☆ 東京「君が代」第3次訴訟 2月7日(金)結審
14:40傍聴抽選締切(予定)15:00開廷 東京地裁103(当初予定の527から変更)
→2日前に異例の期日延期の通知。2月7日は中止になりました。
=第3次訴訟 第15回口頭弁論報告 憲法学界から強力な援軍=
◎ 「10・23通達の真の目的は"刷り込み式愛国心教育"だった」

「報告集会」 《撮影:gamou》
12月6日、東京地裁527号法廷は、気鋭の若手憲法学者巻 美矢紀(まきみさき)教授の証言に注目する傍聴者で埋め尽くされた(それを倍する人が抽選に外れて涙をのんだ)。証言は、裁判所に提出された『意見書』に沿って行われたが、その全文は3次原告全員には事前に、傍聴希望者にも当日開廷前に配ってあった。巻教授の頭には最高裁の重要判例が全部入っているようで、その一節を空でスラスラ引用しつつ精緻な論理的組み立てで持論を展開する証言ぶりは圧巻であった。ここでは、証言の要点を4つに再構成して提示する。
◎ 巻 美矢紀 千葉大学大学院教授証言(90分)
●最高裁判決から職務命令の違憲性が導かれる
人権に対する「間接的制約」が一般的・客観的に認められるというなら、公権力にも制約の存在を予想しうるわけで、一見価値中立的な表向きの目的とは別に隠された目的が存在する蓋然性が高く、裁判所は職務命令の「合理性」を支える社会的事実が存在するかどうか、立法事実を検証する必要がある。
●職務命令は、人権侵害以前に、公権力の内在的限界を超えており、違憲。
公教育における「指導」とは、民主主義存続のため、自由かつ独立の人格の前提である理性的思考の涵養という視点から行われなければならない。起立斉唱命令は、生徒の理性的思考を遮断する「刷り込み」の媒介になることを教員に命ずるもので、根源的に全体主義的であって、国旗国歌条項に照らして不合理ですらある。
●炙り出された「10・23通達」の真の目的は「刷り込み式愛国心教育」
教員が一律に起立斉唱することで同調圧力を高め、本来強制し得ない生徒に、国家に対する敬意を「自然な」ものとしてすり込む「刷り込み式愛国心教育」を行うことが、真の目的である。そしてその媒介となることを拒否する教員を炙り出して最終的には排除することも狙っている。
●公教育における教育公務員の職責。
公権力の内在的限界を超えた介入の媒介となることを拒否することこそ、教員の職責であり、教員に認められた道具的権利の行使と解される。公教育における公権力の介入に対する限界は、旭川学テ最高裁判決に次のように示されている。
「子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的介入、例えば誤った知識や一方的な観念を子どもに植え付けるような内容の教育を施すことを強制するようなことは・・・許されない・・・」
反対尋問とその回答からもひとつ例をあげておく。
○(都側代理人) 生徒が、起立しなくてもいい、斉唱しなくてもいい、と受け取ってしまうのではないか。
○(巻教授) まさに公教育において、どのような教育を行うかだ。本来の公教育の使命として考えられる、理性的思考を涵養するという観点からすれば、民主主義の前提となる、相互尊重とか多様性とか寛容の精神を、実践的な場で教えるべき大事な機会であり、特定の思想を生徒に押し付けるものではない。高校段階だからむしろきちんと「内心の自由」を、式典において説明することこそが公教育における憲法上の要請である。
証言の最後に、バー内の原告団の方に視線を移し「懲戒処分を覚悟しながらも、職責として"刷り込み式愛国心教育"の媒介となることを拒否した原告の方々に敬意を表します。」と語り掛け、そして改めて裁判長の方に向き直り「裁判官の方々にも、民主主義の守護者として、ご判断いただけることを期待しております」と結んだ。
憲法論から「10・23通達」そのものの撤回への道筋をつけた巻証言の意味は、大変大きい。都立高校の教育をよみがえらせるために、現在考え得る最強の理論的援軍を得た、と言えるのではないだろうか。全体主義への逆流が強まる厳しい情勢の中で、民主主義を守るため証言に立ち憲法学者の職責を果たして下さった巻教授に心から感謝したい。
14:40傍聴抽選締切(予定)15:00開廷 東京地裁103(当初予定の527から変更)
→2日前に異例の期日延期の通知。2月7日は中止になりました。
=第3次訴訟 第15回口頭弁論報告 憲法学界から強力な援軍=
◎ 「10・23通達の真の目的は"刷り込み式愛国心教育"だった」

「報告集会」 《撮影:gamou》
12月6日、東京地裁527号法廷は、気鋭の若手憲法学者巻 美矢紀(まきみさき)教授の証言に注目する傍聴者で埋め尽くされた(それを倍する人が抽選に外れて涙をのんだ)。証言は、裁判所に提出された『意見書』に沿って行われたが、その全文は3次原告全員には事前に、傍聴希望者にも当日開廷前に配ってあった。巻教授の頭には最高裁の重要判例が全部入っているようで、その一節を空でスラスラ引用しつつ精緻な論理的組み立てで持論を展開する証言ぶりは圧巻であった。ここでは、証言の要点を4つに再構成して提示する。
◎ 巻 美矢紀 千葉大学大学院教授証言(90分)
●最高裁判決から職務命令の違憲性が導かれる
人権に対する「間接的制約」が一般的・客観的に認められるというなら、公権力にも制約の存在を予想しうるわけで、一見価値中立的な表向きの目的とは別に隠された目的が存在する蓋然性が高く、裁判所は職務命令の「合理性」を支える社会的事実が存在するかどうか、立法事実を検証する必要がある。
●職務命令は、人権侵害以前に、公権力の内在的限界を超えており、違憲。
公教育における「指導」とは、民主主義存続のため、自由かつ独立の人格の前提である理性的思考の涵養という視点から行われなければならない。起立斉唱命令は、生徒の理性的思考を遮断する「刷り込み」の媒介になることを教員に命ずるもので、根源的に全体主義的であって、国旗国歌条項に照らして不合理ですらある。
●炙り出された「10・23通達」の真の目的は「刷り込み式愛国心教育」
教員が一律に起立斉唱することで同調圧力を高め、本来強制し得ない生徒に、国家に対する敬意を「自然な」ものとしてすり込む「刷り込み式愛国心教育」を行うことが、真の目的である。そしてその媒介となることを拒否する教員を炙り出して最終的には排除することも狙っている。
●公教育における教育公務員の職責。
公権力の内在的限界を超えた介入の媒介となることを拒否することこそ、教員の職責であり、教員に認められた道具的権利の行使と解される。公教育における公権力の介入に対する限界は、旭川学テ最高裁判決に次のように示されている。
「子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的介入、例えば誤った知識や一方的な観念を子どもに植え付けるような内容の教育を施すことを強制するようなことは・・・許されない・・・」
反対尋問とその回答からもひとつ例をあげておく。
○(都側代理人) 生徒が、起立しなくてもいい、斉唱しなくてもいい、と受け取ってしまうのではないか。
○(巻教授) まさに公教育において、どのような教育を行うかだ。本来の公教育の使命として考えられる、理性的思考を涵養するという観点からすれば、民主主義の前提となる、相互尊重とか多様性とか寛容の精神を、実践的な場で教えるべき大事な機会であり、特定の思想を生徒に押し付けるものではない。高校段階だからむしろきちんと「内心の自由」を、式典において説明することこそが公教育における憲法上の要請である。
証言の最後に、バー内の原告団の方に視線を移し「懲戒処分を覚悟しながらも、職責として"刷り込み式愛国心教育"の媒介となることを拒否した原告の方々に敬意を表します。」と語り掛け、そして改めて裁判長の方に向き直り「裁判官の方々にも、民主主義の守護者として、ご判断いただけることを期待しております」と結んだ。
憲法論から「10・23通達」そのものの撤回への道筋をつけた巻証言の意味は、大変大きい。都立高校の教育をよみがえらせるために、現在考え得る最強の理論的援軍を得た、と言えるのではないだろうか。全体主義への逆流が強まる厳しい情勢の中で、民主主義を守るため証言に立ち憲法学者の職責を果たして下さった巻教授に心から感謝したい。
(文責:3次原告 花輪紅一郎)
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