハッキリ覚えていたことに我ながらビックリ(N○K昼プレのロッド・スチュワート特集)。
1978年ってことはサムライとかダーリング歌ってた絶頂期だけど、この演じ分けが余計に印象深く、そして当時でさえ気恥ずかしさスレスレ(←ここがミソ!決して見てるほうを恥ずかしくさせないのがエンターテイナー)の甘美な「永遠の青春」のイメージを、確かに受け取ってました
歌のうまさもさることながら、本当にハートで歌っている人だから、こんなにストレートにハートに刻み込まれてしまうのでしょう…
でも、こうして再び出会えなければ完全に埋もれた記憶でした。。
ちなみに私が好きな曲ナンバー3に確実に入るのが憎みきれないろくでなし(ニ○ニ○動画です)なのですが、今の若者達に「本物のエロカッコイイってこれなのよ!」って言いたい(笑) エロには品格が要るんですよ これをカバーする勇気ある歌手はまずいないでしょう。
この曲は私的にはビジュアル不可欠なのですが…ドーム公演ではかなりお身体を絞られたようですが、この衣装はさすがにもう無理だろな~?
ま、ジュリーはきりがないのでこのくらいにして…(ホントつなぎがムリクリすぎ)
先月見たヴィルヘルム・ハンマースホイ展がとても印象深かったのでそのことを。もう会期終わっちゃいましたけどね。
見ていてあまりに心に響いたため、はしごしようとしていたフェルメール展を諦めて時間を過ごしました。多分その時の私はオランダの光よりもデンマークの光を味わいたかったのでしょう。(フェルメールも会期中になんとか見たいものですが…)
写真は購入したポストカードを撮ったものなので伝わるかどうかはわかりませんが、この静けさと空気感をどう表現すれば良いのでしょう?
まずはどうやったってお片づけが苦手な私は、こんなふうにモノや生活感のない広々としたスペースへの尽きない憧れがあることは確かです(笑)
ハンマースホイはこのようにお気に入りの自宅の部屋を描いた作品を沢山残していますが、実際にはもっと多くの家具や物がありました。ですからこれらの作品は部屋を描いているようで、それを超越した夢の空間なのです。
描かれることを許された家具や建具は、キャンバスの中でモノであるそれ自身の存在する幸福感を静かに呈しています。
開け放たれて、向こう側の空間へ誘う白いドア、よく磨き込まれているに違いない床、更にその向こうには北欧のやわらかい日差しが差し込むガラス窓、まるで調度品の一部になってしまったかのように美しいうなじを見せる夫人の後姿。。
この美しいソファのある部屋の壁に投影された窓ガラスの光は、刻々と移り行きながらも切り取られたこの瞬間を静かに喜んでいるように感じられます。そしてソファは座る人を誘っているようで、同時にそれ自身が空間に息づく侵しがたい存在感を呈しています。座る人を拒絶はしないけれど、物としての役割以上の存在を許すしかないことを、観る側に慎ましくもやわらかに主張してきます。
同時にこれらの物たちは永遠の夢の時間の中で淡くまどろんでいます。いろいろなイメージを喚起する作品ではあるのですが、私はただそれらがあるがままに、ただ永遠に続く淡く幸福な静謐さとして受けとっていたいと思いました。
そして淡く幸福なこの感覚は、自分のハートのスペースの中に確かにこの質があると気づいた幸福感でもあるのでした。
オーラソーマでは、ハートは「自分だけの庭」なので、雑草は抜いていつもガーデニングしていましょう、という表現をします。ハートの中には、自分以外のものは入れてはいけないのです。
でも一体何が雑草なのかそうじゃないのかわからなくなっている、というのが殆どの方に当てはまるのではないかなと思います。私もずっと(今でも)そうでした。。
外界のことも内面的なことも、無意識のうちにでもすべて受け入れて識別するのはハートです。幼いころから、誰もがそうしてきているはず。だから自分のハートが今一体何を受け入れたり、拒んだりしているのかに意識的になるワークは非常に重要ですし、全ての出発点です。
「ただ自分のハートを感じること」…とてもシンプルなことなのですけどね。
ともあれ、私は感受性形成期に自分のハートが美しいジュリーを無条件に受け入れていたことを感謝します