次に書こうとしていた記事の覚書を無くして探しているうちに結構間が空いてしまいました。覚書が見つからないのでその記事は後回しにしたいとおもいます~
JWと血について話し合うためのシリーズ(?)あと少しだけ続きます。
さて!
エホバの証人は輸血することが殺人などの「人道的に許されない」「しようとはおもってはいけない事柄」(「論じる」より。非常~に嫌な言い回しですね。)と同じで重大な罪だといいます。
ではイエスはこれについてどう述べておられるのでしょうか。
何も述べておられません!
これは一体どういうことなのでしょうか?!
そんなに重要なら繰り返し述べるはずなのに、実際は一度も血を避けることについての言及はしていません。(ちなみに、モーセの十戒でも血については述べられていません。)
イエスが民に「神に喜ばれることとは」「どんな律法が重要か」を述べる機会はいくつかありましたが、その時も
血についてはな~んにも述べていません。
それどころか、「私の血を飲み、肉を食べるものでなければ私にふさわしくない」というたとえをあえて使っています。
神権宣教学校なら「ふさわしくないたとえの用い方」ってことで即「努力」マークで落第ですね。
しかし、イエスはあえて血を飲むという例えを使って、古い律法から勤めて努力して離れ、より高度な愛に基づいた法律を受け入れる「意識改革」をしない人はだめ!自分の追随者にはふさわしくない!
といわれたかったのではないでしょうか。
だとしたら、エホバの証人は文字通りにも、象徴的にもふさわしくない!
ということを表しているのような気がします。
JWと血について話し合うためのシリーズ(?)あと少しだけ続きます。
さて!
エホバの証人は輸血することが殺人などの「人道的に許されない」「しようとはおもってはいけない事柄」(「論じる」より。非常~に嫌な言い回しですね。)と同じで重大な罪だといいます。
ではイエスはこれについてどう述べておられるのでしょうか。
何も述べておられません!
これは一体どういうことなのでしょうか?!
そんなに重要なら繰り返し述べるはずなのに、実際は一度も血を避けることについての言及はしていません。(ちなみに、モーセの十戒でも血については述べられていません。)
イエスが民に「神に喜ばれることとは」「どんな律法が重要か」を述べる機会はいくつかありましたが、その時も
血についてはな~んにも述べていません。
それどころか、「私の血を飲み、肉を食べるものでなければ私にふさわしくない」というたとえをあえて使っています。
神権宣教学校なら「ふさわしくないたとえの用い方」ってことで即「努力」マークで落第ですね。
しかし、イエスはあえて血を飲むという例えを使って、古い律法から勤めて努力して離れ、より高度な愛に基づいた法律を受け入れる「意識改革」をしない人はだめ!自分の追随者にはふさわしくない!
といわれたかったのではないでしょうか。
だとしたら、エホバの証人は文字通りにも、象徴的にもふさわしくない!
ということを表しているのような気がします。
●あなたがたは「血」を食べてはならない。なぜなら、それは命だからである
私もそれは同意です。「血は食べてはならない」と思います。食べたくもありません。
ここでの話題は「輸血」ですから輸血についてこの聖句が当てはまるかどうか考えてみると、
1輸血は臓器移植である
2ものみの塔は臓器移植を禁止してはいない
この理由でこの聖句は輸血を禁止するものではないと思います。
また、この決まりは続き記事にも書きましたが、後に緩和されています。例えば緊急時(血抜きしないで食べた兵士に特に咎めなし)そして新訳聖書になると良心の問題にまで緩和されています。
なので、緊急時、または後の時代には緩和されるならば死ぬか生きるかの「緊急時」である輸血なら許されるのではというのが私の意見です。
この点に関してはブログの続き記事を読んでいただければ幸いです。
あなたがたは「血」を食べてはならない。
なぜなら、それは命だからである。
と言っているよね。
●「食物」自体に汚れてるものはなく,
その人の良心が許すものなら,なんでも食べてよい
というのがクリスチャンだと思います。
そうですね!そして、人は体内に取り入れるものによって汚れるのではない、とありますから、やっぱりどっちに転んでも輸血で神の恵みを失うことはありえないかと。
 ̄O ̄)ノオハー
> 考えてみると「偶像礼拝」といわず、「偶像に捧げ
> られたもの」と非常に具体的に書いてあるので、や
> はりここは文字通りすなおに読んで「偶像に捧げら
> れた食べ物」という意味ではないかと思うようにな
> りました。
ものみの塔協会“以上に”「文字どおりに」
とらえると,そういう「解釈」になるんでしょうね。
私個人は,たぶん,たとえ「文字通りに」とらえる
としても,「遠回しな言い方」をしたのではないか
と感じますよ。すなわち,あえて,「偶像礼拝」
と言わなかったのだと。
おそらく,「食物」と,そのまま解釈すると,
パウロや,神がペテロに述べた事柄などと
矛盾すると思います。
「食物」自体に汚れてるものはなく,
その人の良心が許すものなら,なんでも食べてよい
というのがクリスチャンだと思います。
おお~Koroさん聡明。私は何も思わず聞いてました。。(笑)
●イエスはこのように、人、試して精錬するためにわざと紛らわしいこと述べたという回答でした
それは一体何のために??(笑)ちょっと苦しい回答ですよね~~。そして最後は組織万歳な適応。。。JW的には偉い兄弟、霊的な兄弟、なんでしょうか。
●ですから,いわゆる一世紀の統治体が述べたのは,「偶像礼拝」と「殺人」と「淫行」を避けていなさいと言ってたのではないか
私も実は以前は全く同じように考えていました!
でも最近はちょっと変わったのです。
ものみの塔協会は「偶像に捧げられたもの」とは偶像崇拝のことであると適用していたと思います。でも、考えてみると「偶像礼拝」といわず、「偶像に捧げられたもの」と非常に具体的に書いてあるので、やはりここは文字通りすなおに読んで「偶像に捧げられた食べ物」という意味ではないかと思うようになりました。
(Possibleさんが聖書を文字通りに取らない考えを持っておられることは存じています。)
なので、他の部分も文字通りとっていいのでは、と思うのです。
「絞め殺されたもの」はギリシャ語プニクトスで文字通り具体的に絞め殺すという方法で殺された肉をさしているようですし、
他の聖書ではここを
「偶像に捧げられた食物を食べてはいけない、血を食べてはいけない、絞め殺された動物を食べてはいけない」(今日の聖書訳)
こんな風に訳しているようです。
淫行を避けているというところも「売春」(神殿娼婦をさして)を避ける、というように書いている聖書もあるようなので、
ここは「偶像礼拝」「淫行」「殺人」への象徴ではなく、文字通りの食事の規則について述べているのではないか。。。やはり結びのカジュアルさと対応した軽い話だったのではないかと。
もし血が殺人ならば、やはりもう少し分かりやすく「血の罪にあずかってはならない」とか、「人の血を流すことから離れていなさい」とかそんな書き方をしたかな、、とも思いました。
私もこの点については色々疑問に思っていたので、興味深い話題の提供ありがとうございます。きちんと自分なりに調べてみるきっかけになりました。
●死んでも守らなければならないおきてなら、イエスは何か言ってるはず・・・・
そうなんですよね。一番大切なら何度か(たとえを使ったりして)述べてるはずだし、一番大切なおきてはなんですか、なんてここぞ!という場面でも何もいってませんし。
●クリスチャンってイエスの弟子って意味ですもんね~。
エホバの証人に決定的に欠ける要素はこれですよね。キリストに見習ってない(笑)キリストに見習ったらエホバの証人らしさがなくなっちゃう。(笑)
( ∂-∂)ノ(* ∂。∂)ノこんばんわぁ♪
> エホバの証人は輸血することが殺人などの「人道的
> に許されない」「しようとはおもってはいけない事
> 柄」(「論じる」より。非常~に嫌な言い回しです
> ね。)と同じで重大な罪だといいます。
使徒15章で,「血を避けていなさい」という意味は,いったい何を意味していたんだろうと考えてみる時に,それは,「血を食するな」という意味の他に,「殺人をするな」という意味も含むのではないか,と私は感じます。ちょうど,イエスが,「アベルの血」という表現で使った時と同じような意味で。
ですから,いわゆる一世紀の統治体が述べたのは,「偶像礼拝」と「殺人」と「淫行」を避けていなさいと言ってたのではないか,ということです。つまり,クリスチャンは,それだけ守ってればいい,ということでしょう。
それを,「輸血をするな」と解釈してしまうと,この年長者たちの決めたことが,「くだらない」ものとなってしまうと感じます。
死んでも守らなければならないおきてなら、イエスは何か言ってるはず・・・・
クリスチャンってイエスの弟子って意味ですもんね~。やっぱ血の教えは腑に落ちないわ。