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パワー・トゥ・ザ・ピープル!!アーカイブ

東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

シリーズ あの時 3

2007年11月02日 | 日の丸・君が代関連ニュース
 ★ 11月17日(土)大泉ブラウス裁判報告集会へ、結集お願いします!
  13:30~ 東京芸術劇場大会議室(池袋西口)


 <<シリーズあのとき>>
 ◎ 大泉東小学校「卒業式ボイコット事件」その1

大城 資子

 今から20年前,1987年3月25日に行われた東京都練馬区立大泉東小学校(以下,大東小)の卒業式のことを,読売新聞は「国旗掲揚”教師の乱”24人卒業式ボイコット校長命令に反発『さびしい式』と児童」の見出しで,写真入りで大きく報じた。
 このとき私は大東小の教員だった。その後3年ほどで教員を辞め,今は共同保育所で働いている。自分が関わった出来事が「事件」と称されたのは,不思議な気がする。教職員が組織とは関係なくやむにやまれず「自主的に」とった行動は,その後様々な思惑の中で「ボイコット事件」にされていった。

 現在の学校では職員会議での挙手ができなかったり,討論はなかったりすると聞いてびっくり。当時は教員の異動年限も長く,10年選手も多かった。何人もの校長とっきあってきた個性豊かな先輩たちは,「校長さんねえ」と堂々と持論を述べ,管理職と対等な姿勢で向き合い,職員会議は活発だった。
 大東小は組合(練教組)の組織率も高く,この前年まで卒業式場には日の丸はなかった。まだ国旗国歌法制定前のことだ。しかし文部省(当時)は85年「卒・入学式での国歌斉唱,国旗掲揚」を推進する通知を出し,着々と「国を愛する心情をやしなう」方向にむかっていた。 しかしまだ,私が赴任したときのY校長は教職員の反論に耳をかたむけ,一旦出した案を取り下げたりもした。(そういえば,事務職もちゃんと職員会議で意見を言っていたけど,今はどうなんだろう。)

 しかし87年,鈴木校長は,前年に提案したものの実施できなかった「日の丸」の式場への掲揚を頑強に主張した。多くの教職員が,自分の思いを入れ替わり立ち替わり述べたのに対し,校長は判で押したように「公共機関の長として,指導要領にのっとって」を繰り返した。話し合いは連日長時間に及んだが,校長は「私の判断で,式場に日の丸を掲げる」「式に出席しなさい。これは職務命令です」と言った。
 校長が式当日の朝,見切り発車で式場正面に日の丸を貼らせたため,「そのような式には出るわけには行かない」と,卒業学年を始め多くの教職員が式場に入らず職員室で待機し,管理職は数名の教員とともに式を開始した。このときの式場内の写真がなぜかマスコミに流れ,「事件」として報じられた。
 実際は,式の後,待機していた教員たちが,教室に戻った子どもたちを伴って再び体育館に入り,「日の丸」のない式場で,ひとりひとりに花を手渡して卒業を祝い、決して子ともを置き去りにはしなかったのだが…。

 また,「障害」児学級の子どもたちはまだ入場していなかったのに式は開始されてしまい,保護者が慌ててよびに来て,式に加わったという。
 校長が「何を」大切にしたかは,このことからも明らかだ。(私は前日までの話し合いには参加していたが,肺炎で入院していた娘の退院が式当日と重なり,やむなく休暇をとった。休まなかったら勿論,多くの教員たちと行動を共にしたはずだったが。)

 さて,問題はその後におきた。私がこの出来事を忘れられないのは,むしろ「事件」後に,誰がどのような対応をとったか,による。まず「とんでもないことをしてくれた」と叱ったのは,練教組だった。
 「どのようなことがあっても,あのような行動はとるべきではなかった」保護者や地域のかけがえのない信頼を失った」等々。「事前に分会から何も相談されなかった」組合の幹部は,私たちを指導しに来た。
 そんな中で,教員たちの「やむにやまれぬ思い」は変質していかざるを得ない。ひとりひとりの「思い」は,大きな批判の波にのみこまれ,自己批判していく教員たち。組合員だった私は,このときの衝撃を忘れない。連帯していないと人間はもろい。そんなことを,おそわった。
 地域からの攻撃は予想どおりだった。釈明を求めるとして,緊急に開かれた説明会。煌煌と照る蛍光灯の元,声高に「この場であやまって下さい!」とPTAの役職。誰も自分からあやまるなんでしたくない。だって,自分で考えてやったんだもの。けして誰かがリーダーでもなかったんだ……。
 しかし,地域,保護者,卒業生向けに校長と連名で謝罪文を作成する頃から,教員の間にざわざわと亀裂が走る。独自のスタンスで校長相手に毅然と論陣を張っていたOさんは,組合と一線を画していた。亀裂はこの小さな溝から始まった。そして自分はひきずられてやった,と言い始める人もいた。
 このころ,市民の側に支援が始まったが,組合からも地域からも批判され畏縮している教員たちの多くが警戒心を持った。私も実ははじめはそうだった。しかし学校の中で,この事件を行き過ぎた行為として落着させていくことに,割り切れなさを感じていた。その気持ちを共有できる仲間が学校の外にいるのだと知り,私は市民の学習会に参加していった。
 「練馬『日の丸・君が代』教育を考える会」が立ち上がり,その後「ねりま教育ネットワーク」としてより多くの身近な教育問題を考えるきっかけとなっていった。

 さて,この「事件」では,校長に処分がないまま,20名以上の教員に戒告などの処分がでた。「事件」から一か月と言う異例の速さで,区長選投票日前日の処分発令。格好の政治的な材料にされたのだった。3人がこれを不服として人事委員会に提訴。しかし皮肉にも,昭和天皇の死去による「恩赦」で処分そのものが取り消された事で,この3人の闘いも終結してしまうことになった。
 「日の丸」と「恩赦」。まさに天皇制に深く関わるこの事件だが,もう知る人は少ないし,闘いは不十分で大きくひろがらなかった……と思っていた。

 しかし20年近くを経て先日,私が参加している「練馬教育問題交流会」の学習会として,この「事件」を報告し,現在の視点から話し合う機会があり,その席で「教員たちのボイコットといわれた行動を、保護者はどうとらえていたのか?」と聞かれ,答えにつまってしまった。
 学校にいながら親たちに伝えてこなかったこと,その後も率直に話してこなかったことが闘いの広がりを持てたかった原因だと,遅きに失したが改めて自覚した。と同時に,現在は市民の立場にある自分は,はたして,子どもの受け持ちの先生の置かれている過酷な状況を知っているだろうか。教員をやめて久しく、人事考課制度など,教員の日常が管理と序列によってずたずたにされていると聞いても,自分の子どもの担任に「先生方の置かれてる状況が大変と聞いていますが」と話しかけたことがいくらでもあったろうか,と自問する。教員と市民がともに考える場の大切さを感じている,(次号に続く)

『ほっととーく 58』より
「良心・表現の自由を!」声をあげる市民の会
〒176-0012 練馬区豊玉北5-17-7-303 サポートねりまねりま全労協気付
郵便振替:00140-6-517545 加入者名:声をあげる市民の会

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