KIN29赤い電気の月(奉仕 活性化する つなぐ/普遍的な水 清める 流れ)
長く診させていただいている人から、冷えとりへの疑問を投げかけられました。
いくら冷えとりをしても冷えはなくならないのなら、やる意味があるのでしょうか? と。
冷えとりをしていると、靴下を履かないでいることが本当に寒くて辛くなる。冷えとりをしたら冷えがなくなるどころか、どんどん冷えを感じてきて、一生履き続けなければならない、ということに疑問を感じるそうです。
靴下を履かずに一生元気で長寿を全うする人は沢山いるし、一生裸足で過ごす南国の人々は健康ではないか?と。
人は生まれ落ちたときにすべてを持っていて完全であるはずなのに、靴下を履かなければならなくなるのは、不自然ではないか?と。
なるほど。
多分そういう疑問を持つ人が他にもいらっしゃりそうです。
冷えとりの目的は「冷えをなくすこと」ではなく、滞りをなくしてより健やかに生きるためだと私は思っています。
だから「冷えがなくならない」ということにフォーカスしてしまうと、解決よりも問題に意識を向けてしまうことになります。
確かに人はそのままで完全です。でも不自然なものを取り入れたり、不自然な思考をしたり、様々な矛盾の中を生きていくことが避けられないのが現実でもありますよね…そして冷えが生まれるわけです。
そのために、頭寒足熱を心がけて冷えを取ることで生まれながらの完全さをよりサポートできるとしたら、素敵ではないですか?
そういう意味では、冷えとりが新たな完全性や真実を創りだしているとも言えるのではないでしょうか? 靴下やお風呂という、とても日常的なささやかなことで。
…と言っても納得されない様子でしたが履き続けなければならない、という恐れになってしまっているのでしょうか?
私は20年近く履き続けてきて、そういうことは一度も思ったことがありませんでした。何故だろう??
私も相当理屈っぽい人間で、更に面倒くさがりやですが、「身体で知る」という理屈を超えた体感は信頼します。初期値としての自分の身体があまりに悪かったから余計です。
これは絶対正しい、っていう19年前に最初に感じた直感は全く揺らぎませんし、どんな状況でも靴下を重ねる、ということが呼吸をするのと同じくらい自然になっています。
(ただし新居の無垢の床は裸足が気持ち良さそうなので、夏になったらちょっとやってみるのは楽しみです)
恐れといえば私はむしろ逆で、履けなくなったらどうしよう?でした。
でも、たとえば災害などで靴下を取り替えられないとか履けないような状況に陥っても、それまで冷えとりをしていた身体だったら持ちこたえてくれるだろうと感じます。
最近の極端すぎる寒暖耐久試験のような日々でも、冷えとりをしていれば全然揺さぶられません。
今年の大気汚染ではさすがに少し目は痒いですが、幼い頃あらゆるアレルギー性鼻炎で悩まされた私が、今は花粉症も出ません。
今ここで冷えとりをしている身体を信頼すること、それで充分だと思うのです。
勿論冷えとりをせずに他の方法で健やかさにチャレンジする機会は、誰にでも与えられています。
写真のヒヤシンスは3日前まで蕾でしたが、今まさに満開! 初めて開花の音を深夜に聴きました。生命力ってすごいことです!
長く診させていただいている人から、冷えとりへの疑問を投げかけられました。
いくら冷えとりをしても冷えはなくならないのなら、やる意味があるのでしょうか? と。
冷えとりをしていると、靴下を履かないでいることが本当に寒くて辛くなる。冷えとりをしたら冷えがなくなるどころか、どんどん冷えを感じてきて、一生履き続けなければならない、ということに疑問を感じるそうです。
靴下を履かずに一生元気で長寿を全うする人は沢山いるし、一生裸足で過ごす南国の人々は健康ではないか?と。
人は生まれ落ちたときにすべてを持っていて完全であるはずなのに、靴下を履かなければならなくなるのは、不自然ではないか?と。
なるほど。
多分そういう疑問を持つ人が他にもいらっしゃりそうです。
冷えとりの目的は「冷えをなくすこと」ではなく、滞りをなくしてより健やかに生きるためだと私は思っています。
だから「冷えがなくならない」ということにフォーカスしてしまうと、解決よりも問題に意識を向けてしまうことになります。
確かに人はそのままで完全です。でも不自然なものを取り入れたり、不自然な思考をしたり、様々な矛盾の中を生きていくことが避けられないのが現実でもありますよね…そして冷えが生まれるわけです。
そのために、頭寒足熱を心がけて冷えを取ることで生まれながらの完全さをよりサポートできるとしたら、素敵ではないですか?
そういう意味では、冷えとりが新たな完全性や真実を創りだしているとも言えるのではないでしょうか? 靴下やお風呂という、とても日常的なささやかなことで。
…と言っても納得されない様子でしたが履き続けなければならない、という恐れになってしまっているのでしょうか?
私は20年近く履き続けてきて、そういうことは一度も思ったことがありませんでした。何故だろう??
私も相当理屈っぽい人間で、更に面倒くさがりやですが、「身体で知る」という理屈を超えた体感は信頼します。初期値としての自分の身体があまりに悪かったから余計です。
これは絶対正しい、っていう19年前に最初に感じた直感は全く揺らぎませんし、どんな状況でも靴下を重ねる、ということが呼吸をするのと同じくらい自然になっています。
(ただし新居の無垢の床は裸足が気持ち良さそうなので、夏になったらちょっとやってみるのは楽しみです)
恐れといえば私はむしろ逆で、履けなくなったらどうしよう?でした。
でも、たとえば災害などで靴下を取り替えられないとか履けないような状況に陥っても、それまで冷えとりをしていた身体だったら持ちこたえてくれるだろうと感じます。
最近の極端すぎる寒暖耐久試験のような日々でも、冷えとりをしていれば全然揺さぶられません。
今年の大気汚染ではさすがに少し目は痒いですが、幼い頃あらゆるアレルギー性鼻炎で悩まされた私が、今は花粉症も出ません。
今ここで冷えとりをしている身体を信頼すること、それで充分だと思うのです。
勿論冷えとりをせずに他の方法で健やかさにチャレンジする機会は、誰にでも与えられています。
写真のヒヤシンスは3日前まで蕾でしたが、今まさに満開! 初めて開花の音を深夜に聴きました。生命力ってすごいことです!
私は勉強会で、冷えとりにハッピーエンドはあるのかと聞かれたことがあります。私は今がハッピーなら、エンドはないと、答えました。
100年前ならいざ知らず、毒だらけの世の中です。靴下や半身浴くらいで体調いいなら、いいですよね。
今からずっと履き続ける?というのは、今じゃない時間へのフォーカスですよね。
わたしも体が悪すぎて、冷えとりの凄さがよくわかります(笑)もっと温まれば、枚数は減るんでしょうけどねー(*^_^*)まあ、どんな形であれ、冷えとりが進む先の体の具合がどこまで行くか、とても楽しみです(*^_^*)
あぁそうか!「履き続ける」ことへの恐れや疑問は、今じゃない時間へのフォーカス!!ですね~確かに。
だから私はイマイチわからなかったんですね(笑)
むしろ私に恐れがあるとしたら「やめられない」ことですから
今に集中していれば、そんなことを考えることもないわけです。
今がハッピーなら、エンドはない。名言です
治らない病気の小康を保っているような感じです
一生靴下を履き続けなければならないのは辛いですね
その冷えを溜めないようにする冷えとり、と考えれば、履き続けられることは幸せだと思います^-^
状況が許さず、履けないこともあるのですから。
そして冷えとりは未来への投資でもあります。
靴下も勿論ですが、メインは半身浴。
半身浴ができる幸せも味わっていきたいものです。