《新採教員 不当解雇撤回をめざす会 会報から》
◆日本の教育破壊の元凶の学校現場での爆発現象だ
〈先生が先生を育て上げられない〉
教師が教師を育てられない集団にされてしまった。
新任教師を指導できないのを、新任個人の力不足、無能と決めつけて首にするという、およそ学校現場では考えられない世界になってしまっている。自殺者が出ても、全て本人の力不足、努力不足でやむ得ないと葬り去れてしまう。
朝日新聞7月31日号で、「新任先生が担任急増」という記事で、経験の浅い先生が担任になっていることが多くなっていると報じているが、何をかいわんやである。
こんなことが今になって話題となる、世間が一時代遅れている。特にマスコミの責任は大きい。経験豊富な年配教師をどんどん辞めさせて、十分教育されていない新人をどんどん採用してきた教育行政の失政であることをご存知ない。
一昔前、恥ずかしながら小生も着任早々担任を仰せつかった(小学校)。そして何とかこともなく正規教員になれた。それは、私個人の力だけでなく、職員全体の盛り立ててやろという雰囲気のようなものがあった気がする。
そういう教師としての暖かさのようなものが、今の教育現場でなくなってしまったのではないのか。
〈あなたが指導力がないのでは〉
今回提訴した原告の方の職場の雰囲気はまさに地獄だ。
「いくら指導しても変わらない、指導力、能力がない」。
経験者でも満足に出来ないような仕事を押しつけて「事務能力もない、辞めた方が良いんじゃないの、給料ドロポウよ」、そういう言葉を浴びせてきた。
教育者だったら口に出来ない言葉をぶっつけてきている。
おそらくこのような方々は、授業についてこられない生徒たちに、能力がない、と切り捨てて平然といるではないか。いやむしろ、得意になっているのではないか。
これも彼ら自身が望んでやるようになったのではなく、そうせざるをえない状況に置かれたからに他ならない。
学校の問題を全て教師のせいにする現在の教育行政が生み出したものなのだ。そう断言できる例をいくつか挙げたい。
〈まず教育委員会つぶし〉
教育委員会が悪いというが、その教育委員会を無きものにしようとしてきたのが、安倍を先頭とする自民党政権だ。
つくられた当初は、行政とは離れた独立の機関だった。委員は市民の選挙で選ばれるものだった。
それを行政の任命制にして、行政の下部機関にしてしまった。教育委員がいくら頑張っても、文句ばかり言われて注文したことも聞いてもらえず、計画したことも金を出してもらえない。
そんな中で何が出来る。人事権はあっても、行政の意向には逆らえない。教育を真剣に考えることが出来ないようにされたのだ。教師としての誇りを失わせた。
〈指導要領での押しつけ、多忙化〉
教育にあまり関わりの無いような方々が作成した指導要領。教師が教えるべきものとして教育内容をまとめたものだ。
終戦直後、憲法、教育基本法が制定された際参考に「試案」として出されたものだ。総司令部の命で作られた。
上記のものなどは「押しつけだ」「変える」と言いながら、これだけは、使用を続けている。
「試案」だったものを、法律に準じるものとして、法律以上の強制力を持たせている。公務員だったら守る義務があると。その指導要領に政権にとって都合のいいものを詰め込んできた。
事故があると安全教育を、病気がはやると保険教育を、災害があると防災教育を、いじめ、暴力、殺人事件があると道徳教育をと。
日の丸・君が代の強制も、ここから出発させた。何でも盛り込めぱやれるものとして。
〈教育を国民のものから自民党のものに〉
アメリカ等、いわゆる先進国では、教育内容を国で決めている国は少ない。
その「試案」は、ミニマムエッセンシャルとして、最低これだけはというものだった。それを、これだけ全部教えなくてはならないものにした。大枠ではなく、事細かいことまで、いちいち規定している。教師の創造性は否定されてしまうことが多くなっている。
アメリカなどでは、教科書会社が教科書を自由に作れるし、学校独自で採用できるのに、日本では、検定制度でもって、行政側の主張を取り入れざるをえないようにしていて、採用も国の意向に従うしかないようになっている。
〈英語・道徳の教科化で激務に〉
中身が満タンなのに、さらに英語と道徳を教科化して教えろという。
英語に関して言えば、中学でも満足に教えられていない位なのに、教師になる前にろくな教育を受けていない小学校教師に英語の授業をヤレというのだ。
現行の教科書を消化するのにやっとの教師にこれ以上のことができるわけがないのではないか。本当の現場を見ていない。見えないのだ。
道徳になるともっとひどい。
みんな何を教えているのか悩んでいる。人としてこうあるべきという徳目を並べてあって、生徒にしつけようというのだが、日の丸を掲げ、君が代を歌わせることが愛国心教育だ。
公のためには、自分を捨てて、尽くすのが、公共心だ。ええっ?と思うようなものが並べてある。
「嘘をつかない」。安倍さんに教育したいくらいだ。
戦前の修身を復活したいそうだが、昔の中学校の入学試験には、歴代の天皇の名前を暗唱、教育勅語を暗唱するという問題が定番だった。たとえ言えたとして、それが何にになるのだろうか。とても生徒に説得できるものではない。
一昨年、教師が多忙だ、という声の強さに押されて、文科省が初めて勤務時間の調査をした。
その結果、中学の部活が特に時間と労力を費やしているという報告があった。
部活を始めたのは、教師や学校、生徒たちからだとしている。文科省が始めさせたのではない、と言いたいようだ。
その証拠に部活手当が出るようになったのは、かなり今に近いことからもわかる。
多忙にしているのは教師達なのだ、としている気がする。教師たちが自分達でしていることで、文科省がさせているのではないと言いたいようだ。
一事が万事この構造なのだ。勝手に決めてて、できないのはお前たちが能力がないからだと。
〈ひどい勤務実態〉
教師の勤務実態をみてみよう。
もし見ているなら、こんな押しつけは絶対出来ない。勤務時間。労基法で週40時間と決めてある。一日8時間で×5日だ。
授業をだいたい25時間前後持っているから、40-25=15時間。そこから、給食指導、委員会活動、クラブ活動(小学校)、職員会議、学年会、全体研修等を引いたら、0以下になる。
かって文部省(現文科省)は、1時間の授業に対して1時間の準備がいると言っていた。
準備=教材研究は教師にとって絶対必要なものだ。その教材研究をやる時間がない。
結局、遅くまで残ってやるか、家に持って帰ってやるしかない。それが出来ない人はどうしたらいいのか。過労死しろと言ってるようなものだ。
指導要領を、教えきることなどできるわけがない。教科書を全部触れないと教えたということにならないので、教師は生徒が出来るようになった、ならないに関係なく進めなくてはならない。
その結果、753といわれるように、高校、中学、小学で修得できない子がいることを文科省も認めている。
出来ない、やれない子は、捨てていけ、そんな者たちをかまっていたら、出来る子が遅れてしまう、と親も子どもも言う。
その結果は言うまでもない。授業を受けようとしない子、教師に反抗する子、机に座っていられない子、暴力を振るう子、学校へ来たがらない子が激増した。指導要領の過重な負担が大きな原因であることは間違いない。
内容を増やしたいのなら、それに見合う金を出すべきなのに、その逆なのだ。行政改革と称して学校予算も削ってきている。教育予算は先進国で最下位に近いというのだから呆れる。
〈臨時・非正規の激増〉
教師が多忙だと言うことで、自治体が賃金を払って、非正規、臨時教員を置くようになった。
だが、それらの方々が不満に満ちていることは、想像に難くない。
正規の人と同じ仕事をしているのに給料は安い。保険のような身分保障もない。ボーナスも出ない。
3ヶ月、ないし6ヶ月で更新しなくてはならない。何年も人以上にやっていて何故正規職員になれないのか。
すべて、金をかけないで効果的な教育をやれという国の教育方針の帰結に過ぎないのだ。
教育を金儲けの道具にしようとしてきた歴代政権の膿にほかならない。
今回の判決も、その路線に沿ったものと言わざるを得ない。
裁判官も行政の下部機関か。
『新採教員 不当解雇撤回をめざす会 会報 第10号』(2016年8月25日)
◆日本の教育破壊の元凶の学校現場での爆発現象だ
井口良夫(元教員)
〈先生が先生を育て上げられない〉
教師が教師を育てられない集団にされてしまった。
新任教師を指導できないのを、新任個人の力不足、無能と決めつけて首にするという、およそ学校現場では考えられない世界になってしまっている。自殺者が出ても、全て本人の力不足、努力不足でやむ得ないと葬り去れてしまう。
朝日新聞7月31日号で、「新任先生が担任急増」という記事で、経験の浅い先生が担任になっていることが多くなっていると報じているが、何をかいわんやである。
こんなことが今になって話題となる、世間が一時代遅れている。特にマスコミの責任は大きい。経験豊富な年配教師をどんどん辞めさせて、十分教育されていない新人をどんどん採用してきた教育行政の失政であることをご存知ない。
一昔前、恥ずかしながら小生も着任早々担任を仰せつかった(小学校)。そして何とかこともなく正規教員になれた。それは、私個人の力だけでなく、職員全体の盛り立ててやろという雰囲気のようなものがあった気がする。
そういう教師としての暖かさのようなものが、今の教育現場でなくなってしまったのではないのか。
〈あなたが指導力がないのでは〉
今回提訴した原告の方の職場の雰囲気はまさに地獄だ。
「いくら指導しても変わらない、指導力、能力がない」。
経験者でも満足に出来ないような仕事を押しつけて「事務能力もない、辞めた方が良いんじゃないの、給料ドロポウよ」、そういう言葉を浴びせてきた。
教育者だったら口に出来ない言葉をぶっつけてきている。
おそらくこのような方々は、授業についてこられない生徒たちに、能力がない、と切り捨てて平然といるではないか。いやむしろ、得意になっているのではないか。
これも彼ら自身が望んでやるようになったのではなく、そうせざるをえない状況に置かれたからに他ならない。
学校の問題を全て教師のせいにする現在の教育行政が生み出したものなのだ。そう断言できる例をいくつか挙げたい。
〈まず教育委員会つぶし〉
教育委員会が悪いというが、その教育委員会を無きものにしようとしてきたのが、安倍を先頭とする自民党政権だ。
つくられた当初は、行政とは離れた独立の機関だった。委員は市民の選挙で選ばれるものだった。
それを行政の任命制にして、行政の下部機関にしてしまった。教育委員がいくら頑張っても、文句ばかり言われて注文したことも聞いてもらえず、計画したことも金を出してもらえない。
そんな中で何が出来る。人事権はあっても、行政の意向には逆らえない。教育を真剣に考えることが出来ないようにされたのだ。教師としての誇りを失わせた。
〈指導要領での押しつけ、多忙化〉
教育にあまり関わりの無いような方々が作成した指導要領。教師が教えるべきものとして教育内容をまとめたものだ。
終戦直後、憲法、教育基本法が制定された際参考に「試案」として出されたものだ。総司令部の命で作られた。
上記のものなどは「押しつけだ」「変える」と言いながら、これだけは、使用を続けている。
「試案」だったものを、法律に準じるものとして、法律以上の強制力を持たせている。公務員だったら守る義務があると。その指導要領に政権にとって都合のいいものを詰め込んできた。
事故があると安全教育を、病気がはやると保険教育を、災害があると防災教育を、いじめ、暴力、殺人事件があると道徳教育をと。
日の丸・君が代の強制も、ここから出発させた。何でも盛り込めぱやれるものとして。
〈教育を国民のものから自民党のものに〉
アメリカ等、いわゆる先進国では、教育内容を国で決めている国は少ない。
その「試案」は、ミニマムエッセンシャルとして、最低これだけはというものだった。それを、これだけ全部教えなくてはならないものにした。大枠ではなく、事細かいことまで、いちいち規定している。教師の創造性は否定されてしまうことが多くなっている。
アメリカなどでは、教科書会社が教科書を自由に作れるし、学校独自で採用できるのに、日本では、検定制度でもって、行政側の主張を取り入れざるをえないようにしていて、採用も国の意向に従うしかないようになっている。
〈英語・道徳の教科化で激務に〉
中身が満タンなのに、さらに英語と道徳を教科化して教えろという。
英語に関して言えば、中学でも満足に教えられていない位なのに、教師になる前にろくな教育を受けていない小学校教師に英語の授業をヤレというのだ。
現行の教科書を消化するのにやっとの教師にこれ以上のことができるわけがないのではないか。本当の現場を見ていない。見えないのだ。
道徳になるともっとひどい。
みんな何を教えているのか悩んでいる。人としてこうあるべきという徳目を並べてあって、生徒にしつけようというのだが、日の丸を掲げ、君が代を歌わせることが愛国心教育だ。
公のためには、自分を捨てて、尽くすのが、公共心だ。ええっ?と思うようなものが並べてある。
「嘘をつかない」。安倍さんに教育したいくらいだ。
戦前の修身を復活したいそうだが、昔の中学校の入学試験には、歴代の天皇の名前を暗唱、教育勅語を暗唱するという問題が定番だった。たとえ言えたとして、それが何にになるのだろうか。とても生徒に説得できるものではない。
一昨年、教師が多忙だ、という声の強さに押されて、文科省が初めて勤務時間の調査をした。
その結果、中学の部活が特に時間と労力を費やしているという報告があった。
部活を始めたのは、教師や学校、生徒たちからだとしている。文科省が始めさせたのではない、と言いたいようだ。
その証拠に部活手当が出るようになったのは、かなり今に近いことからもわかる。
多忙にしているのは教師達なのだ、としている気がする。教師たちが自分達でしていることで、文科省がさせているのではないと言いたいようだ。
一事が万事この構造なのだ。勝手に決めてて、できないのはお前たちが能力がないからだと。
〈ひどい勤務実態〉
教師の勤務実態をみてみよう。
もし見ているなら、こんな押しつけは絶対出来ない。勤務時間。労基法で週40時間と決めてある。一日8時間で×5日だ。
授業をだいたい25時間前後持っているから、40-25=15時間。そこから、給食指導、委員会活動、クラブ活動(小学校)、職員会議、学年会、全体研修等を引いたら、0以下になる。
かって文部省(現文科省)は、1時間の授業に対して1時間の準備がいると言っていた。
準備=教材研究は教師にとって絶対必要なものだ。その教材研究をやる時間がない。
結局、遅くまで残ってやるか、家に持って帰ってやるしかない。それが出来ない人はどうしたらいいのか。過労死しろと言ってるようなものだ。
指導要領を、教えきることなどできるわけがない。教科書を全部触れないと教えたということにならないので、教師は生徒が出来るようになった、ならないに関係なく進めなくてはならない。
その結果、753といわれるように、高校、中学、小学で修得できない子がいることを文科省も認めている。
出来ない、やれない子は、捨てていけ、そんな者たちをかまっていたら、出来る子が遅れてしまう、と親も子どもも言う。
その結果は言うまでもない。授業を受けようとしない子、教師に反抗する子、机に座っていられない子、暴力を振るう子、学校へ来たがらない子が激増した。指導要領の過重な負担が大きな原因であることは間違いない。
内容を増やしたいのなら、それに見合う金を出すべきなのに、その逆なのだ。行政改革と称して学校予算も削ってきている。教育予算は先進国で最下位に近いというのだから呆れる。
〈臨時・非正規の激増〉
教師が多忙だと言うことで、自治体が賃金を払って、非正規、臨時教員を置くようになった。
だが、それらの方々が不満に満ちていることは、想像に難くない。
正規の人と同じ仕事をしているのに給料は安い。保険のような身分保障もない。ボーナスも出ない。
3ヶ月、ないし6ヶ月で更新しなくてはならない。何年も人以上にやっていて何故正規職員になれないのか。
すべて、金をかけないで効果的な教育をやれという国の教育方針の帰結に過ぎないのだ。
教育を金儲けの道具にしようとしてきた歴代政権の膿にほかならない。
今回の判決も、その路線に沿ったものと言わざるを得ない。
裁判官も行政の下部機関か。
『新採教員 不当解雇撤回をめざす会 会報 第10号』(2016年8月25日)
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