◎ 教頭を空に飛ばした東京高裁!
でたらめ判決を糾弾する!
「雪秩父」 《撮影:佐久間市太郎(北海道白糠定、札幌南定、数学科教員)》
p、1 「 主文 本件控訴を棄却する。」
棄却されるべきは、本件一審判決であり、かつこのような出鱈目な判決を出した東京高裁刑事10部、須田まさる、秋吉淳一郎、横山泰造である。
なお主筆は、司法研修所教官でもある秋吉淳一郎と思われる。
かっての日本において、軍部の学校でのあまりにもお粗末な教育が兵士・国民のみならず山河さえも悲惨な状況に叩き込んだ歴史を振り返るとき、
このようなお粗末な判決文を臆面もなく世間に提示する裁判官が教育している司法研修所とは一体何なのであろうか、慄然たる感がする。
臆面もなくと書いたのは、この判決文を得意として他の同種裁判を誘導すべく、「判例時報」「判例タイムス」に「特集」とか銘打って裁判官が解説付で掲載したことをも指す。
その解説の中で秋吉は、ICレコーダー録音をなしたのは、「来賓」である「指導主事」であると記している。
冗談言ってはいけない。
ひそかに「盗聴」し、警視庁公安二課にそれを証拠品として提供した隠密、「鯨岡」は、都教委から派遣された「監視要員」であり、席は来賓席とは対極の職員席後方であることは一審書証を見れば即座に分かることではないか。
さらに鯨岡は、杉並高校の卒業式にも侵入し盗聴録音を行っている。
杉並高校では、席は不明である。
板橋高校卒業式においても、4学区統括指導主事、佐々木の席は用意されていない。
いずれも、最後方に佇立して全体を見廻すか、保護者席後方に侵入して監視していたのであろう。
何でこんな監視人が、「来賓」と言えるのか。
秋吉よ、頭は大丈夫か?
2004、3、11の板橋高校卒業式において佐々木は、コピー配布を注進し、教頭を伴って式場・体育館にとって返した。
目撃者の話を総合すると、教頭は左側に向かい、手持ちの最後の数枚を配布している被告人に近寄った。
被告人は接近する教頭に気づかず、その数枚をさっと配布し終えると保護者席最後方に置いておいた紙袋の中より予備の残部10枚ほどを取り出し、後方より配布した。
教頭は被告人が後方に移動した際にコピー配布は終わったと了解してか、式場入り口に移動したのである。
被告人が残部を配布し、次いで保護者席中央最前列において簡単な自己紹介とコピーの説明を始めたとき、教頭は体育館に配置された座席の最後方に佇立していたのである。
体育館最後方壁際にいた指導主事・佐々木は教頭に声をかけ、教頭は振り返って佐々木のもとに向かう。
佐々木に指示された教頭は、その時点で前方に動き出して被告人のところへ向かったのである。
「配布中に制止」した、「被告人について前方に行った」、「呼びかけの最初から、制止していた」などの証言は、荒唐無稽の偽証である。
このことは、書証を丁寧に読むまでもなく一読すれば明瞭である。
ゆえに、裁判官は必死である。
あれこれ、「こうとも言える・・・」「こうでないか・・・」などと、詭弁と捏造を組み合わせて教頭の偽証を糊塗せんとして躍起となる。
愚かなことである。
これが日本の裁判である。
一審裁判長・村瀬は、「新宿ホームレス威力業務妨害事件」で、「無罪判決」を出していた。
これはこれで立派なものである。
高裁・最高裁で予期されたようにこの村瀬判決は引っくり返され、有罪とされた。
「板橋高校卒業式威力業務妨害事件」は村瀬にとって、「裁定・無罪」を選択する余地は九牛の一毛もなかったのである。
これが日本の裁判である。
村瀬にも多少の良心はあったのであろう。
判決文朗読の際の何とも情けなさそうな、自信の欠片もない有様は今も記憶に鮮明である。
高裁裁判官も同様であった。
前半部分を読み上げた秋吉は、自信なくおどおどしていた。
逆に裁判長・須田は、どんな奴でも検察官が起訴した奴は、「有罪だあー」という、ある意味ニヒルなふてぶてしさを顔面に漂わせていた。
多くの人に、「死刑」を言い渡してきた過去の判歴が顔相の根底にあるのであろう。
先に、「裁判官は必死である」 と記した。
「有罪」にするに、一所懸命なのである。
以前の「通信」で書いたが、そのために裁判官は詳細にわたりすぎて大きなミスを犯した。
詳しく再掲する紙幅がないのが残念であるが、時速何キロとかあれこれ一所懸命に書いて致命的なミスを犯したのだ。
「教頭が、空中を飛んだのである」。
まず、一審認定通り、教頭が校長室を出発した時刻を9時40分とした。
さらに、ICレーダー5分44秒頃に、教頭が式場に着いたと判決文で明記してしまったのである。
校長ら(IC,7分14秒、入場)よりも、1分半前に到着したのだから十分、「配布を制止」する時間はあったとしたのである。
すなわち、教頭は校長室を9時40分に出発し、9時39分44秒頃に体育館に入場したこととなってしまった。
これは、ICレコーダーの録音開始時間(9時34分)を失念したことによる。
あきれ果てた、刑事事件の判決文である。
目撃者に聞くと、教頭は校長ら来賓入場の10~20数秒前頃に入場している。
佐々木の調書を見ると傑作である。
校長らよりも先に体育館に向かうべく教頭と歩む佐々木が、「教頭に歩みが遅い」と叱責したとの記述がある。
教頭も内心、気が進まなかったのであろう。
その佐々木供述調書には、以前にも触れたが次のような部分がある。
佐々木が校長に、「あの男を退去させろ」と命じているのである。
校長の、卒業式を挙行する「権利」も何もあったものではない。
校長は哀れにも、コンビニ店長として商品の展示から何からコンビニ本部・都教委の指令に一挙手一投足まで縛られている。
これが、この卒業式事件の本質である。
一ないし二ほどの党派が政治権力を握り、国民の思想統制を企図する。
「教育」、「学校」の党派的支配である。
政治権力の露骨な介入である。
このことの不幸は日本国民なら今次の大戦で骨の髄まで記憶しているところである。
若い歴史を知らない世代が跳梁し出したということなのであろうか。
いわゆる「右翼党派」がこれを巧妙に自己の陣営に引きずり込む。
その意味では、この裁判は、「右翼」による「左翼」とみられる者への断罪裁判である。
警視庁公安二課が捜索し、東京地検特別公判部が起訴、求刑、「懲役8月」としたのである。
日本は表面、民主主義国家である。
「主権在民」である。
選挙によって政体は替わりうる。
右翼党派が勝てば、卒業式で右翼礼賛の歌を歌い、左翼が勝てば、別の歌を歌う。
おかしな話である。
卒業式に歌を歌うのであれば、卒業生に決めさせればいいではないか。
東京都の教育委員会は、現状、愚劣かつ悲惨な状況にある。
「都知事・石原」の右翼的・ファッショ的圧政下にある。
抵抗する官僚は封殺される。
多くは上に媚びて跳梁する。
教育の場のファッショ的支配である。
職員会議の「挙手禁止」という時代錯誤どころか、ネオファシズムの象徴とでも言うべき痴呆的命令を発する。
ついには賃金で拘束すべく、フラットであった教員の給料を、「主幹」「主任教諭」「教諭」の三段階に分け
30代では生涯賃金、1300万円余のマイナスを生ずるように仕組む。
都教委のロボットである校長の「推薦」なしには、給料はいつまでも最底辺である。
これが、教員相互の連帯を最も必須とする教育の場なのか。
「学問の自由」「教育の自由」をその職業の根幹とする教育の場にふさわしい給料体系なのか。
暗然たる感を否めない。
このようなファッショ的策動は、この社会の未来が黒雲に覆われていることの言いようのない表象であろう。
最高裁へは2ヶ月延びて、1月26日までに「控訴趣意書」を弁護団が提出する。
第1小法廷である。
現下の状況では数ヵ月後、「三下り半」なる「上告棄却書」が郵送されてきていわゆる「裁判」なるものは幕を引かれるのであろう。
日本の政治状況が、言葉の真の意味で「近代化」「健全化」「国民主権化」されることなくして、「無罪判決」はあり得ない。
『藤田先生を応援する会通信』(第31号 2008/12/9)
でたらめ判決を糾弾する!
藤田勝久
「雪秩父」 《撮影:佐久間市太郎(北海道白糠定、札幌南定、数学科教員)》
p、1 「 主文 本件控訴を棄却する。」
棄却されるべきは、本件一審判決であり、かつこのような出鱈目な判決を出した東京高裁刑事10部、須田まさる、秋吉淳一郎、横山泰造である。
なお主筆は、司法研修所教官でもある秋吉淳一郎と思われる。
かっての日本において、軍部の学校でのあまりにもお粗末な教育が兵士・国民のみならず山河さえも悲惨な状況に叩き込んだ歴史を振り返るとき、
このようなお粗末な判決文を臆面もなく世間に提示する裁判官が教育している司法研修所とは一体何なのであろうか、慄然たる感がする。
臆面もなくと書いたのは、この判決文を得意として他の同種裁判を誘導すべく、「判例時報」「判例タイムス」に「特集」とか銘打って裁判官が解説付で掲載したことをも指す。
その解説の中で秋吉は、ICレコーダー録音をなしたのは、「来賓」である「指導主事」であると記している。
冗談言ってはいけない。
ひそかに「盗聴」し、警視庁公安二課にそれを証拠品として提供した隠密、「鯨岡」は、都教委から派遣された「監視要員」であり、席は来賓席とは対極の職員席後方であることは一審書証を見れば即座に分かることではないか。
さらに鯨岡は、杉並高校の卒業式にも侵入し盗聴録音を行っている。
杉並高校では、席は不明である。
板橋高校卒業式においても、4学区統括指導主事、佐々木の席は用意されていない。
いずれも、最後方に佇立して全体を見廻すか、保護者席後方に侵入して監視していたのであろう。
何でこんな監視人が、「来賓」と言えるのか。
秋吉よ、頭は大丈夫か?
2004、3、11の板橋高校卒業式において佐々木は、コピー配布を注進し、教頭を伴って式場・体育館にとって返した。
目撃者の話を総合すると、教頭は左側に向かい、手持ちの最後の数枚を配布している被告人に近寄った。
被告人は接近する教頭に気づかず、その数枚をさっと配布し終えると保護者席最後方に置いておいた紙袋の中より予備の残部10枚ほどを取り出し、後方より配布した。
教頭は被告人が後方に移動した際にコピー配布は終わったと了解してか、式場入り口に移動したのである。
被告人が残部を配布し、次いで保護者席中央最前列において簡単な自己紹介とコピーの説明を始めたとき、教頭は体育館に配置された座席の最後方に佇立していたのである。
体育館最後方壁際にいた指導主事・佐々木は教頭に声をかけ、教頭は振り返って佐々木のもとに向かう。
佐々木に指示された教頭は、その時点で前方に動き出して被告人のところへ向かったのである。
「配布中に制止」した、「被告人について前方に行った」、「呼びかけの最初から、制止していた」などの証言は、荒唐無稽の偽証である。
このことは、書証を丁寧に読むまでもなく一読すれば明瞭である。
ゆえに、裁判官は必死である。
あれこれ、「こうとも言える・・・」「こうでないか・・・」などと、詭弁と捏造を組み合わせて教頭の偽証を糊塗せんとして躍起となる。
愚かなことである。
これが日本の裁判である。
一審裁判長・村瀬は、「新宿ホームレス威力業務妨害事件」で、「無罪判決」を出していた。
これはこれで立派なものである。
高裁・最高裁で予期されたようにこの村瀬判決は引っくり返され、有罪とされた。
「板橋高校卒業式威力業務妨害事件」は村瀬にとって、「裁定・無罪」を選択する余地は九牛の一毛もなかったのである。
これが日本の裁判である。
村瀬にも多少の良心はあったのであろう。
判決文朗読の際の何とも情けなさそうな、自信の欠片もない有様は今も記憶に鮮明である。
高裁裁判官も同様であった。
前半部分を読み上げた秋吉は、自信なくおどおどしていた。
逆に裁判長・須田は、どんな奴でも検察官が起訴した奴は、「有罪だあー」という、ある意味ニヒルなふてぶてしさを顔面に漂わせていた。
多くの人に、「死刑」を言い渡してきた過去の判歴が顔相の根底にあるのであろう。
先に、「裁判官は必死である」 と記した。
「有罪」にするに、一所懸命なのである。
以前の「通信」で書いたが、そのために裁判官は詳細にわたりすぎて大きなミスを犯した。
詳しく再掲する紙幅がないのが残念であるが、時速何キロとかあれこれ一所懸命に書いて致命的なミスを犯したのだ。
「教頭が、空中を飛んだのである」。
まず、一審認定通り、教頭が校長室を出発した時刻を9時40分とした。
さらに、ICレーダー5分44秒頃に、教頭が式場に着いたと判決文で明記してしまったのである。
校長ら(IC,7分14秒、入場)よりも、1分半前に到着したのだから十分、「配布を制止」する時間はあったとしたのである。
すなわち、教頭は校長室を9時40分に出発し、9時39分44秒頃に体育館に入場したこととなってしまった。
これは、ICレコーダーの録音開始時間(9時34分)を失念したことによる。
あきれ果てた、刑事事件の判決文である。
目撃者に聞くと、教頭は校長ら来賓入場の10~20数秒前頃に入場している。
佐々木の調書を見ると傑作である。
校長らよりも先に体育館に向かうべく教頭と歩む佐々木が、「教頭に歩みが遅い」と叱責したとの記述がある。
教頭も内心、気が進まなかったのであろう。
その佐々木供述調書には、以前にも触れたが次のような部分がある。
佐々木が校長に、「あの男を退去させろ」と命じているのである。
校長の、卒業式を挙行する「権利」も何もあったものではない。
校長は哀れにも、コンビニ店長として商品の展示から何からコンビニ本部・都教委の指令に一挙手一投足まで縛られている。
これが、この卒業式事件の本質である。
一ないし二ほどの党派が政治権力を握り、国民の思想統制を企図する。
「教育」、「学校」の党派的支配である。
政治権力の露骨な介入である。
このことの不幸は日本国民なら今次の大戦で骨の髄まで記憶しているところである。
若い歴史を知らない世代が跳梁し出したということなのであろうか。
いわゆる「右翼党派」がこれを巧妙に自己の陣営に引きずり込む。
その意味では、この裁判は、「右翼」による「左翼」とみられる者への断罪裁判である。
警視庁公安二課が捜索し、東京地検特別公判部が起訴、求刑、「懲役8月」としたのである。
日本は表面、民主主義国家である。
「主権在民」である。
選挙によって政体は替わりうる。
右翼党派が勝てば、卒業式で右翼礼賛の歌を歌い、左翼が勝てば、別の歌を歌う。
おかしな話である。
卒業式に歌を歌うのであれば、卒業生に決めさせればいいではないか。
東京都の教育委員会は、現状、愚劣かつ悲惨な状況にある。
「都知事・石原」の右翼的・ファッショ的圧政下にある。
抵抗する官僚は封殺される。
多くは上に媚びて跳梁する。
教育の場のファッショ的支配である。
職員会議の「挙手禁止」という時代錯誤どころか、ネオファシズムの象徴とでも言うべき痴呆的命令を発する。
ついには賃金で拘束すべく、フラットであった教員の給料を、「主幹」「主任教諭」「教諭」の三段階に分け
30代では生涯賃金、1300万円余のマイナスを生ずるように仕組む。
都教委のロボットである校長の「推薦」なしには、給料はいつまでも最底辺である。
これが、教員相互の連帯を最も必須とする教育の場なのか。
「学問の自由」「教育の自由」をその職業の根幹とする教育の場にふさわしい給料体系なのか。
暗然たる感を否めない。
このようなファッショ的策動は、この社会の未来が黒雲に覆われていることの言いようのない表象であろう。
最高裁へは2ヶ月延びて、1月26日までに「控訴趣意書」を弁護団が提出する。
第1小法廷である。
現下の状況では数ヵ月後、「三下り半」なる「上告棄却書」が郵送されてきていわゆる「裁判」なるものは幕を引かれるのであろう。
日本の政治状況が、言葉の真の意味で「近代化」「健全化」「国民主権化」されることなくして、「無罪判決」はあり得ない。
『藤田先生を応援する会通信』(第31号 2008/12/9)
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