Days of Pieria

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鍼灸&オーラソーマ&冷えとり…光の鍼®︎Pieria

昇華&浄化(カタルシス)

2010年07月16日 | ひとりごと
KIN100黄色い太陽の太陽(意志 脈動させる 実感する/普遍的な火 照らす 生命)

相当唐突だが、リルケの「マルテの手記」を読んだ。
茶色く変色した昭和53年発行の新潮文庫、\280-。
全く記憶にないが古本で買った形跡はなく、多分20歳前に普通に買ったものだと思う。
「いつか読もう」とか「いつか必要かも」と思って買ったのに読んでいない文庫本がいくつかあり、その一つとして30年以上手元にあったらしい。
思えばすごいことだ

すごく興味深いのだが、相当読みづらい。読みたいのに続けて読んでいられずすぐに置いて何か他のことをしてしまう、いわば身の置き所をなくさせる苦しい小説だ
「生に向き合うことによる死と、愛を求めることによる愛への絶望」ともいえるだろうか。
更に小説としても構造的にある意味破綻していながら、その破綻をして読者に誠実に寄り添う力があるのだ。

あまり読書に費やす時間もなかったということもあるけど、3週間近くかけて読了…
この歴史的作品を文学的に批評することなど私には勿論できないが、個人的に、ずっと本棚にあったはずのこれを「今」気づいて読んだことに意味があると思った。

訳者によるあとがきにあった、リルケ自身が読者に宛てた手紙の言葉を引用すれば、
「僕は『マルテの手記』という小説を凹型の鋳型か写真のネガティヴだと考えている。かなしみや絶望や痛ましい想念などが、ここでは一つ一つ深い窪みや条線をなしているのだ。しかし、もしこの鋳型から本当の作品を鋳造することができるとすれば(たとえばブロンズをながしてポジティヴな立像をつくるように)多分たいへんすばらしい祝福と肯定の小説ができるに違いない。それは最も明確な面を持った、最も安定した『至高の幸福』になるだろう。」

その「鋳型」を書き上げたリルケはその後何年も書けなくなってしまったそうで、作家が一生に一度書けるか書けないかというほどの抜き差しならない作品だということはよくわかる。

奇しくも今日のKINである100番ボトル(大天使メタトロン)を思った。下層の漆黒に近いディープマゼンタがあるからこそ上層のクリアの光を認識することができる。(文庫本の表紙がメタトロンとかツァフキエルっぽいな。。)
個人的にこれを読むことが近年のワークの一つの区切りとなり、人生前半とくに幼年~青春時代のカオスや闇を明晰に見て受け入れ、かつ手放すことが出来たように思う。それこそがいわゆる昇華かつ浄化(カタルシス)なのであり、「生命」という「普遍的な火」の奥深さを「実感」させられた。
並行して大昔の同じテーマの本で処分すべきものを処分し、手元に置くべきものを識別することが出来た。人生後半を軽やかに生きていくために必要なことで、それが出来たことに世紀を超えてリルケに感謝しなければ。

20世紀初頭の文学者の読書傾向の一端を知ることができたり、セントジャーメインやトゥルヴァドールが出てきたり、「今」の自分的にもなかなか興味深いこともあった
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