◆ 「原爆投下は神の救い」という韓国の原爆観を
日本人が知らされた契機は1982年の教科書問題!
皆さま 高嶋伸欣です
「原爆投下は神の救い」という原爆観がアジアにはあるこに私が気づかされたのは、1982年の外交問題化した教科書検定による歴史歪曲問題の時でした。その経過をかいつまんで報告します。
韓国の「3・1事件」を「暴動」と、検定で書き換えさせていたことに対して韓国中から激しい怒りの声が上がり、新聞には様々な投書が載ります。
それら韓国の新聞記事を、「財団法人 神戸学生・青年センター」の朝鮮語講座上級クラスの受講生たちが分担して翻訳し、『教科書と朝鮮』(B5版、145p)にまとめ自費出版(1982年9月25日発行、800円)したと、全国紙で紹介されました。
早速購入して翻訳された投書を読み進むうちに直面したのが「神のたすけで米国が8月6日広島に原爆を落とし、その2日後長崎にも一発落とすに至った」という文です(添付資料参照→末尾に転載)。
当時の私にはない原爆観でしたので、強く印象に残りました。でもその時はキリスト者でもあるゆえの原爆観とも思えて、気になりながらそのままでした。
その二か月後、お茶の水女子大の大学祭で「教科書問題を考える集い」が企画され、私も話題提起を依頼されて参加しました(同大学と私の勤務校・筑波大学付属高校は道を挟んで隣でした)。
その時の3人目の話題提起・講演は日本在住のルポライター金賛汀氏でした。
同氏の講演後の質疑応答で、学生から「今年の教科書問題の時に、投書で韓国の人が『天の救けの原爆が落ちた』と言ったのには驚いたが、そういう考え方の人は多いのか」という質問がされました。「あ、あの資料集を読んでいる学生がいる!」と驚くとともに、金氏の回答に注目しました。
金氏は「原爆が落ちて良かったという考え方が多いんです」「日本に原爆が落ちてあたりまえではないか。我々の苦しみはあの原爆によって解かれたんだという考え方です」などと説明された(添付資料参照・略)。
主催した学生グループがこの時の質疑を含めたテープ起こしの記録を作成してくれたことで、こうした内容の確認ができたと同時に、少なくとも韓国・朝鮮ではこうした原爆観が広く継承されている、と認識されたという次第です。
以上 ご参考までに 転送・拡散自由です
《東亜日報82.8.10》
◆ 日帝時代、四万人虐殺計画を立て
今また奸計を弄するとは
太平洋戦争が終ろうとする頃、日帝は朝鮮民族指導者級の虐殺計画を立て、一九四五年八月十七日をはじめとして五次にわたり、自分たちが目星をつけておいた、いわゆる不逞鮮人とキリスト教牧師、長老の全員と、専門大学を出た人々、自分たちの下で役人をしている人々まで、四万名を虐殺対象に選んでおいたのである。
暴悪無道な日帝は、戦況が大きく不利になるや、世界を征服、君臨しようという妄想を反省するどころか、朝鮮人のために戦争に勝てないかのような飛躍的錯覚をし、敗戦になって米軍が韓国に上陸すれば、自分たちが行ってきたことがあるからには、朝鮮人は米軍側となって日本人を苦しめるだろうという判断のもとに、このようなとてつもない計画を立てたのである。
この計画は、一九四五年初めに「国勢調査」という名目で実施された資料を土台に、樹立されたものだ。
このような邪悪なたくらみを実行に移すため、万端の準備を整えていたところ、神のたすけで米国が八月六日広島に原爆を落とし、その二日後長崎にも一発落とすに至った。
これで強情な日本の軍閥たちも非常に驚き、次は自分たちが神と崇める天皇がいる東京が火の海となることは間違いないと判断し、四五年八月十五日正午に天皇は、朝鮮民族の解放を含む連合軍の提示した降服条件を無条件で放送することにより、朝鮮は解放となり、我々の民族は奪われていた祖国をとりもどすに至った。
私は、その時四十六歳で、民族主義の首級要視察名簿にのせられていた関係で、第一次虐殺対象として八月十七日、奴らが予定していた場所である金泉処刑場にひっぱられ、殺されるところだった。
キリスト教長老であり「新幹会」と「朝鮮物産奨励会」の発起人であり金泉支会長であり、「ハングル研究会」(ハングル学会の前身)の金泉支会長であったが、三・一運動に加担したという理由で、第一番目の粛清対象になっていたのだ。
ふり返って考えてみると、八・一五のその日、民族解放が達成されていなかったら、その二日後の八月十七日から始まり、三ケ月のうちに四万名に近い民族の指導者級が、この地からみんな消え去ったであろうし、そうなっておれば、指導者のいない民衆は烏合の衆となり、国が解放されてもどこかの国の信託統治を長く受けるしかないだろうと考えただけで、身の毛がよだつ。
殺人犯やその他の凶悪犯の場合、実行された犯罪に対して処罰されるだけでなく、犯行を謀議したり準備する行為に対しても、処罰するのが万国共通の法だ。
こうした意味から、日帝が敗戦を予想し、我が民族に加えようとした大虐殺未遂行為は、再び処罰と審判を受けて当然であるのに、天下が周知の厳然たる侵略事件と、数々の残虐事実を後悔するどころか、糊塗、隠蔽しようという奸計から、自分たちの後世を教育する教科書を歪曲、捏造しようとすることは、不当千万なことだといえよう。(堀内稔訳)
『教科書検定と朝鮮』
編集・発行財団法人神戸学生・青年センター出版部
(1982年10月25日第2刷)
日本人が知らされた契機は1982年の教科書問題!
皆さま 高嶋伸欣です
「原爆投下は神の救い」という原爆観がアジアにはあるこに私が気づかされたのは、1982年の外交問題化した教科書検定による歴史歪曲問題の時でした。その経過をかいつまんで報告します。
韓国の「3・1事件」を「暴動」と、検定で書き換えさせていたことに対して韓国中から激しい怒りの声が上がり、新聞には様々な投書が載ります。
それら韓国の新聞記事を、「財団法人 神戸学生・青年センター」の朝鮮語講座上級クラスの受講生たちが分担して翻訳し、『教科書と朝鮮』(B5版、145p)にまとめ自費出版(1982年9月25日発行、800円)したと、全国紙で紹介されました。
早速購入して翻訳された投書を読み進むうちに直面したのが「神のたすけで米国が8月6日広島に原爆を落とし、その2日後長崎にも一発落とすに至った」という文です(添付資料参照→末尾に転載)。
当時の私にはない原爆観でしたので、強く印象に残りました。でもその時はキリスト者でもあるゆえの原爆観とも思えて、気になりながらそのままでした。
その二か月後、お茶の水女子大の大学祭で「教科書問題を考える集い」が企画され、私も話題提起を依頼されて参加しました(同大学と私の勤務校・筑波大学付属高校は道を挟んで隣でした)。
その時の3人目の話題提起・講演は日本在住のルポライター金賛汀氏でした。
同氏の講演後の質疑応答で、学生から「今年の教科書問題の時に、投書で韓国の人が『天の救けの原爆が落ちた』と言ったのには驚いたが、そういう考え方の人は多いのか」という質問がされました。「あ、あの資料集を読んでいる学生がいる!」と驚くとともに、金氏の回答に注目しました。
金氏は「原爆が落ちて良かったという考え方が多いんです」「日本に原爆が落ちてあたりまえではないか。我々の苦しみはあの原爆によって解かれたんだという考え方です」などと説明された(添付資料参照・略)。
主催した学生グループがこの時の質疑を含めたテープ起こしの記録を作成してくれたことで、こうした内容の確認ができたと同時に、少なくとも韓国・朝鮮ではこうした原爆観が広く継承されている、と認識されたという次第です。
以上 ご参考までに 転送・拡散自由です
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《東亜日報82.8.10》
◆ 日帝時代、四万人虐殺計画を立て
今また奸計を弄するとは
セウナン教会名誉長老・ソウル麻浦区 沈 文
太平洋戦争が終ろうとする頃、日帝は朝鮮民族指導者級の虐殺計画を立て、一九四五年八月十七日をはじめとして五次にわたり、自分たちが目星をつけておいた、いわゆる不逞鮮人とキリスト教牧師、長老の全員と、専門大学を出た人々、自分たちの下で役人をしている人々まで、四万名を虐殺対象に選んでおいたのである。
暴悪無道な日帝は、戦況が大きく不利になるや、世界を征服、君臨しようという妄想を反省するどころか、朝鮮人のために戦争に勝てないかのような飛躍的錯覚をし、敗戦になって米軍が韓国に上陸すれば、自分たちが行ってきたことがあるからには、朝鮮人は米軍側となって日本人を苦しめるだろうという判断のもとに、このようなとてつもない計画を立てたのである。
この計画は、一九四五年初めに「国勢調査」という名目で実施された資料を土台に、樹立されたものだ。
このような邪悪なたくらみを実行に移すため、万端の準備を整えていたところ、神のたすけで米国が八月六日広島に原爆を落とし、その二日後長崎にも一発落とすに至った。
これで強情な日本の軍閥たちも非常に驚き、次は自分たちが神と崇める天皇がいる東京が火の海となることは間違いないと判断し、四五年八月十五日正午に天皇は、朝鮮民族の解放を含む連合軍の提示した降服条件を無条件で放送することにより、朝鮮は解放となり、我々の民族は奪われていた祖国をとりもどすに至った。
私は、その時四十六歳で、民族主義の首級要視察名簿にのせられていた関係で、第一次虐殺対象として八月十七日、奴らが予定していた場所である金泉処刑場にひっぱられ、殺されるところだった。
キリスト教長老であり「新幹会」と「朝鮮物産奨励会」の発起人であり金泉支会長であり、「ハングル研究会」(ハングル学会の前身)の金泉支会長であったが、三・一運動に加担したという理由で、第一番目の粛清対象になっていたのだ。
ふり返って考えてみると、八・一五のその日、民族解放が達成されていなかったら、その二日後の八月十七日から始まり、三ケ月のうちに四万名に近い民族の指導者級が、この地からみんな消え去ったであろうし、そうなっておれば、指導者のいない民衆は烏合の衆となり、国が解放されてもどこかの国の信託統治を長く受けるしかないだろうと考えただけで、身の毛がよだつ。
殺人犯やその他の凶悪犯の場合、実行された犯罪に対して処罰されるだけでなく、犯行を謀議したり準備する行為に対しても、処罰するのが万国共通の法だ。
こうした意味から、日帝が敗戦を予想し、我が民族に加えようとした大虐殺未遂行為は、再び処罰と審判を受けて当然であるのに、天下が周知の厳然たる侵略事件と、数々の残虐事実を後悔するどころか、糊塗、隠蔽しようという奸計から、自分たちの後世を教育する教科書を歪曲、捏造しようとすることは、不当千万なことだといえよう。(堀内稔訳)
『教科書検定と朝鮮』
編集・発行財団法人神戸学生・青年センター出版部
(1982年10月25日第2刷)
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