◆ 「特別の教科道徳」と評価
価値を教えたり、評価したりは控えるべき (教科書ネット21ニュース)
◆ 評価と科学
「プライベートである子どもの内面をパブリックである国が基準を示し、それを基に評価する」。これが今回の道徳の教科化に関する最大の問題点でしょう。
本来、教科とは科学的なものでなければなりません。
しかし道徳に関しては科学になりえない性質のものであることは理解できると思います。一例を挙げてみましょう。
Aさんは隣の席のBさんに「赤いクレヨンを貸して」とお願いされました。しかしBさんが忘れるのはこれで3回目です。あなたならどうしますか。(内容項目・親切、思いやり)
これは都内の道徳推進校で実際に行われた授業のテーマです。
この時の評価基準は
A…貸してあげたいけれど貸し続けてもあなたのためにならないから貸せない。
B…貸してあげる。
C…貸さない。
でした。
根拠としては「特別の教科道徳」は「一面的な見方から多面的・多角的な見方に発展しているか」を重視しているため、Bさんの今後の事を考えたAさんの行動はA評価なのだ、ということになります。
一体このどこが科学的でしょうか?
教科とは科学であるため「一般化・体系化」できなければなりません。
しかしこのBさんに関しては例えば「家はクレヨンを補充してもらえるような環境なのか?」等、様々な要因を考えることができます。
要するに道徳的判断とはそれぞれの子どもがその時の状況により判断するものであり、その場限り一回性の判断をしているのです。
ですから道徳とは教科になりえない、教科書など作りえない性質のものであることをまず確認したいと思います。
◆ 国の評価の方向性
今年7月に文科省「道徳教育に係る評価等の在り方に関する専門家会議」において、「『特別の教科道徳』の指導方法・評価等について」の最終報告が出されました。
ここではその中から特徴的な点を3点、分析してみたいと思います。
①数値による評価ではなく記述式とし、その評価は「個々の内容項目ごとではなく、大くくりなまとまりを踏まえた評価とすること」としています。
これは、「愛国心を評価するのか」という世間のザワメキを鎮めるために出してきたものです。しかし授業自体は「内容項目ごと」に1時間の授業が行われます。
このため、「大くくりなまとまり」で子どもを評価するということは、「年間35時間という長い期間での子どもの様子の全てが評価対象」という恐ろしいことにつながりますし、1時間ごとの授業を組み立てている学校側としてはかなり無理のある評価方法であるといえるでしょう。
②「他の児童生徒との比較による評価ではなく、児童生徒がいかに成長したかを積極的に受け止めて認め、励ます個人内評価として行うこと」。
この点に関しては2つの問題が存在します。1つは「ほめることの怖さ」。要は文科省としては「ここがだめだというのではなく、よい考えを褒める形にするなら文句ないでしょ?」ということですが、ある価値を褒める、ということは暗にその逆はだめなのである、と「国が個人の価値を示す」ことと同義であり、何ら問題を解決していません。
2つ目は「個人内評価」の怖さ。個人内評価、と聞くと聞こえはいいのですが、要は「常に右肩上がりの成長を個人に強いる」まなざし、評価方法であり、「そのままのあなたでいいんだよ」という人権感覚が欠如した権力側の独りよがりの評価方法であると言えるでしょう。
③「『各教科の評定』や『出欠の記録』等とは基本的な性格が異なるものであることから、調査書に記載せず、入学者選抜の合否判定に活用することのないようにする必要」があると明言しています。
しかしこのことには実は法的拘束力はないため、全国学力調査導入時に文科省が言っていた「学校単位での結果の公表はしない」が各都道府県知事の判断により覆され公開され文科省は「指導」しかできない、という状態になることは火を見るより明らかであると言えるでしょう。
◆ 今後の闘い
ではこの道徳の評価に関し、現場はどう闘っていけるのか。ここではいくつかある中2つの方法を提案したいと思います。
(1)通知表に道徳の評価欄を設けない
実は通知表は公簿ではなく、各学校のサービスで出しているような性質のものであるため、通知表の内容は各学校に任されています。そこで、評価欄を設けないことで子どもや保護者に評価を示さずに済むという方法です。
しかしこれでは結局公簿である指導要録に載ることには変わりがないため、あくまで、本人・保護者に見せない、という方法です。
(2)「多面的・多角的な見方」という価値の多様性を逆手にとる
例えばクレヨンを貸さない、だって自分が使いたいから、のような理由であっても認めてしまうということです。子どもたちは授業でこのような様々な価値に触れるわけですから、要は子どもから出た価値は「道徳という枠内」ではすべて認めてしまうという方法です。
「貸してあげたいけどあなたのためを思えば貸せない」がAになるような一面的な価値ではなく、丸ごと認める道徳の授業、は可能性として面白いと思います
以上、評価についての考え方、最新の状況、今後の取り組みについて触れてきましたが、最後にもう一度確認したいと思います。
「教員は自分の価値を持ち、示しなから生活すべきである。しかし、価値を教えたり、ましては評価したりすることはどんな価値であれパブリックである以上控えねばならない。」
『子どもと教科書全国ネット21ニュース 110号』(2016年10月)
価値を教えたり、評価したりは控えるべき (教科書ネット21ニュース)
宮澤弘道(道徳の教科化を考える会代表)
◆ 評価と科学
「プライベートである子どもの内面をパブリックである国が基準を示し、それを基に評価する」。これが今回の道徳の教科化に関する最大の問題点でしょう。
本来、教科とは科学的なものでなければなりません。
しかし道徳に関しては科学になりえない性質のものであることは理解できると思います。一例を挙げてみましょう。
Aさんは隣の席のBさんに「赤いクレヨンを貸して」とお願いされました。しかしBさんが忘れるのはこれで3回目です。あなたならどうしますか。(内容項目・親切、思いやり)
これは都内の道徳推進校で実際に行われた授業のテーマです。
この時の評価基準は
A…貸してあげたいけれど貸し続けてもあなたのためにならないから貸せない。
B…貸してあげる。
C…貸さない。
でした。
根拠としては「特別の教科道徳」は「一面的な見方から多面的・多角的な見方に発展しているか」を重視しているため、Bさんの今後の事を考えたAさんの行動はA評価なのだ、ということになります。
一体このどこが科学的でしょうか?
教科とは科学であるため「一般化・体系化」できなければなりません。
しかしこのBさんに関しては例えば「家はクレヨンを補充してもらえるような環境なのか?」等、様々な要因を考えることができます。
要するに道徳的判断とはそれぞれの子どもがその時の状況により判断するものであり、その場限り一回性の判断をしているのです。
ですから道徳とは教科になりえない、教科書など作りえない性質のものであることをまず確認したいと思います。
◆ 国の評価の方向性
今年7月に文科省「道徳教育に係る評価等の在り方に関する専門家会議」において、「『特別の教科道徳』の指導方法・評価等について」の最終報告が出されました。
ここではその中から特徴的な点を3点、分析してみたいと思います。
①数値による評価ではなく記述式とし、その評価は「個々の内容項目ごとではなく、大くくりなまとまりを踏まえた評価とすること」としています。
これは、「愛国心を評価するのか」という世間のザワメキを鎮めるために出してきたものです。しかし授業自体は「内容項目ごと」に1時間の授業が行われます。
このため、「大くくりなまとまり」で子どもを評価するということは、「年間35時間という長い期間での子どもの様子の全てが評価対象」という恐ろしいことにつながりますし、1時間ごとの授業を組み立てている学校側としてはかなり無理のある評価方法であるといえるでしょう。
②「他の児童生徒との比較による評価ではなく、児童生徒がいかに成長したかを積極的に受け止めて認め、励ます個人内評価として行うこと」。
この点に関しては2つの問題が存在します。1つは「ほめることの怖さ」。要は文科省としては「ここがだめだというのではなく、よい考えを褒める形にするなら文句ないでしょ?」ということですが、ある価値を褒める、ということは暗にその逆はだめなのである、と「国が個人の価値を示す」ことと同義であり、何ら問題を解決していません。
2つ目は「個人内評価」の怖さ。個人内評価、と聞くと聞こえはいいのですが、要は「常に右肩上がりの成長を個人に強いる」まなざし、評価方法であり、「そのままのあなたでいいんだよ」という人権感覚が欠如した権力側の独りよがりの評価方法であると言えるでしょう。
③「『各教科の評定』や『出欠の記録』等とは基本的な性格が異なるものであることから、調査書に記載せず、入学者選抜の合否判定に活用することのないようにする必要」があると明言しています。
しかしこのことには実は法的拘束力はないため、全国学力調査導入時に文科省が言っていた「学校単位での結果の公表はしない」が各都道府県知事の判断により覆され公開され文科省は「指導」しかできない、という状態になることは火を見るより明らかであると言えるでしょう。
◆ 今後の闘い
ではこの道徳の評価に関し、現場はどう闘っていけるのか。ここではいくつかある中2つの方法を提案したいと思います。
(1)通知表に道徳の評価欄を設けない
実は通知表は公簿ではなく、各学校のサービスで出しているような性質のものであるため、通知表の内容は各学校に任されています。そこで、評価欄を設けないことで子どもや保護者に評価を示さずに済むという方法です。
しかしこれでは結局公簿である指導要録に載ることには変わりがないため、あくまで、本人・保護者に見せない、という方法です。
(2)「多面的・多角的な見方」という価値の多様性を逆手にとる
例えばクレヨンを貸さない、だって自分が使いたいから、のような理由であっても認めてしまうということです。子どもたちは授業でこのような様々な価値に触れるわけですから、要は子どもから出た価値は「道徳という枠内」ではすべて認めてしまうという方法です。
「貸してあげたいけどあなたのためを思えば貸せない」がAになるような一面的な価値ではなく、丸ごと認める道徳の授業、は可能性として面白いと思います
以上、評価についての考え方、最新の状況、今後の取り組みについて触れてきましたが、最後にもう一度確認したいと思います。
「教員は自分の価値を持ち、示しなから生活すべきである。しかし、価値を教えたり、ましては評価したりすることはどんな価値であれパブリックである以上控えねばならない。」
『子どもと教科書全国ネット21ニュース 110号』(2016年10月)
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