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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

いま必要なのは「働き方改革」ではなく「闘い方改革」だ

2019年02月21日 | こども危機
 ◆ 「働き方改革」の風向き (『個人情報保護条例を活かす会通信』から)
藤原晃(神奈川県立高校教員)


 学校で働いていれば「働き方改革」の「追い風」など吹いていないのが現実でしょう(微風ぐらいは感じる人も中にはいるかもしれないが)。
 いくら文科省日教組が一緒になって「業務改善の策定」「残業時間の上限規制だ」と言われたところで、正直シラケるばかりです。
 日教組の統計調査でも、昨年に比べて勤務時間が「変わらなかった」が50%むしろ増加した(「大幅に増加」と「やや増加」)が30%という結果にもそれは表れています。
 さらに文科省は夏季休業中(閑散期)の拘束時間を短くしそれ以外を長くするという「教員の変形労働時間制」や、「同じ仕事量をより短時間で終えられたら人事評価を高くする」などといった「働き方改革」案が提案されているらしいのです。これに対して、現場の声も組合の主張も「反対」です。それはいい。
 しかしわたしがここで強調したいのは「反対」の理由です。
 反対なら何でもいいではないかという態度にもよく出会います。しかし、その理由の如何によって戦略や実践に大きく影響し、本来の目的から遠ざかるばかりになるように、私には思えてならないので、あえてこだわりたいのです。
 商業紙や日教組の機関紙などを含めて「学校に閑散期など存在しない」、「学校になじまない」とか「生徒や子供たちと接する時間を増やすため」に長時間労働を減らせ、或いは「生身の人間を扱うのが教育だから評価などなじまない」という反対理由ばかりです。つまり、教育のため生徒のために長時間労働をなくせ、「正しい」人事評価をしろという理屈なのです。
 しかし「生徒や子どもたち」をダシに使わなければ、生活権すら主張出来ないなどということがあるはずがないではないですか。
 そもそも現行法に照らしても教師の「残業」自体が違法なのです。
 のべつ幕なしのぐあいで「処分」をちらつかぜながら「遵法精神」を殊更に強調するにもかかわらず、労働者保護法はいっこうに「遵法」されていないではありませんか。
 そんなことすら一向に解消できない現実の中で「追い風」への期待感など持つことができないのは当たり前です。
 「繁盛期」の残業代をケチり搾取率を上げたいというのが一貫した資本家根性の当然の結論であり、だから労基法を改正(87年)して導入されたのが「変形労働時間制」です。
 「勤務の効率化のために…」などと言われたりしますがそれは働かせる側、賃金を支払う側の「効率」であって決してわれわれ働く側、賃金を受け取る側、つまり労働者にとっての「効率」ではないことは明らかです。
 「学校だから」「教育だから」反対なのではなく、労働者として労働力を買い叩かれることに反対すべきです。
 学校でなければ、教育でなければ、小売販売ならば、建築現場なら変形時間制や人事評価は許容されてしかるべきなのでしょか?そんなはずはないはずです。
 そこに教育労働者があらゆる働く者との連帯を作りえる可能性があるはずです。
 労働者としての正義を忘れて、「生徒のために」とだけ念じながら働き続ければ、いつでも加重労働に追い込まれるための理由を自ら準備してしまう。それでは本当の意味での良き教育を、結果的には壊すことにもなります。
 こんなことを書きたくなったのも昨年のある組合の会議で、他分会からの報告を聞いたからでした。
 その分会は「管理職が早く帰って困る」と訴えていました。
 文化祭でみんな遅くまで残っているときや、特別指導絡みで(勤務時間を超えて)残ってほしいときでも早く帰ってしまうのだそうで、どう対応したら良いのかと組合の執行部に質問と要請をしていました。
 もちろんその校長が勤務時間の短縮に熱心であり自ら範を示そうとして…というのでないのは明らかです。もしそんな自覚的行動であるならば、管理職として学校全体が勤務時間内に仕事が終わるように何らかの動きを取るはずで、もしそうならこんな苦情が聞こえてくるはずもないからです。
 多分この管理職の頭には、冒頭の「同じ仕事量を短時間で…」という文部官僚の「働き方改革」提案か、それに類する話を管理職研修か何かで耳にして「お!これは良いそ…」と「忠実」に従っているだけだろうと予測しますが、あまり勝手な憶測を書くのもよくないでしょう。
 では管理職が率先して「働き方改革」をしてくれればいいのか。そんな期待するのもまた楽観的にすぎるでしょう。そもそもそんな力量を持たされてもいないのが管理職という存在です。
 また別の分会からの訴えでは、昨年8月に教科準備室の窓やドアの目隠しを外すことと合わせて、耐震対策を理由にロッカーを撤去するように言われたが、学期末の成績処理、調査書点検、会計監査、サーバーや共有パソコンのロック作業などが重なり、毎日遅くまで残業で酷く大変な思いをした。県教委に対して通達を出すにも時期を考えろと言ってほしいということでした。
 しかし、ロッカーの撤去は我々教員の仕事ではない(目隠しを外すは容易いですが)とまでは言えないまでも、少なくとも調査書や成績処理に比べればすぐにという業務では無いのだから、暇なときにやればいいはずです。
 勤務時間の厳守(延長する方向でも)を前提に仕事に優先順位を付ければいい話だと私には思えました。当該分代は「…言われたからにはやらねばならないから…」とも発言していました。
 いずれの事例も「上」から言われたらすぐに、必ず、字義通りに「やらねばならない」と思いこまされているようでした。
 そんな風に思いこまされている背景には労働力を時間で測って売るという労働者として基本的自覚の希薄があります。
 そんなことは今に始まったわけではありませんが、時を追うごとにその傾向が強まっている事例のように2分会の報告が私には聞こえました。
 学校労働者の現実がこのような状況である限りは、「上」からの「働き方改革」などインチキにならざるを得ないのは明らかでしょうし、もしそうでないなら「働き方改革」などにすがる必要もなくなるでしょう。
 いずれにせよ、職場を動かしているのは我々であり、本来我々は圧倒的多数者なのであるという労働者として本源的自覚が肝要なのです。
 それがない隙間に校長、教育委員会、文科省…などの「上」に期待し働きかける発想が入り込み、そんな闘いにならない「闘い方」ばかりになっていると思えてなりません。(最近ではとうとう平和運動勢力の中でも天皇という「上」に期待をかける論調まで聞かれます)。
 その労働者的自覚のためには上述したような学校の事例一つ一つに対処する考え方、動き方、訴え方、を議論し、それらを全県的に統括していくことが運動の目標とならなければなりません。そしてそれが労組の執行部の「本来業務」だし、それが可能な位置にもあるのです。
 したがっていまこそ、必要なのは「働き方改革」などではなく「闘い方改革」なのです。
 そんなことを正面切って主張できないところがわれわれの思想的敗因であって、その原因の一つには明らかに冒頭に書いたような「生徒のために」とだけ訴えてしまう意識、さらにさかのぼって教師聖職者論、さらにさかのぼって森有礼「生命ヲ擲ッテ教育ノタメニ尽力スルノ決意」と呼びかけて以来の呪縛から自らを解放する闘争の在り方を意識する必要を感じずにはいられません。
 「教師は労働者である」「教師は生活権を守る」「教師は団結する」という誇らしい宣言を『教師の倫理綱領』の一番初めに掲げるべきだと改めて思います。
『個人情報保護条例を活かす会通信 No.28』(2019.1.26)

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