◎ 一段ごとに死刑台への階段を上らされる
累積加重処分に風穴を開けた
根津さんの日記 3/31
全文は ↓ から
『河原井さん根津さんらの「君が代」解雇をさせない会ブログ』
3月31日
28日の教育委員会定例会で処分が決定され、該当者には処分発令の出張命令が出されたというのに、私だけはそれがされなかった。とすれば、免職間違いなし、と思わざるを得ない。いよいよ明日が処分発令の日という30日の夜、私は、免職以外の可能性は全くないと踏んで抗議声明を書いた(打った)。免職にさせないために、この2ヶ月やれることはすべてやった、後悔はない、明日の処分発令を新たな闘いの出発にしよう、そう思いながら書いた。普段より早くに布団に入ったけれど、余り眠ることができずに朝を迎えた。
31日は7時30分、学校に到着。冷たい雨が降る中を、すでに何人もの友人たちが校門前に来てくれていた。荷物を職員室に置いた後、支援に来てくれた人たちとともに、都教委職員(役人)の登場を待った。
報道関係者も多数見え、取材に応じた。8時25分の始業に合わせて、私は2階の職員室に戻った。窓ガラス越しに、みんなの顔が見え、訴える声が聞こえてくる。出勤している職員は少なかったので、遠慮気味に窓を開けて、みんなの話しに耳を傾け、一人ひとりの顔を追った。
泣き声で途切れ途切れになりながらマイクで訴える友人、知人たち。2006年度在職した鶴川二中学区のお母さんたち、子どもたち。小学生のTさんの笑顔が私の目に飛び込んだ途端、私の中で強力なパワーが駆け巡った。
大分の益永さん、北海道、大阪、愛知、広島、福岡、長野からも、このために来てくださって感激。死刑台に上らされる私を見守り、校長や都教委に抗議しようと、駆けつけてくださったたくさんの方々(90人に近い、と聞かされた)に、支えられていることに感謝した。
部屋の中にいても寒いほど花冷えのする、おまけに雨が降りしきる中で、時間ばかりが経っていく。皆さん、予想もしない寒さに、大丈夫だろうか。都教委はここには来ないのか、どこかに私を呼び出すのだろうか。いろんなことが頭を去来する。
「都教委が来た!」と誰かが叫ぶ声に、下を見ると、一人は見覚えのある顔であった。都教委の役人だ。間違いない!と思った。時計を見ると針は、9時27分を指していた。
10時頃、鈴木副校長が私を呼びに来た。「根津さん、お伝えすることがあるので、校長室に来てください」。校長も来て、「10時30分までに来なければ、受領拒否と見なします」と居丈高に言う。同僚の一人が、「私たちにできること、何かある?」と聞いてくれた。「付き添ってもらえたら、とってもうれしい」と言うと、すぐに声を掛け合い、5(4?)人の同僚が同行してくれた。春季休業中なので、出勤していた人は少なかった。もう、これで十分心強い。うれしかった。
10時20分、校長室に同僚たちと行き、私が引き戸を開け、一歩中に入ると、即座に副校長がやってきて、「戸を閉めてください」と私に、「手で押さえて、戸を閉めさせません」とあちら側の人に言った。都教委の役人は、個人情報だから戸を閉めるよう、私に告げた。「この場で受け取ります。そこまで行かなくとも、ここは(あなたたちが指定した)校長室です。個人情報が知られて私には困ることはありません。いえ、皆に知ってほしいですから、そちらがここに来てください。」と私は言うが、彼らは、「受領拒否」に仕立て上げればいいだけのこと。
処分書を受け取るために、仕方なく、都教委の役人の近くまで進んだ。補佐役は、三田村管理主事、処分書を読み上げたのは、江藤職員課長。
(略)
外の皆に報せなくちゃ、と職員室に駆け上がり、私はまずは年休処理簿に1時間の年休申請をした。その間に同僚が外の皆に、笑顔でサインを送ってくれていた。年休申請を済ませた私は、窓から皆に向かって、叫んだ。「みんな聞いて!都教委は、私をクビにすることはできなかった!!」(と、言ったそうだ)。
そして、転げるように外に走った。歓声と泣き声で迎えてくれた皆と、抱き合い、喜び合った。
処分理由書には、卒業式での不起立のほかに、「OBJECTION HINOMARU KIMIGAYO」のロゴの入ったトレーナーについての、職務専念義務違反、職務命令違反が加えられていて、なおかつ、停職6ヶ月。とすると、昨年の君が代「不起立」での停職6ヶ月処分よりも薄まったとも言える。一段ごとに死刑台への階段を上らされる累積加重処分に、風穴を開けることになったのだ。
「君が代」処分自体が間違いであり、半年間も仕事を奪い、収入を途絶えさせる停職6ヶ月処分は、許しがたいことではあるけれど、連日集まり行動してくださった人たち、都教委にいろいろな形で声を寄せてくれた全国の、いや、世界各国の人たち、そういう人たちの力によって、勝ち取ることができたものだ。
また、トレーナー処分発動か?!という2月から3月末までにいくつもの新聞社がした報道は、どれも、「都教委よ、余りにひどいじゃないか」といった論調だった。そうしたことすべてが、都教委の判断に影響したことは明白だ。私一人がどんなに動いても、追放は食い止められなかっただろう。大勢の人が見える形で動いたことが、都教委の暴走にブレーキをかけたのだ。私たちみんなの勝利だ!
都教委は、不起立・処分発令対象者から私を分離して、学校で密かに処分発令をしてしまおうと考えたのだろうけれど、結果は彼らの目論見からすれば、裏目に出てしまった。
お昼のニュース(TBS・TV)が、学校前で喜び合う私たちの姿を放映し、翌日の毎日新聞は、そのシーンを伝える写真を大きく掲載した。東京新聞の報道も、私の声を大きく伝えていた。
午後は、不起立・被処分者20人の、私と退職者以外の人たちへの処分発令が水道橋の教職員センターで行われた。河原井純子さんは、私の昨年と同様に、停職6月。
早くその場に合流したかったけれど、年休の残が2時間しかなく、15時10分、その年休を使って、集会と記者会見を行っている会場に向かった。
累積加重処分に風穴を開けた
《4.2都庁情宣ちらし・表》


根津さんの日記 3/31
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『河原井さん根津さんらの「君が代」解雇をさせない会ブログ』
3月31日
28日の教育委員会定例会で処分が決定され、該当者には処分発令の出張命令が出されたというのに、私だけはそれがされなかった。とすれば、免職間違いなし、と思わざるを得ない。いよいよ明日が処分発令の日という30日の夜、私は、免職以外の可能性は全くないと踏んで抗議声明を書いた(打った)。免職にさせないために、この2ヶ月やれることはすべてやった、後悔はない、明日の処分発令を新たな闘いの出発にしよう、そう思いながら書いた。普段より早くに布団に入ったけれど、余り眠ることができずに朝を迎えた。
31日は7時30分、学校に到着。冷たい雨が降る中を、すでに何人もの友人たちが校門前に来てくれていた。荷物を職員室に置いた後、支援に来てくれた人たちとともに、都教委職員(役人)の登場を待った。
報道関係者も多数見え、取材に応じた。8時25分の始業に合わせて、私は2階の職員室に戻った。窓ガラス越しに、みんなの顔が見え、訴える声が聞こえてくる。出勤している職員は少なかったので、遠慮気味に窓を開けて、みんなの話しに耳を傾け、一人ひとりの顔を追った。
泣き声で途切れ途切れになりながらマイクで訴える友人、知人たち。2006年度在職した鶴川二中学区のお母さんたち、子どもたち。小学生のTさんの笑顔が私の目に飛び込んだ途端、私の中で強力なパワーが駆け巡った。
大分の益永さん、北海道、大阪、愛知、広島、福岡、長野からも、このために来てくださって感激。死刑台に上らされる私を見守り、校長や都教委に抗議しようと、駆けつけてくださったたくさんの方々(90人に近い、と聞かされた)に、支えられていることに感謝した。
部屋の中にいても寒いほど花冷えのする、おまけに雨が降りしきる中で、時間ばかりが経っていく。皆さん、予想もしない寒さに、大丈夫だろうか。都教委はここには来ないのか、どこかに私を呼び出すのだろうか。いろんなことが頭を去来する。
「都教委が来た!」と誰かが叫ぶ声に、下を見ると、一人は見覚えのある顔であった。都教委の役人だ。間違いない!と思った。時計を見ると針は、9時27分を指していた。
10時頃、鈴木副校長が私を呼びに来た。「根津さん、お伝えすることがあるので、校長室に来てください」。校長も来て、「10時30分までに来なければ、受領拒否と見なします」と居丈高に言う。同僚の一人が、「私たちにできること、何かある?」と聞いてくれた。「付き添ってもらえたら、とってもうれしい」と言うと、すぐに声を掛け合い、5(4?)人の同僚が同行してくれた。春季休業中なので、出勤していた人は少なかった。もう、これで十分心強い。うれしかった。
10時20分、校長室に同僚たちと行き、私が引き戸を開け、一歩中に入ると、即座に副校長がやってきて、「戸を閉めてください」と私に、「手で押さえて、戸を閉めさせません」とあちら側の人に言った。都教委の役人は、個人情報だから戸を閉めるよう、私に告げた。「この場で受け取ります。そこまで行かなくとも、ここは(あなたたちが指定した)校長室です。個人情報が知られて私には困ることはありません。いえ、皆に知ってほしいですから、そちらがここに来てください。」と私は言うが、彼らは、「受領拒否」に仕立て上げればいいだけのこと。
処分書を受け取るために、仕方なく、都教委の役人の近くまで進んだ。補佐役は、三田村管理主事、処分書を読み上げたのは、江藤職員課長。
(略)
外の皆に報せなくちゃ、と職員室に駆け上がり、私はまずは年休処理簿に1時間の年休申請をした。その間に同僚が外の皆に、笑顔でサインを送ってくれていた。年休申請を済ませた私は、窓から皆に向かって、叫んだ。「みんな聞いて!都教委は、私をクビにすることはできなかった!!」(と、言ったそうだ)。
そして、転げるように外に走った。歓声と泣き声で迎えてくれた皆と、抱き合い、喜び合った。
処分理由書には、卒業式での不起立のほかに、「OBJECTION HINOMARU KIMIGAYO」のロゴの入ったトレーナーについての、職務専念義務違反、職務命令違反が加えられていて、なおかつ、停職6ヶ月。とすると、昨年の君が代「不起立」での停職6ヶ月処分よりも薄まったとも言える。一段ごとに死刑台への階段を上らされる累積加重処分に、風穴を開けることになったのだ。
「君が代」処分自体が間違いであり、半年間も仕事を奪い、収入を途絶えさせる停職6ヶ月処分は、許しがたいことではあるけれど、連日集まり行動してくださった人たち、都教委にいろいろな形で声を寄せてくれた全国の、いや、世界各国の人たち、そういう人たちの力によって、勝ち取ることができたものだ。
また、トレーナー処分発動か?!という2月から3月末までにいくつもの新聞社がした報道は、どれも、「都教委よ、余りにひどいじゃないか」といった論調だった。そうしたことすべてが、都教委の判断に影響したことは明白だ。私一人がどんなに動いても、追放は食い止められなかっただろう。大勢の人が見える形で動いたことが、都教委の暴走にブレーキをかけたのだ。私たちみんなの勝利だ!
都教委は、不起立・処分発令対象者から私を分離して、学校で密かに処分発令をしてしまおうと考えたのだろうけれど、結果は彼らの目論見からすれば、裏目に出てしまった。
お昼のニュース(TBS・TV)が、学校前で喜び合う私たちの姿を放映し、翌日の毎日新聞は、そのシーンを伝える写真を大きく掲載した。東京新聞の報道も、私の声を大きく伝えていた。
午後は、不起立・被処分者20人の、私と退職者以外の人たちへの処分発令が水道橋の教職員センターで行われた。河原井純子さんは、私の昨年と同様に、停職6月。
早くその場に合流したかったけれど、年休の残が2時間しかなく、15時10分、その年休を使って、集会と記者会見を行っている会場に向かった。
《4.2都庁情宣ちらし・裏》


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