奈良の桜井の奥の聖林寺を訪ねました。学生の時以来の何十年ぶりです。昔、友だちと山の辺の道を歩いて、最後に訪れた寺でした。鎌倉の長谷寺の観音様を見たときに、なぜか、この十一面観音様を思い出して 見たくなり、一度夕方五時前に滑り込んつもりでしたが、拝観時間が四時半までで、見ることがかなわなかったことがありました。十一面観音様はコンクリートの建物内のガラス張りケースに入っており、何十前はこんなふうではなかった洋な気がしました。コンクリートの建物はいつ作られか聞きたかったです。十一面観音のコンクリート部屋以外はとてもボロボロになっており、すごく古い臭いもしていました。今後が気になるところです。ちなみに十一面観音は国宝です。拝観者も大勢ではありませんが、ポツポツ着ていました。
奈良の薬師寺の近くに蓮で有名な喜光寺という寺があるのを昨年薬師寺を訪れた時、知りました。薬師寺 から歩くのはちょっとということで、昨年は喜光寺までは行きませんでした。
今年、蓮が見頃になったという報道もあり、喜光寺に行くことにしましたが、ちょうど、この蓮の見頃の時期、早朝から暁天講座というお説教があり、その後、茶粥の接待もあるということで、それを目指して行きました。
喜光寺は薬師寺の別格本山というもので、お坊さんは薬師寺住職が兼務のようです。私が行ったときは、副住職の講話がありました。昔の高田好胤さんの話題もでました。約一時間のお話は、和心ということが大切ということでした。和という字はのぎへん即ちお米を共に食すから来ており、命があるという有り難いことを有らしめられて共に食すことができることに感謝しましょうということでした。また、佐藤一斎の言志録から 「少くして学べば、則ち壮にして為 すことあり 壮にして学べば、則ち老いて衰えず 老いて学べば、則ち死して朽ちず」が引用され、いくつになってもその時から、学ぶことことが後につながっていく、という話もありました。
お坊さんの声は複式呼吸の腹に響く低い声で、とてもゆっくりしており、内容も難しくなく誰にでもわかる易しい話で、講話というのは、こういうものでいいんだなと参考になりました。
さて、講話が終わって、別室へ移動し、茶粥の接待を受けました。粥だけかと思っていましたが、ゴマ豆腐や漬け物などのおかず付きでした。奈良の茶粥は有名ですが、食べたことはありませんでした。焙じ茶で、ずいぶん炊き込んであるもので、普通のお茶漬けよりはお茶がご飯に染み込んでいました。塩味はほとんどついていないようでした。これを、春日大社の万葉植物園のそばの茶店で食べたら、千円以上とるだろうなと皮算用しておりました。
喜光寺は講和を聞く場所もお接待の場所も椅子式で今風に整備されていました。初めててしたが、とても入りやすい寺でした。二千円払えば、いろは写経ができるとか、薬師寺館長の山田法胤管主の本などの販売もありました。
この時期は、弁天堂の秘仏が開帳されているということで、見に行ったら、小さな仏壇のような扉の向こうに鎮座するのは、とぐろを巻いた小さな白蛇でした。顔もついていました。一瞬??でしたが、秘仏とはヘビだったのです。そういえば、宇治の三室戸寺の新参のなで仏でヘビ体のものがありましたが、それの小さなものといってもいいでしょう。長さ30センチくらいのミニヘビがとぐろをまいていました。 まあ、色々あって面白かったです。