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パワー・トゥ・ザ・ピープル!!アーカイブ

東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

敗戦後、私は生まれ変わったのです

2011年11月15日 | 日の丸・君が代関連ニュース
 《都高教退職者会による最高裁要請行動から》
 最高裁判所第一小法廷裁判官殿
 ◎ 敗戦後、私は生まれ変わったのです
2011年11月2日
都高教退職会 柴田弘武

 ● 軍国少年と敗戦

 私は1932年生まれで、1945年の敗戦時は旧制中学2年でした。すなわち小学校(途中から国民学校と名を変える)と中学2年1学期までは「大日本帝国憲法」と「教育勅語」体制のもとで教育を受けてきた者であります。
 その根幹として据えられたのが学校行事として行われる式典であり、「国旗(日の丸)掲揚、国歌(君が代)斉唱」が不可欠のものでした。式日には全校生が校庭に整列させられ、校長が袱紗につつまれた「教育勅語」をうやうやしく取り出して、いかにも重々しく読み上げるのを、意味もわからず聞かされたものでした。普段は必ず奉安殿に最敬礼をしなければなりませんでした。こうして小学校時代には既にしっかりと軍国少年に育てられました。
 中学に入ってからの学徒動員も当然のこととして受け入れ、空襲で家を焼かれても「神国日本」の必勝を信じ続けてきました。中学2年時の敗戦に呆然となったのは当然だったとわかって頂けるでしょう。
 敗戦後「民主主義」というものがあり、それは国家の主権は国民にあることを基底にした思想であると教えられ、目が覚めたような思いを抱いたものです。それが「日本国憲法」となり、1948年の新制高校の発足となって、民主主義を具体的なものとして実感することとなりました。
 私は生まれ変わったのです(これは同時代を生きたほとんどすべての国民の実感だったのではないでしょうか)。
 ● 中学・高校の教員となって
 1955年、私は都内の中学校の*社会科教師となり、「日本国憲法」を教える立場になりました。そして「ここに主権が国民に存することを宣言し」という言葉の重要さを自分の経験から教えたものです。
 また第19条「思想及び良心の自由」、第20条「信教の自由、国の宗教活動の禁止」、第21条「集会・結社・表現の自由、通信の秘密」、第23条「学問の自由」等々のことは、民主主義を具体的に保証するものとして教えました。
 また国家権力の暴走を防ぐシステムとしての三権分立の意義も力をこめて教えた覚えがあります。司法権の独立、特に第76条3項「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。」の重要性を強調した覚えがあります。
 1962年、私は都立高校(定時制)に転任しました。その時の第一印象は、「都立高校って何と自由なんだろう」というものでした。
 中学の教員生活が決して束縛の多いものであった訳ではありませんが、しかし高校の職員室の空気はもっと*明るく自由でした。教員の誰も彼もが自分の思うことを率直に述べ、相互の批判も活発でした。当然その自由な空気は生徒にも伝わり、働きながら学ぶ生徒も伸び伸びと学校生活を楽しんでいるように思えました。
 いわゆる学校行事においても生徒の自主性を第一にして、彼らの意見を尊重しながら組み立てていきました。卒業式などでも特に「日の丸」を揚げることもなく、ましてや「君が代」を歌うことなどはありませんでした。在校生が卒業生を励まし、祝う祝賀会の感があったと思います。
 ● 雰囲気が変わった
 しかし1982年学習指導要領が「国民の祝日などにおいて儀式などを行う場合には、生徒に対してこれらの祝日などの意義を理解させるとともに、国旗を掲揚し、君が代を斉唱させることが望ましい」と改訂されてから、学校現場ではギスギスした雰囲気が漂いはじめました(なお当時はまだ「日の丸」を「国旗」とした規定はありませんでした)。
 私自身、先述したように戦前の軍国主義教育を受けた者にとっては、これらの動きは戦前回帰への前兆としか思えませんでした。「日の丸」にも「君が代」にもいやな思い出しかありません。しかしだからと言ってその感情を生徒に押しつけることはしなかったつもりです。あくまでも生徒に儀式の意味を考えさせ、自主的に儀式を構成するよう促したものです。
 1992年、私は定年となり教職を去りました。しかしその後現職の人々の話を聞くにっれ、年ごとに「学校の自由」が抑圧され、上意下達の職場となり、生徒の自主性を伸ばす教育ではなく、上からの教えを強制するような事態になっていくのを感じていました。そして2003年のいわゆる「10.23通達」に至りました。
 ここに至って学校教育は完全に戦前並みの「権力の強制」にとって代わられた感が致します。心ある教員が良心に従ってそれら「強制」に反対し、抵抗したのは全く正当だったと思います。
 ● 今回の裁判では憲法に従った判決を示して頂きたい
 最近私は極めて感銘する新聞記事を読みました。それは今年10月2日の朝日新聞夕刊の「人生の贈りもの」という記事です。そこには作家・画家の米谷ふみ子氏(80才)のアメリカでの体験談が述べられていました。
 「長男のカールが小学2年の頃、クラスで毎朝する国旗宣誓を拒んだときのことです。私たち(註:両親)が命じたわけではなく、親の会話を聞いて彼がそう心に決めたのでしょう。驚いたのは、担任の先生に『カールはクラスにデモクラシーとは何かを教える機会を与えてくれました』と感謝されたことです。国旗宣誓を彼が拒否して座っていたのを、後ろの子が立たせようとした。そこで先生は『個人の信条を重視するのがデモクラシーだ』と話したのだそうです。」
 と書かれていました。
 最高裁判所裁判官殿、どうかこのアメリカの教師の精神を日本でも保証してください。
 もう一つ、これは少々古い話になりますが、1985年5月8日にドイツ連邦大統領リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーが行った演説の一節、「過去に眼を閉ざす者は、未来に対してもやはり盲目となる」を心に留めて戴きたいと思うのです。
 以上の理由を以て以下の要請を致します。
 ①「国歌斉唱義務不存在確認等請求訴訟」と、②懲戒処分取消請求事件第一次訴訟に対し、貴裁判所は憲法の精神に従った判決を示していただきたい。

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