▼ 60周年をむかえる教員のレッド・パージ~都立高校の場合(1)
▼ はじめに
1950年2月11日、朝日新聞は、(「赤い教員」らへ退職勧告!という見出しで報道しました。都で246名、うち高校は16校、24名となっています。全国的には、1919年10月から50年3月まで、高知を除くすべての都道府県で強行され、およそ1113名がパージされました。(平田哲男『レッド・パージの史的究明』から)
つづけて朝日新聞から引用します。宇佐美教育長談として「退職される人々には気の毒だが、都の教育刷新の立場から道を他に転じてもらいたいのだ。これで刷新のすべてが終わったわけではない」とし、これに対し、都教組伊藤委員長は「不当な整理が相当多いと思うので、合法的な範囲であくまで闘う・・・」と語っています。
さて都立高校に目を向けますと、駒場高校だけで5名(全1、定4で、ともに女性)も追放されました。なぜ駒場でこんなにも?と問いたくなりますし、この一文はこれに少しでも答えようとして、したためたものです。
その前に、レッド・パージそのものが、駒場をはじめ都立高校ではすっかり忘れられていたことに触れなければなりません。
私が都立高校で教えるようになった1961年以来職場で聞いた記憶はありません。社会科教師でしたからレッド・パージについて歴史の知識はもっていましたが、1996年から6年、駒場で教壇に立ちました(嘱託で5年、非常勤講師として1年)が、あるとき、あることがきっかけでこの事実を知って愕然としました。本文に入る前に、私がレッド・バージをどのようにみているか、どうして愕然としたのか、あえて取り上げる今日的な意味はどこにあるか、書いておきます。
(1)ヨーロッハで始まった冷戦体制は、中国の内戦で共産党側がはっきりと優位に立つとともに、東アジアにも及んできました。アメリカは日本を反共の拠点にしようと画策し始めました。その一環としての「レッド・ハージ」だし、日本政府は仕方なく従っただけでなく、便乗して「パージ」を強行しました。
(2)レッド・ハージは、「レッド」と一方的に認定した人々を解雇することを目的に強行したものですから、日本国憲法の根幹を一挙に踏みにじる重大事件であり、戦後史上最大の政治・思想弾圧です。最大というのは、その規模の大きさです。平田氏によれば27000人を超える人々が解雇されています。
(3)私が愕然としたのは、自分の勤め先が都立高校での攻撃の中心だったことと、駒場高校が都教委にねらわれるあるはっきりした理由を知ったからです(後述)。
(4)10・23通達が出されてからの都立高校には、思想・良心の自由をはじめ、日本国憲法がもはや存在しないかのような事態になりましたが、市民・教師らが一体となってこれに敢然として立ち向かっています。この闘いを大きく前進させるためにもレッド・ハージを想起し、その教訓を汲み取る作業が必要だと考えています。
▼ 教員のレッド・バージのメカニズム
レッドパージは、1949年に国家および地方公務員、国鉄での「人員整理」から始まって、教員におよびました。ついで朝鮮戦争(1950年6月)とともに、マッカーサー書簡にもとづいて、マスコミ・映画界や民間企業で強行されました。
教員のレッド・ハージが1949年10月から一斉にはじまったのは、9月初旬に文部省がGHQの指示の下、全国教育長会議を開いて方針を決めたからです。一定の「不適格基準」にもとづいて、「教職不適格者」と認定して、「辞職勧告」をだして、追放するという方式をとりました。
東京都では、「刷新基準要綱」を1950年1月20日の教育委員会で審議しました。陳情におしかけた教員・父母を締め出して行おうとしましたが、教育委員の1人堀江邑一氏(当時は公選制で共産党から立候補して当選)の強い要求によって、会議室に入ることが出来ました。この時先生・父母は基準要綱がいかにでたらめであるかを、実例をあげて追究しましたが、1対5で強行採決してしまいました(1は堀江氏)。こうして首切りのロ実がつくられました。以下に「刷新基準要綱」を載せます。
1.勤務成績不良のもの
1職務を怠るもの 2欠勤、遅刻、早退のおおいもの 3無断で勤務を離れるもの
2.職務能力の低いもの
1教授能力の低いもの 2教育への熱意を欠くもの 3教員として信用、品位を失い、成績をあげることのできないもの
3.学校経営上非協力のもの
1法令或は指揮監督者の正当な命令を守らないもの 2学校の教育方針又は民主的運営に協力を欠くもの 3学校を拠点として、又は教員の身分を利用して、一党一派に偏した、政治活動をする傾向が強く、教育上支障のあるもの
▼ 駒場高校~職場をあげての運動に対する報復
校長からの通告を受けたときのやりとりから、「刷新基準要綱」に従ってといいながら、実は都教委がある事件を問題視していることが分かりました。通告を受けた1人横山靖子(当時は長谷川)さんは、その日の夜、つぎのような文章を書いて、担任の生徒を通じて父母に配布しました。以下に全文載せますが、校長、つまり都教委は4年近く前の「食糧メーデー」への参加を問題にしています。
先日来いろいろ御心配をいただいておりましたが、本日(13日)いよいよ校長先生から辞職勧告をおうけいたしました。理由は食糧メーデー前後からの学校内に於いての行動を綜合的に判定した結果だというのでございました。
校長先生は、自分は教育長のいうとおりに取り次ぐだけだ。今け自分の意見を発表する段階ではないと責任を回避されています。
しかし食糧メーデーの参加はあの当時校舎もなくて1年間、勉強らしい勉強もできずにおりました時で、1日も早く正規の授業のできる校舎を得たいと切に念願した全職員できめた事でございましたそ。れを私共に責任を負わせて退職の理由にするとは余りに不合理だと存じます。
第三にまいりまして6年間、微力ながらも皆様のお子様方と御一緒に勉学に遊びにつとめてまいりました。若いお子様方が溌刺とした自主的な活動を過ごして、それぞれのカを伸ばしていらっしゃる事を念願して止まなかった6年間は、夢のようでございました。「2年生はしっかりしている」と他の先生方からおほめにあずかる度に1年生の時から受持っておりました私、何かしら嬉しく誇らしく感じてまいりました。
このように思い出の多い第三をしかも御一緒に生活してきた生徒の方々の御卒業を翌春に控えて、只今このような、あいまいな理由で退職を迫られますことは、どうしても納得できないことでございます。これでは全く一方的に判定を下して暴力的に人事問題を処理することになるではありませんか。自主的な活動をのばし、物事をうのみにして盲目的に従わず正しく判断することを教えることがいけないのでしたら、生徒は今後上の人のいわれる事を善悪をも確かあず絶対に従うようになりますでしょう。こうして私共は、かつて、あのおそろしい戦争にかりたてられたのではなかったでしょうか。
情勢を科学的に検討できなかった無知と権力には絶対追随しなければならないと考えた奴隷根性が私にもありました。この経験を二度と繰返したくない、若い皆様のお子様には、はっきりした科学的態度を持っていただきたい。この念願だけで今日まで微力ながらやってまいりました。
国民を再び奴隷にし、日本の国を戦争の危険におとし入れようとするカが強くなってまいりました今、教員の今回の整理は、植民地化の進度を進めるものとして重大だと存じます。
日本の国を愛され、子供さん方の成長を期待なさる父兄の皆様方、教育を守り平和を守るために、このような不当な首切りに反対して闘います事にどうぞ御協力くださいませ。
皆様方の御支持と御鞭撻とを感謝いたしつつ。
1950年2月13日
2年8ホーム主任 長谷川靖子
父兄の皆様へ
註:当時は担任を主任とよんでいました。第三は駒場高校のことです。
私が駒場にきて4年目、同窓会ニュースを見ていましたら、「食糧メーデー」にふれた記事がありました。「食糧メーデー」などが同窓会と何の関係があるのかと首を傾けながら読みました。
この日(1946年5月19日一日曜日一)が多くの先生だけでなく、数十人もの生徒も一緒に参加した重大な事件だったことが分かりました。さっそく校舎の一角にある同窓会室に行って聞いてみました。
すると役員は、そのことなら当時(旧制第三高女の)教員だった御前茂樹先生に、といわれました。数日後御前先生が担任をしていた同窓会の役員と会いました。何人もの教え子が未だに深いつき合いをされていました。彼は当時分会のリーダーだったようでした。でも私が「会いたい」と申し出たときには、もうお体が親族以外には会えない状況でした。また、食糧メーデーに参加した生徒にも会いたいとも言いました。尽力して下さいましたが、うまくいきませんでした。名前の分かったもう一人の分会リーダー、乾須美さんもお会いできるような状況ではありませんでした。
その後、同窓会の方との話の中から「レッド・パージ」の事実とその1人横山靖子さんがお元気なことを知りました。しばらくして、『新婦人新聞』の「聞き書き母の歴史」欄に横山靖子さんが連載を始めました(2001年4月5日~7月26日まで16回)。
さっそく連絡をとりました。お会いしたのは、2002年4月川崎の自宅で、4人の教え子も一緒でした。当時の話、パージ後の生活・活動など3時間も聞くことが出来ましたし、教え子が50年以上も大切にしまっていた前記の「ご挨拶」(ガリ版刷り)も読むことができ、横山さんの理不尽なパージに対するすさまじい怒りを私もひしひしと感じました。その時横山さんからお借りした資料もあわせておよその事実をつかみました。
(続)
『私にとっての戦後ーそして都高教運動』(都高教退職者会 2010/5/15発行)より
塚田 勲
▼ はじめに
1950年2月11日、朝日新聞は、(「赤い教員」らへ退職勧告!という見出しで報道しました。都で246名、うち高校は16校、24名となっています。全国的には、1919年10月から50年3月まで、高知を除くすべての都道府県で強行され、およそ1113名がパージされました。(平田哲男『レッド・パージの史的究明』から)
つづけて朝日新聞から引用します。宇佐美教育長談として「退職される人々には気の毒だが、都の教育刷新の立場から道を他に転じてもらいたいのだ。これで刷新のすべてが終わったわけではない」とし、これに対し、都教組伊藤委員長は「不当な整理が相当多いと思うので、合法的な範囲であくまで闘う・・・」と語っています。
さて都立高校に目を向けますと、駒場高校だけで5名(全1、定4で、ともに女性)も追放されました。なぜ駒場でこんなにも?と問いたくなりますし、この一文はこれに少しでも答えようとして、したためたものです。
その前に、レッド・パージそのものが、駒場をはじめ都立高校ではすっかり忘れられていたことに触れなければなりません。
私が都立高校で教えるようになった1961年以来職場で聞いた記憶はありません。社会科教師でしたからレッド・パージについて歴史の知識はもっていましたが、1996年から6年、駒場で教壇に立ちました(嘱託で5年、非常勤講師として1年)が、あるとき、あることがきっかけでこの事実を知って愕然としました。本文に入る前に、私がレッド・バージをどのようにみているか、どうして愕然としたのか、あえて取り上げる今日的な意味はどこにあるか、書いておきます。
(1)ヨーロッハで始まった冷戦体制は、中国の内戦で共産党側がはっきりと優位に立つとともに、東アジアにも及んできました。アメリカは日本を反共の拠点にしようと画策し始めました。その一環としての「レッド・ハージ」だし、日本政府は仕方なく従っただけでなく、便乗して「パージ」を強行しました。
(2)レッド・ハージは、「レッド」と一方的に認定した人々を解雇することを目的に強行したものですから、日本国憲法の根幹を一挙に踏みにじる重大事件であり、戦後史上最大の政治・思想弾圧です。最大というのは、その規模の大きさです。平田氏によれば27000人を超える人々が解雇されています。
(3)私が愕然としたのは、自分の勤め先が都立高校での攻撃の中心だったことと、駒場高校が都教委にねらわれるあるはっきりした理由を知ったからです(後述)。
(4)10・23通達が出されてからの都立高校には、思想・良心の自由をはじめ、日本国憲法がもはや存在しないかのような事態になりましたが、市民・教師らが一体となってこれに敢然として立ち向かっています。この闘いを大きく前進させるためにもレッド・ハージを想起し、その教訓を汲み取る作業が必要だと考えています。
▼ 教員のレッド・バージのメカニズム
レッドパージは、1949年に国家および地方公務員、国鉄での「人員整理」から始まって、教員におよびました。ついで朝鮮戦争(1950年6月)とともに、マッカーサー書簡にもとづいて、マスコミ・映画界や民間企業で強行されました。
教員のレッド・ハージが1949年10月から一斉にはじまったのは、9月初旬に文部省がGHQの指示の下、全国教育長会議を開いて方針を決めたからです。一定の「不適格基準」にもとづいて、「教職不適格者」と認定して、「辞職勧告」をだして、追放するという方式をとりました。
東京都では、「刷新基準要綱」を1950年1月20日の教育委員会で審議しました。陳情におしかけた教員・父母を締め出して行おうとしましたが、教育委員の1人堀江邑一氏(当時は公選制で共産党から立候補して当選)の強い要求によって、会議室に入ることが出来ました。この時先生・父母は基準要綱がいかにでたらめであるかを、実例をあげて追究しましたが、1対5で強行採決してしまいました(1は堀江氏)。こうして首切りのロ実がつくられました。以下に「刷新基準要綱」を載せます。
1.勤務成績不良のもの
1職務を怠るもの 2欠勤、遅刻、早退のおおいもの 3無断で勤務を離れるもの
2.職務能力の低いもの
1教授能力の低いもの 2教育への熱意を欠くもの 3教員として信用、品位を失い、成績をあげることのできないもの
3.学校経営上非協力のもの
1法令或は指揮監督者の正当な命令を守らないもの 2学校の教育方針又は民主的運営に協力を欠くもの 3学校を拠点として、又は教員の身分を利用して、一党一派に偏した、政治活動をする傾向が強く、教育上支障のあるもの
▼ 駒場高校~職場をあげての運動に対する報復
校長からの通告を受けたときのやりとりから、「刷新基準要綱」に従ってといいながら、実は都教委がある事件を問題視していることが分かりました。通告を受けた1人横山靖子(当時は長谷川)さんは、その日の夜、つぎのような文章を書いて、担任の生徒を通じて父母に配布しました。以下に全文載せますが、校長、つまり都教委は4年近く前の「食糧メーデー」への参加を問題にしています。
ご挨拶
先日来いろいろ御心配をいただいておりましたが、本日(13日)いよいよ校長先生から辞職勧告をおうけいたしました。理由は食糧メーデー前後からの学校内に於いての行動を綜合的に判定した結果だというのでございました。
校長先生は、自分は教育長のいうとおりに取り次ぐだけだ。今け自分の意見を発表する段階ではないと責任を回避されています。
しかし食糧メーデーの参加はあの当時校舎もなくて1年間、勉強らしい勉強もできずにおりました時で、1日も早く正規の授業のできる校舎を得たいと切に念願した全職員できめた事でございましたそ。れを私共に責任を負わせて退職の理由にするとは余りに不合理だと存じます。
第三にまいりまして6年間、微力ながらも皆様のお子様方と御一緒に勉学に遊びにつとめてまいりました。若いお子様方が溌刺とした自主的な活動を過ごして、それぞれのカを伸ばしていらっしゃる事を念願して止まなかった6年間は、夢のようでございました。「2年生はしっかりしている」と他の先生方からおほめにあずかる度に1年生の時から受持っておりました私、何かしら嬉しく誇らしく感じてまいりました。
このように思い出の多い第三をしかも御一緒に生活してきた生徒の方々の御卒業を翌春に控えて、只今このような、あいまいな理由で退職を迫られますことは、どうしても納得できないことでございます。これでは全く一方的に判定を下して暴力的に人事問題を処理することになるではありませんか。自主的な活動をのばし、物事をうのみにして盲目的に従わず正しく判断することを教えることがいけないのでしたら、生徒は今後上の人のいわれる事を善悪をも確かあず絶対に従うようになりますでしょう。こうして私共は、かつて、あのおそろしい戦争にかりたてられたのではなかったでしょうか。
情勢を科学的に検討できなかった無知と権力には絶対追随しなければならないと考えた奴隷根性が私にもありました。この経験を二度と繰返したくない、若い皆様のお子様には、はっきりした科学的態度を持っていただきたい。この念願だけで今日まで微力ながらやってまいりました。
国民を再び奴隷にし、日本の国を戦争の危険におとし入れようとするカが強くなってまいりました今、教員の今回の整理は、植民地化の進度を進めるものとして重大だと存じます。
日本の国を愛され、子供さん方の成長を期待なさる父兄の皆様方、教育を守り平和を守るために、このような不当な首切りに反対して闘います事にどうぞ御協力くださいませ。
皆様方の御支持と御鞭撻とを感謝いたしつつ。
1950年2月13日
2年8ホーム主任 長谷川靖子
父兄の皆様へ
註:当時は担任を主任とよんでいました。第三は駒場高校のことです。
私が駒場にきて4年目、同窓会ニュースを見ていましたら、「食糧メーデー」にふれた記事がありました。「食糧メーデー」などが同窓会と何の関係があるのかと首を傾けながら読みました。
この日(1946年5月19日一日曜日一)が多くの先生だけでなく、数十人もの生徒も一緒に参加した重大な事件だったことが分かりました。さっそく校舎の一角にある同窓会室に行って聞いてみました。
すると役員は、そのことなら当時(旧制第三高女の)教員だった御前茂樹先生に、といわれました。数日後御前先生が担任をしていた同窓会の役員と会いました。何人もの教え子が未だに深いつき合いをされていました。彼は当時分会のリーダーだったようでした。でも私が「会いたい」と申し出たときには、もうお体が親族以外には会えない状況でした。また、食糧メーデーに参加した生徒にも会いたいとも言いました。尽力して下さいましたが、うまくいきませんでした。名前の分かったもう一人の分会リーダー、乾須美さんもお会いできるような状況ではありませんでした。
その後、同窓会の方との話の中から「レッド・パージ」の事実とその1人横山靖子さんがお元気なことを知りました。しばらくして、『新婦人新聞』の「聞き書き母の歴史」欄に横山靖子さんが連載を始めました(2001年4月5日~7月26日まで16回)。
さっそく連絡をとりました。お会いしたのは、2002年4月川崎の自宅で、4人の教え子も一緒でした。当時の話、パージ後の生活・活動など3時間も聞くことが出来ましたし、教え子が50年以上も大切にしまっていた前記の「ご挨拶」(ガリ版刷り)も読むことができ、横山さんの理不尽なパージに対するすさまじい怒りを私もひしひしと感じました。その時横山さんからお借りした資料もあわせておよその事実をつかみました。
(続)
『私にとっての戦後ーそして都高教運動』(都高教退職者会 2010/5/15発行)より
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