パワー・トゥ・ザ・ピープル!!アーカイブ

東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

ある種の悲鳴~生徒の作文

2005年07月26日 | 人権
 私は富野で産まれ富野で育ちそのまま富野小学校へ通った。そしてなんのこともない普通の日に臨時学級会が開かれた。クラスでも明るい数人の彼女たちによって。
 『この前、町内会で君が代について話し合いました。この歌は天皇の時代がいつまでも続くようにという意味があるそうです。でも今日本は民主主義だからこれはおかしいと思うのです。別に私たちはみんなに歌うなとか強制するつもりで言っているのではなくて、歌の意味も何も知らないでただ歌うってのはおかしいから、もし知らない人がいるのなら知っていて欲しいと思って今日の学級会を開きました。』
 私は君が代の意味など考えたこともなかったので多少の驚きは感じたが、おかしいという彼女たちの主張に共感を覚え、歌うのも歌わないのも個人の自由だというのを聞き、おかしいと思うことは歌いたくないなと心に留めていた。小学校5年生の時であった。
 小学校6年生の夏、この富野小学校に別れを告げ徳力小学校へ転校した。大切な物は失ってからこそわかるというように、私は転校をきっかけに富野小学校の素晴らしさに気づいた。
 友達関係や職員室の空気、校長先生や教頭先生が朝、校門に立っていないこと、すべてに驚きを感じ、今までの自分の学校に対する常識の差にがっかりしつつも、平穏な日々を過ごした。
 ある日、何かのきっかけで担任の先生に富野小学校で学んだ君が代について話したとき、先生は大変驚かれていた。私は先生の反応にびっくりし、もう1度今度は自分で君が代について調べてみた。辞書を引いたり、大人の人に聞いたり、でも結局天皇陛下の世がいつまでも…に辿り着いた。だからもう迷わなかった。おかしいと思うなら歌わないでおこうと思った。
 卒業式も間近に迫り全体練習が始まった。そしてついに君が代の練習の時、私は立たなかった。私のクラスの人も私が君が代のことを話したこともあり、10人くらいは座っていた。教頭先生は顔をしかめて「立ちなさい」と言われた。でも立たなかった。そのクラスで担任の先生が私たちに知らせた。
 「君が代の時に立たない人は、私が家庭訪問をすることになりました。どうでもいいと私は思うけど、校長先生と教頭先生からの命令だからね。」
 次の日、座っていたのは私だけだった。私はなんと言われようと座ろうと思っていた。教頭先生は全身を震わすように顔をしかめ、私の席までわざわざ来てくださった。「立ちなさい!」
 静まりかえった体育館に怒声が響きまわった。6年生全員の視線を体中に感じた。私は無言で教頭先生をにらみ返した。
 私はもう学校へ行きたくなかった。何がいけないのだろう?自分の意志を貫きたかったのがあれ程悪いことなのか。みんなの前であんなにも恥ずかしい思いをするほど、私は間違ったことをしているのか。
 教頭先生には教頭先生のお考えがあるだろう。私にも私の考えがある。あそこまでされても私は立たなかった。小6の子供がここまでするのは理由があるからでしょ?
 でも教頭先生は1度たりとも私の意見を聞こうとしなかった。ただ「立て!」と言った。どうしてだろう。納得できるはずがないだろうに。
 私はみんなの前で怒鳴られて恥ずかしかった。みんなの視線が嫌だった。怖かった悲しかった悔しかった。
 でも自分の意志を行動を恥ずかしいと思わなかった。貫きたかった。
 天皇に恨みがあるわけでもない。おかしいと思うからで、ここまでする自分が不思議にも思えた。
   (続いて。最後のところでこの子どもはこう書いています。)
 私は先生になりたかった。でも、徳力へ行きそう思わなくなった。中学に行っても、あれがあの○○(この人の名前)かと見られ続けた。中学の思い出など数えるほどもないと思う。
 相撲、オリンピックで国歌が流れる度にあの体育館での出来事が蘇る。最後に、もう誰も繰り返してほしくない。


(都高教第三支部04年夏期合宿での田中伸尚氏の記念講演から引用。作文が書かれたのは1991年。少し長いですが、14年前の北九州市の一つの小学校の出来事が全国を覆ってきた事態が読み取れます。)

以下、田中氏のコメント

 この作文、ある種の悲鳴ですね。日の丸・君が代が彼女の夢も奪ってしまうわけです。ここからいくつかの問題点を指摘できると思う。
 一つはですね、教員というものが子供にとって権力者として立ち現れてるということです。これは非常に大きい問題だと私は思います。それは教頭はもちろんそうですが、担任の先生が彼女を守ろうとして立ち現れていない。一人で君が代を歌わないで座り続ける彼女を守ろうとした教員ではないということです。家庭訪問をして、なんとかして「立って下さいよ、立つだけでいいんですから」と言ったかもしれない。どういう風に言ったかはわからないけども、上司の命令でですね、教頭先生と校長先生からの命令だからねということで彼か彼女かわかりませんが各家庭を回るわけです。それはもう彼女にとっては確実にそれは権力者として立ち現れてると言うことです。
 もっと大げさに言ってしまえば戦前戦中の教員と決して変わらない。子どもの前に立ちふさがらなかった教員、こんな教員は私はゴロゴロいると思う。それは組合と実は関係がないところだというふうに思います。子どもの宗教とか思想とか良心というものを侵害して、夢まで奪ってしまう。それは学校全体でもあるかもしれないけども、それを支える或いは荷担する教員として立ち現れている。彼女は今の日の丸君が代ラッシュの報道をどう見ているか、オリンピックの報道をどう見ているでしょう。
 もう1つの問題は、彼女のまわりの子どもたちの視線です。もう一度そこの部分を読み返しますと、「静まりかえった体育館に怒声が響きまわった。」つまりこれは教頭の声ですね、「立ちなさい」と。「6年生全員の視線を体中で感じた。」これです。つまり彼女の周りは全て彼女を批判する視線であるわけです。大人になればそれは「非国民」に対する目です。それは中学校に行っても彼女について回ってしまう。そうしますと、そのまわりの子どもたちは結局「少国民」、昔で言う「少国民化」されてしまったわけです。日の丸・君が代の強制というのは、そういう「少国民化」、というものさえ作り出していき、その道具、装置になってると言えるということを、すでに91年の状況のこの作文が非常に鮮やかに浮かび上がらせてると思います。
 この話と今年6月8日に東京都の横山教育長は都議会の答弁で、児童生徒への君が代強制指導の職務命令というものを予告しました。これは結局、東京都のほんとの狙いというのは、常識的に考えれば羅針盤を失ってると思いますけれど、実は少国民化するという羅針盤を持って臨んでいるのです。間違いなく少国民化、そういう国民を子どもたちを通して作ろうとしている狙いがハッキリしてると思います。
 その時にですね、教員というもの、現場の教員というものは加害者として立ち現れるという、立ち現れるかどうかということが問われることになる。あるいは、かつて、戦争をするときの「少国民」作りに先生たちは、加担していったわけですが、今それを防ぎきれるかどうかの瀬戸際に立たされていると思います。「教え子を再び戦場に送るな」という有名なスローガンが50年代に作られてますが、それがその踏みとどまれるかどうかの最後の闘いがそこにあると思います。実態としては全く役立っていなくてもですよ。自分の身を守るためとか、家のローンがあるとか、様々な理由が用意されて先生たちは子どもたちを戦場に送ってしまうかもしれない。でも、子どもたちにとってはそんな理由関係ないんですね。自分の信じてる先生がどういう対応をしてくるかってことだけが問題なわけですね。その時の、処分覚悟で生徒を守れるかってことですよ。確実に処分は…それは職命である以上処分は覚悟しなきゃいけないわけですね。そういう瀬戸際が確実にやってくる。結論は私が出すことではなくてみなさんが出すことになるわけです。


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