旨い処探索同好会

アトリエ葉神 公式 ブログ・サイト

翻訳 018 ヤスオ・クニヨシ Yasuo Kuniyoshi

2013年01月30日 12時05分21秒 | 翻訳

Central Park at Night by Adolf Dehn


A friend of father, Mr. Kawabe, who was a Japanese artist, helped me through the winter by giving me board and meals. In return I cleaned his studio. It was he who suggested that I go to the National Academy. I used to walk from Sixty-sixth Street to the National Academy on One Hundred and Ninth Street twice every day because I had no carfare. I tried to like the National Academy but after two months I quit.

* * * * *



父親の友人で、日本人アーティストのカワベ氏が、冬の間私に食事と部屋を与えて助けてくれました。 お返しに彼のスタジオの掃除をしました。 ナショナル・アカデミーに行くことを薦めたのはカワベ氏でした。 バス代が無かったので毎日、第66番街からナショナル・アカデミーのある第119番街まで歩いたものです。 私はナショナル・アカデミーが気に入るように試みましたが、二ヶ月後に止めてしまいました。

* * * * *



クニヨシの自伝は、前中後と三部に区切っていて、ここまでで全50パラグラフの約三分の一。
残りもこのペースでいけるかどうかは、お天気次第。
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翻訳 017 ヤスオ・クニヨシ Yasuo Kuniyoshi

2013年01月29日 12時24分38秒 | 翻訳

Union Square in Snow by Yasuo Kuniyoshi

Once again I fell back on art and decided to come to New York, the center of art activity. Again there was a repetition of the same hardships I experienced when I first came to this country -- odd jobs here and there where I could find them. It seemed like a cold world, especially since I spent the winter of 1910 without an overcoat. But by this time I had definitely decided to continue studying art. Somehow that aim was firm enough so that no matter what I did it was always bearable. I was entirely ignorant of the old masters; no one had ever mentioned them or the numerous museums. I was led to believe that if I painted long enough that would qualify me as an artist.



もう一度私は芸術の世界に戻り、そしてニューヨーク、芸術活動の中心、に来ることに決めたのでした。 又ここで私が最初にこの国に来た時の経験- -あっちこっちで何とか見つけた雑多な仕事をした--同じ苦難の繰り返しになりました。 特にオーバーコートもなく過ごした1910年(明治43年)の冬は、冷たい世の中のように思われました。 しかしこの時までには、私は芸術の勉強を続けると明確に決めていました。 ともかくその目標は充分に確固たるもので、どんなことをしても常に我慢出来ました。 今まで誰も昔の巨匠達や沢山ある美術館を話題にしたことはかったので、私は、完全に昔のマスター達に無知でした。 私は、充分長い間絵を描くとアーティストとしての資格が出来ると信じ込んでいました。



訳後感:
アートの世界に進むと決めると、早速アメリカ・アートの中心であるニューヨークに移る決断力と行動力は、若さもあったでしょうが、クニヨシには大変強いものがあったようです。

雪のユニオン・スクェアーは、1938年(昭和13年)に撮影されたものです。
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翻訳 016 ヤスオ・クニヨシ Yasuo Kuniyoshi

2013年01月28日 10時28分25秒 | 翻訳

Airport by William Heaslip

Three years at the Los Angeles School of Art and Design and I was undecided as to my future. When an aviation meet for the first time was held at the San Domingo field in Los Angeles I was immediately drawn to it. Quick fame and an up and coming industry fired my imagination and so gave up studying at the art school. But I soon gave that up too, because I was scared.



ロス・エンジェルスのスクール・オブ・アート・アンド・デザインで三年間、私は将来のことを何も決めていませんでした。 ロス・エンジェルスのサン・ドミンゴの野原で飛行の会合が初めて開かれた時、私はそれにスグに引きつけられました。 手早い名声と新しい成長産業は、私の想像力に火を着けました、そこで美術学校での勉強を諦めました。 しかし飛行機の操縦も怖くなって同じ様に諦めてしまいました。



訳後記:
オハイオ州デイトンのライト兄弟が飛行機を発明してから、まだ当時の航空産業は、かなり危険を伴っていた事でしょう。 しかしここでもクニヨシの新しいものへの強い好奇心とチャレンジ精神が伺われます。
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翻訳 015 ヤスオ・クニヨシ Yasuo Kuniyoshi その-15

2013年01月27日 10時30分32秒 | 翻訳

Bathers by John Costigan

My attitude was still a romantic one. To be an artist was a wonderful thing. Yet I didn't think too seriously of it. I painted but I never thought I would be able to become an artist.



私の気持ちは、まだ空想的なものでした。 アーティストになることは素晴らしい事でした。 でもその事を真剣に考えていませんでした。 私は絵を描いていましたが、アーティストになることが出来るだろうとは、決して思いませんでした。



訳後記:
ジョン・コスティガンの「バサーズ」は、以前このブログで紹介した「ジャッキー」と同様に眩しい太陽の光を上手く捕らえています、白黒ですが繊細な光と登場人物達の扱いはとても見事です。
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翻訳 014 ヤスオ・クニヨシ Yasuo Kuniyoshi その-14

2013年01月26日 12時13分30秒 | 翻訳

Missouri Wheat Farmers by Joe Jones

While going to art school I earned my living by doing various odd jobs, such as working in the field of the Imperial Valley picking cantaloupes; picking grapes in Fresno, during the summer. In the winter I worked as a bell-hop at a hotel. It was not what I wanted to do, but I didn't mind since it enabled me to go to art school.



美術学校に通っている間、私は色々変わった仕事をこなして生活費を稼ぎました、例えば夏の間は、インペリアル・ヴァレーの畑でキャンタロープ・メロンを;フレスノでブドウを収穫しました。
冬には、ホテルのベル・ボーイとして働きました。 私のやりたい仕事ではありませんでしたが、それで美術学校に行けるので気になりませんでした。



訳後感:
ベル・ボーイ(bell-boy)とか、ページ・ボーイ(pageboy)は聞いたことがあるが、ベル・ホップ(bell-hop)は、多分古い言い方なのだろう、聞き慣れない言葉なので辞書を引くと、銀行内のメッセンジャーボーイ、ベル・ボーイと同じとあった。 
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翻訳 013 ヤスオ・クニヨシ Yasuo Kuniyoshi その-13

2013年01月25日 13時47分23秒 | 翻訳

Tree and Mountains by Luigi Lucioni

It may not be that the memory of this picture was responsible for my becoming an artist but remained as a symbol of my aims; to combine the rich traditions of the East with my accumulative experience and viewpoint of the West.



この絵の記憶が、私をアーティストした原因ではないかもしれませんが、東洋の豊かな伝統と私の積み重ねた経験で西洋的観点を結合させると言う、私の目標の象徴として残っていました。



訳後感:
一昨日は、久しぶりにほぼ一日雨が降った。 昨日は、一日中曇っていたが雨は降らなかった。
今日は、曇っていたが午後になって雨になった。 多分明日も似た様な天気だろう。
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翻訳 012 ヤスオ・クニヨシ Yasuo Kuniyoshi その-12

2013年01月23日 09時58分32秒 | 翻訳

Aspects of Suburban Life - Polo Spill by Paul Cadmus

As I look back, no doubt it was a very photographic depiction; the approach and medium strangely moved me and has left an impression vivid to this day.



思い返すに、それはまさに写真のような描写でした、作品の取り組みや絵の具の使い方に妙に感動し、私に今でも鮮明な印象を残しました。



訳後感:
そう言えば戦争のプロパガンダ的ポスターは、どこの国でも優秀な画工が、確かに強烈な印象を与える強いイメージを上手く描き上げていたと思う。 
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翻訳 011 ヤスオ・クニヨシ Yasuo Kuniyoshi その-11

2013年01月22日 12時33分07秒 | 翻訳

Quiet Day by Stow Wengenroth

The thought of painting brought back memories of the first Western painting I had ever seen, when a boy of six or seven. It was a realistic panorama of a battle scene. It stirred me greatly because it was so real and life-like, a factor that I had not been aware of in the works of art that surrounded my childhood. Here was something that was more than decorative and dignified.



絵のことを思うと、6才か7才の少年の時に初めて見た、最初の西洋式絵画の事を思い起こします。
それは写実的な戦場場面のパノラマでした。 その絵は、子供の頃に回りにあった芸術作品を知らなかった私には、ものすごくリアルで生きているようで、私に大変大きな衝動を与えました。 そこには装飾や威厳以上の何かがありました。



訳後感:
思うに、人生の折り返し点を過ぎる頃から、毎日の時間の経つのが少しずつ早くなって行くように感じられます。 まだやりたいことが沢山あるので、うかうかしていられません。

ここ数年の間に地震、津波、原発事故、領土問題、政権交代と日本も大きく変化をしようとしているように思えます。 世界的にも金融関係、エネルギーや食料関連の問題は今も多く解決出来ていません、今後が注目されています。 いつも言っている事ですが毎日が激動の時代です、訳もなく又そんな事を思ってしまいました。
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翻訳 010 ヤスオ・クニヨシ Yasuo Kuniyoshi その-10

2013年01月21日 11時32分38秒 | 翻訳

Lonesome Road by Thomas Benton

I guess the sun and the warm climate made me more cheerful for I was resigned to stay and not to go back home. Still I never thought of becoming an artist or of staying as long as I have. It was only after entering public school that one of my teachers suggested and encouraged me to go to art school. I had always liked pictures and so I thought it was a good idea.



私は、家に帰らないで滞在を甘んじていても、太陽と暖かい季候のおかげで、より元気になりました。
それでも私は、こんなに長く滞在したり、アーティストになると思ってもいませんでした。 それはパブリック・スクールに入学して、先生の一人が私に美術学校へ行くことを奨励してくれた後でした。
私は、いつも絵が好きでしたし、良いアイデアだと思いました。



訳後感:
今日は月曜日だが、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアの日で休日である。 オバマ大統領の二期目就任の宣誓があった。 NFCのサンフランシスコ49ナースがアトランタ、ファルコンスを28-24の大逆転で破り、久しぶりのスーパー・ボールの出場が決まった。 相手は28-13でニューイングランド、ペートリオッツを破ったバルティモァーのレーヴンスだ。 大相撲初場所は、中日が終わって横綱日馬富士が全勝で折り返し、一敗で横綱白鵬が追う展開。
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翻訳 009 ヤスオ・クニヨシ Yasuo Kuniyoshi その-9

2013年01月20日 11時18分59秒 | 翻訳

Grapes in a Bowl by Yasuo Kuniyoshi

I landed a small job shortly afterward scrubbing floors in an office building in Seattle and went to mission school to learn to speak English. I saved up enough money during that period and when the weather got cold and rainy I went to Los Angeles.



その後、暫くしてシアトルのあるオフィス・ビルの床を磨く仕事に有り付きました、そして英語を話すことを学びにミッション・スクールに通いました。 私はその間に充分なお金を蓄えました、そして天候が寒い雨季になるとロス・エンジェルスに行きました。



訳後記:
ここでも、さっさと冷たく濡れたシアトルを後にして暖かくてより可能性のある南へ移る決断は早く、そしてそれを行動に移すことが出来たのは、若い頃からクニヨシが聡明であったことを示していると思います。
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翻訳 008 ヤスオ・クニヨシ Yasuo Kuniyoshi その-8

2013年01月19日 11時27分42秒 | 翻訳

Water Front by Charles Locke

I've never forgotten the feeling of sitting day in, day out in the harbor watching the big boats go by and eating peanuts. It was the first taste of peanuts I had in this country and I've never eaten them since.



私は、明けても暮れても港に座って、大きな船が行き交うのを眺めながら、ピーナッツを食べた時の気持ちを決して忘れません。 それはこの国で最初のピーナッツの味でした、私はそれ以来ピーナッツを一度も食べていません。



訳後記:
このシーンは、サンフランシスコ湾で同じような境遇をブルースにして大ヒットした、オーティス・レディング(Otis Redding)のヒットソング、ドック・オブ・ザ・ベイ(The Dock of the Bay)を思い浮かべます。 YouTube Link: http://www.youtube.com/watch?v=UCmUhYSr-e4

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翻訳 007 ヤスオ・クニヨシ Yasuo Kuniyoshi その-7

2013年01月18日 12時00分40秒 | 翻訳

New England Scene by Andrew Butler

After two days of sweeping out the roundhouse, carrying buckets of water and sleeping on a wooden bunk without any mattress, I went back to Seattle. This was my first smack of America and it left me shattered. I began to long for home, but I had been so brave when I first landed here, that I had sent all the money I had back to father and told him that I was in a country where there was lots of money and so I didn't need it. I was stranded and so blue. I would have gone back if I had any funds after being here only a month.



円形機関車庫の掃き掃除をしたり、バケツ一杯の水を運んだり、マットレスも無い木の寝台に寝たりした、二日後にシアトルに戻りました。 これがアメリカで最初のビンタでした、そして私を粉々にしてしまいました。 家に帰りたくなりましたが、初めてここに着いた時は怖いもの知らずで、父親にお金がたっぷりある国にいるので必要ないと伝えて、私は持っていた全部のお金を父に送り返していました。 私は立ち往生し、沈んでいました。 アメリカに着いてたった一ヶ月後、もしお金があったら帰っていたでしょう。



訳後記:
クニヨシにとって最初のホームシックなのでしょう。 遠い異国にたった一人、甘やかされて育った17才の一人っ子には無理もありません。 しかしここで帰らなかったことが彼の後の人生に大きく影響したのでしょう。
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翻訳 006 ヤスオ・クニヨシ Yasuo Kuniyoshi その-6

2013年01月17日 11時33分47秒 | 翻訳

Along the Hudson by Arnold Blanch

Unable to speak but a few monosyllables in English, with no friends or any experience, it was far from easy at first. I realized more than anything that I had to earn a living before I could go to school to learn English. I got a job working in a railroad yard in Spokane, through the good services of the hotel manager at a Japanese hotel where I was staying in Seattle.



少しの一音節単語しか喋れない英語、友達もなく何の経験もなく、最初は簡単ではありませんでした。
私は学校に英語を学びにいく前に、何よりも先ず生活をして行かなければならないと解っていました。
シアトルで滞在していた日系ホテルのマネージャーのはからいで、スポーケーンの鉄道操車場で働く仕事に有り付きました。



訳後感:
クニヨシの渡米した頃には、日本からのシアトル経由でアメリカに移民した人も多くいただろう。
今より大らかな当時の事ではあるだろうが、若いクニヨシの行動力はたいしたものである。

毎日氷点下5~6度の朝が続くと、0度を越える朝が来ると幾分暖かく感じる。 とにかく寒くて外では何もしたくない日が続いている。
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翻訳 005 ヤスオ・クニヨシ Yasuo Kuniyoshi その-5

2013年01月16日 12時42分40秒 | 翻訳

Winter in the Catskills by Doris Lee

My dreams of America and actually seeing America were two totally different things. I thought nothing of money, expecting to pick it up practically from the streets.



私の夢にみたアメリカと現実に見たアメリカは、二つの全く違ったものでした。 私は、実に路上から拾えるだろうと思い、お金のことは、考えてもいませんでした。



訳後記:
この辺は、相変わらず寒い日が続いている。 大相撲初場所も前半戦からもう荒れ模様、これからも面白くなりそうだ。

「若いうちは、買ってでも苦労をしろ」なんて理不尽な事を昔の人は言ったが、ティーンエージャーの夢と冒険心は、限られた現実認識ゆえの無謀さと言うか、いつの時代も同じようである。 しかしクニヨシの金銭に対する感覚は17才の少年とはいえ、かなり無頓着なものだったようだ。
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翻訳 004 ヤスオ・クニヨシ Yasuo Kuniyoshi その-4

2013年01月15日 11時24分48秒 | 翻訳

Siesta by Wanda Gag

I had no definite plans when I arrived on the West Coast in September, 1906 - a vague idea that I should like to stay two or three years, learn to speak English fluently and be able to translate English into Japanese. Then, all polished, return home.



1906年(明治39年)、9月に西海岸についたとき私にたいした計画などありませんでした、
2~3年は滞在して、英語を流暢に話せるよう学んで、英語を日本語に翻訳出来るようになればと言う曖昧な考えでした。 そして、全てに磨きをかけて、日本に帰る。



訳後記:
今週末頃には、この寒波も和らぐ予報であるが、毎日寒い日が続いている。 そこで暖かそうに気持ちよく寝ている猫の絵を選んでみた。 我が家の犬小屋にも藁をいっぱい敷き詰めているのでぬくぬくと気持ちよいのであろう朝日が射して暖かくなるまで起きてこない。

訳者が1970年9月に渡米した時には、1ドルが360円の頃で当時の大蔵省に外貨を要請するため書類を提出したのを覚えている。 17才のクニヨシが、渡米した当時の為替レートは幾らぐらいだったのだろう? 船の予約や明治政府のパスポート、アメリカのビザをどうやって手に入れたのか興味ある処だ。
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