旨い処探索同好会

アトリエ葉神 公式 ブログ・サイト

ヴィンセント・ヴァン・ゴッホの「赤キャベツとニンニク」

2023年05月15日 04時39分41秒 | 芸術鑑賞


大相撲五月場所が始まった。 初日は久しぶりに揃った三役、大関、横綱と上位陣は順調だっだ、これから15日間面白くなりそうで、楽しみだ。 しかしここで前に書いたゴッホの記事に物言いがついた。 確認のため協議をしなければならない。



ゴッホの「赤キャベツとオニオン」が「赤キャベツとガーリック」に変更された件で、又新たに別の意見が出てきた。 この絵には、実はよく見ると赤キャベツとオニオンとガーリックが描かれている。 別に注意して見なくても唯見ているだけでも3種類の野菜が描かれているのが分かる。



どうも一番手前にあるガーリックがタマネギと考えられていた事から発した出来事だが、一番奥に描かれた赤キャベツと一番前にあるガーリックの間にちゃんとタマネギがあります。 これは我が家の料理好きが言い出したことで、言われるまで気が付きませんでした。 



私としては、このゴッホの絵を見るのは初めてで、強い印象を受けたのが彼の赤キャベツの描き方でした。 普通の人はキャベツの紫がかった独特の赤い色と、葉っぱがギュウギュウにキャベツの形に押し込まれた曲線の面白さに目が行くと思うのですが、ゴッホはかなり強い直線を使って赤キャベツを表現しているなと感じたことでした。



話をこの画の名前に戻りましょう、元々は「赤キャベツとオニオン」だったそうです。 誰が此の画の名前をつけたのかアイチャンに聞いてみた。 多分ゴッホ美術館の学芸員達がつけたのだろうという答えだった。 ヴィンセントが兄テオに送った手紙のなかで、「赤キャベツとオニオン」という言葉は出てくるそうだけれど、それが正式に付けられた名前ではないと言う。



いずれにせよ、名前の機能自体がそのものの認識や分類ができれば、まずはなんでもかまわない訳で、無いと困るが名前自体の意味合いは、それ程重要では無いのかもしれない。 しかしゲドが言うように正しい名前を知らないと困る事になる。
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ヴィンセント・ヴァン・ゴッホの「赤いキャベツとタマネギ」

2023年04月26日 18時58分35秒 | 芸術鑑賞

Vincent van Gogh, “Red Cabbages and Garlic” (1887), oil on canvas, 19 3/4 inches x 25 1/3 inches (image courtesy Van Gogh Museum, Amsterdam; Vincent van Gogh Foundation)

オランダのユトレヒトにある、フランス料理や創作料理のレストラン、そこのオーナー兼シェフのエルンスト・デ・ウイッテさん。 昨年アムステルダムのヴァン・ゴッホ美術館を訪れた時に、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホの1887年の油彩「赤いキャベツとタマネギ」の作品の表記にあるタマネギが実はニンニクであることに気が付きました。 やはり原画を実際に鑑賞する力はすごいですね。



彼は美術館にそのことを伝えました。 美術館は真剣に受け止めてくれたそうで、彼のニンニク説の詳しい説明を求められました。 ウイッテさんと妻は、問題の絵画とゴッホの1889年初期の「タマネギの周りの静物画」を比較し、両方の野菜の分析して形や種類で異なるタマネギとニンニクのビデオまで作ったそうです。



美術館は研究チームを立ち上げ、数カ月後にデ・ウイットさんが正しいと判断しました。 その後独立した研究者も交え検証した結果、壁のラベルのテキストとオンライン・コレクションの記録の両方を改正したのでした。 現在は「赤キャベツとニンニク」と呼ばれています。



デ・ウイッテさんのユトレヒトにあるレストランは、Feuという名前で内装も素敵で落ち着いた雰囲気が漂っている感じです。 彼は、今回の経験に触発されて赤キャベツとニンニクの料理を開発し、5月まで期間限定で提供されるとのこと。
オンラインで「#vanGogh」と入力すると無料で試食することができるそうです。
近ければ行ってみたいレストランのようです。


Ernst de Witte’s van Gogh-inspired dish before and after it was devoured (images courtesy Ernst de Witte)

Rhea Nayyar、 April 21, 2023 の記事を要約して紹介しました。


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何故か気になる季節外れの水仙

2023年04月18日 05時50分49秒 | 芸術鑑賞


令和五年四月の半ばでまだ水仙が咲いている、こんなに長く水仙が咲き続けているのは珍しい。 寒い雨季が例年より一か月ばかりずれ込んでいるからかもしれない。今年の冬は大雪と大雨で水不足のカリフォルニアにとっては恵みの雨ではあったが、代償は高いものについた。



大雪と大雨の被害はかなりのものであったが、シエラ・ネヴァダの雪解けの動向次第でさらなる洪水も予想されている。 先日フロリダで7時間で7か月分の雨が降って大洪水になったニュースがあった。 そういえばニュージーランドでも短時間に何か月分の雨が降って大変な洪水になったニュースもあった。



庭の木も二十世紀の梨がやっとツボミをつけ始めたばかりで、例年に比べるとかなり遅い感じがする。 水仙がまだ咲いているのもそうだが、野生のマンゾニダの花もまだ咲いているので、日照時間もそうだろうけれど気温も花の開花時期を決めるのに影響しているように思った。



アーモンドの花はそろそろ満開で、ワイルドプラムの花も沢山咲いてきている。 やはり例年と比べると一か月以上遅れているように感じられる。 まぁ例年と言っても十年から二十年単位の記憶程度のもので、かなりいい加減なものではある。



長い地球の歴史から見たらマバタキをする瞬間より短いかもしれないが、人間の感覚ってのはその程度のものだろう。 天候の記録が残っているのも長くて5千年程度だろうし、たかが知れている。



春先でも特に初春に咲く花は何故か、この辺りでは黄色の花が多い気がする。何時もだともう咲いている野生の黄色い花が咲いていないし、次に紫色の花が咲き始めるのだが、その気配はまったくない。



やっとお天気が良くなったので、週明けの月曜日夜あたりから又雨の予報があるし、早速畑を耕して肥料をすきこんでおいた。



話を季節外れの水仙に戻すが、アトリエからチョット遠くに見える水仙が何故か何時もより素敵に見えるのは、ひょっとしてこの季節外れが原因なのかなと思い始めた。



通常は春の初め頃は雨季もまだ終わっていないし野草もまだ芽を出すのは早い時期なのでバックグラウンドが土色や落ち葉などの茶色である。 今のバックグラウンドは少しづつ色んな草の芽が出てきているので、薄黄緑色に変わってきている。



初春に咲く水仙よりも春の終わり頃まで咲いている水仙の方が黄色が綺麗に感じる、この感覚を視覚的に伝える為に絵にしてみようと考えている。 こんな感じで普遍的な美を視覚的に残す作業がアーティストの仕事である。



とは言っても実際に考えていることと実行することとは違う。 そうこうしているうちに他の用事が出来て、気が付いたら気になる水仙の花は、気にならなくなって忘れ去られ、あの時描いておけば良かったと思うだけになるかもしれない。







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アレキサンダー・ カッサンドル

2022年05月30日 16時43分30秒 | 芸術鑑賞


毎週金曜日は我が家の買い物日で25マイル離れた隣町のウイリツに行く。3か所ほど違うスーパーで必要な物を買うのだが、そのうちの一つは町の南端にある小さなショッピング・モールにある。 



典型的な田舎のモールでハイウェイ101沿いにはファミレスやファーストフードのお店があり、奥にはメインのスーパーがあってその両側にコインランドリーや色々なお店がある。



その中にグッドウイルというセカンドハンド・ストアーがある。 地域の人々がいらなくなったものを寄付したものを主に販売している。 時々掘り出し物があるので相棒が食料調達をしている間によく覘く処だ。



貧乏絵描きの我が家では、昔から古い家具とか珍しい芸術品など色々とお世話になっているお店である。 先日そこで昔懐かしいポスターを見つけた。 学生時代のデザインの本には必ず載せられてあるポスターの見本のような有名な作品で、その上非常に良い状態で額縁だけでも新しく注文すれば100ドルはするだろう、それがたったの8ドルであった。



アレキサンダー・カッサンドル(1901~1968)はウクライナのカーキーフでフランス人両親のもとに生まれ、若い頃にパリに移ります。 キュービズムやシュールレアリスムの画家を目指しますが、コマーシャル・アートの分野で成功し自身の広告会社も始めます。



当時ポピュラーだったアートデコー風の印象に残る作品を多く残しました。今では当たり前のテクニックですが、エアーブラシ・アートのパイオニアとしても知られています。
新しいタイプフェイスも生み出して、舞台装置の製作にも手掛けていました。



ル・アーヴルからニューヨークまで大西洋を4日で運行した、当時としては最新の大型高速船SSノルマンディーのポスターは、まさにこのクルーズ船に乗って旅行をしたくなるような魅力を秘めています。 オリジナルは1935年に制作されたリソグラフのポスターです。 彼は他にも数多くの素晴らしい作品を残しています。


丁度撮影の日は真夏日だったのでパンツ一丁で失礼。



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芸術鑑賞 09-17-2016

2016年09月17日 15時22分04秒 | 芸術鑑賞


隣町のウイリツに行くとよく町の古道具屋サンとかアンティックショップに寄って何か掘り出し物はないかと物色するのを楽しみにしている。 そこで見つけたのがこのペインティングで、キャンバス代にもならない値段で売られていた。



技術的にはかなり幼稚な絵であるが、パシフィック・オーシャンの荒波の雰囲気が感じられる作品で形や色にこだわらなく(拘れなかったかも)自由に描かれているところが気に入った。



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芸術鑑賞 019 エドワード・スタイケン 続き-3

2011年09月07日 16時35分51秒 | 芸術鑑賞

Edward Steichen, "Mrs. Conde Nast", 1907. Paris. Pigment print.

スタイケンは、ミルウォーキーでも高収入で働いていたリソ・ショップを自ら辞めてパリに行きましたが、ニューヨークでも順調であったポートレイト写真の仕事に満足がいかなくなり、1906年に家族を連れてパリに移ります。 普通は安定した仕事や高収入を求めて努力をし、それを手に入れると保守的になりやすいものですが、スタイケンは違いました、彼は自分の気持ちに忠実だったのでしょう、そして安定よりも進歩を求めたようです、誰でもが簡単に出来る事ではないと思います。


Edward Steichen, "Rodin", 1910. Paris. Platinum print.

パリに着くとロダンを訪ね、新しく出来たフォト・セセッション画廊の説明をして、ロダンのドローイングの展示の許可を得ます。 スタイケンは、この当時の若いアメリカの画家やヨーロッパ新鋭の画家達をニューヨークに紹介することに努力しました。


Edward Steichen, "Steeplechase Day, Paris: Grandstand", 1905. Pigment print.

1907年の夏の日、友人から借りたドイツ製のハンド・カメラ(Goerzanschutz Klapp Camera)を持ってパリのロングチャンプ・レースの観戦に行き、スタイケンとしては初めてのドキュメンタリー・レポート写真を撮ります。 そこには馬のレースよりは派手な最新流行ファッションを競い合うハイ・ソサエティーを見るのでした。


Edward Steichen, "George Bernard Shaw" 1907. London. Lumiere Autochrome reproduced from
the four-color half-tone published in Camera Work, April, 1908

同じ1907年にはカラー写真オートクローム・プレート(Autochrome Plate)が、Lumiete Companyによって初めて開発されました。 このプレートを持ってロンドンに渡ったスタイケンは、ジョージ・バーナード・ショー(George Bernard Shaw)のポートレイトを撮影しています、彼のバラ色っぽい肌の色とブロンド・レッドの光る髪と髭はカラー写真にはもってこいだったようです。 丁度家族を連れてヨーロッパ旅行中、パリに寄ったスティグリッツにもこの新しいカラー写真を紹介しています。 残念なことに技術的問題から複製が出来ない事が分かりオートクロームは短命に終わりました。


Edward Steichen, "Balzac: The Open Sky", 1908. Meudon. Pigment print.

1908年の夏が終わる頃にロダンから連絡があって、バルザックを屋外に出したので撮影に来てくれと言うことでした。 以前は他の作品と一緒にしまっていて撮影出来る状態ではなかったのですが、今回の移動でやっと撮影が可能になったのでした。 太陽光では素材のプラスターの白が強すぎるので一晩かけ月あかりで撮影したものです。


Edward Steichen, "Balzac: Towards the Light, Midnight", 1908. Meudon. Pigment print.

後にバルザックの写真を見たスティグリッツは、今までのスタイケンの作品の中で最も感銘を受けた様で、すぐに購入してくれました。 スティグリッツは、後にこうしたスタイケンの作品をメトロポリタン美術館に全て寄付します。 スタイケンのパリの自宅が戦争の被害に遭ったので、スティグリッツのコレクションが唯一残されたものとなった訳です。


Edward Steichen, "Henri Matisse (and La Serpentine)", 1909. Issy-les-Moulineaux. Platinum print.

ガーチュルード・スタインは、パリのフルリース通り27番(27 Rue de Fleurus)で、プライベート・モダン・アート・ギャラリーを持っていました。 291の展覧会の為にアーティストを探していたスタイケンはスタインと知り合い、彼女の助けを借りてセザンヌやピカソのドローイングや水彩をニューヨークで紹介出来たのでした。

特にピカソの時は、メキシコの漫画家Marius de Zayasと彫刻家でピカソの友人のManoloが作品の選択を行い、ガーチュルード・スタインがピカソを説得して291で展示が出来たそうです。 しかし展覧会は、前のセザンヌの時よりもひどく、散々の酷評でした。


Edward Steichen, "Agnes E. Meyer (Mr. Eugene Meyer)". 1910. New York. Pigment print.

1910年のAgnes Ernst とEugene Meyerの結婚式の時の写真です。
アグネス・アーンストは、ニューヨーク・サン(New York Sun)のレポーターとして291・ギャラリーの取材に初めて訪れたアグネスは、今までの来客の中で一番可愛くて聡明だったと言われる程で、みんなに「太陽からの女」(The Girl from Sun)と呼ばれたそうです。


Edward Steichen, "President Theodore Roosevelt, The White House", 1908. Pigment print.

Everybody's Magazineの為に撮影された26代セオドア・ルーズベルト大統領のポートレイト。 
教科書などで見た大統領の写真からの覚えているイメージと随分違う感じがすると思ったら32代大統領のフランクリン・ルーズベルトと勘違いしていました。 二人はイトコ同士だそうです。


Edward Steichen, "Heavy Roses", Voulangis, France. 1914. Palladium print.

1914年(大正3年)の秋、フランスで戦争が始まり、24時間以内に全ての人の人生が変わってしまいました。


Pablo Picasso, "Portrait of Gertrude Stein", 1906. Metropolitan Museum of Art. New York.

余談:ガーチュルード・スタイン(Gertrude Stein),(1874-1946)は、アメリカの作家、詩人、コレクターとして知られています。 成人になってほとんどをヨーロッパで過ごしています。
ピカソが描いた彼女のポートレイトを見た誰かが、スタインに似ていないとピカソに言うと、ピカソが、「似てくる」(She will.)と答えたので有名です。 何処まで本当か分かりません。
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芸術鑑賞 018 エドワード・スタイケン 続き-2

2011年08月30日 18時35分23秒 | 芸術鑑賞

Edward Steichen, "Brooklyn Bridge", 1903. New York.

ニューヨークに戻ったスタイケンは、アルフレッド・スティグリッツの紹介でニューヨーク・カメラ・クラブのメンバーになり、5番街の291番地に小さなスタジオを見つけプロのポートレイト・フォトグラファーとして仕事を始めました。


Edward Steichen, "The Big White Cloud", 1903. Lake George, New York.

スティグリッツ家の古い友人でドイツ人肖像画家のフェドル・エンコ(Fedor Encko)が、J.P.モーガン(モーガン財閥の創始者)の正式な肖像画の依頼を受け制作を始めたのですが、J.P.モーガン自身、画家の前で落ち着いて座っていないし、座っても時間が少なくなかなか制作が進まないでいました。 困ったエンコは、スティグリッツに写真家を探して欲しいと頼みます。 そこでお鉢が回ってきたのがスタイケンでした、そしてエンコの為に二枚とスタイケン自身の為の一枚の合計三枚を撮影することで合意しました。


Edward Steichen, "J. P. Morgan", 1903. New York.

撮影の日、スタイケンはジャニターに頼んで準備した椅子に座ってもらいピント合わせも終えて用意周到で待っていると、エンコに案内されてやって来たモーガンは大きな帽子を脱いで、長い葉巻をテーブルの端に起き、さっきまでジャニターが座っていた椅子にドッカと座ると、何も言わないでエンコの前でとるいつものポーズをしました。

すぐにエンコの為の二枚を取り終えたスタイケンは、自分自身の一枚の為にモーガンに今までと違うポーズを勧めました。 そしてモーガン自身が頭の位置を決めた後、いらついた声で"Uncomfortable"と言うので、自然に感じる位置にするように勧めると何度か頭を動かして"Uncomfortable"と言ったときと同じ位置に戻しました。 しかしそこには画家の前で習慣的にポーズをしていた時の顔はなく、彼の表情はシャープになり姿勢は緊張し、先ほどのいらつきのせいかモーガンのダイナミックな自己主張を感じました。 そこでフィルムの入ったプレート・ホールダーをカメラから取り出しながら"Thank you, Mr. Morgan"と言うとモーガンは"Is that all?"というので、スタイケンは"Yes, sir."と答えました。 モーガンは帽子を頭に葉巻を手にあっという間にエレベーターに向かっていました。
モーガンがスタジオにいたトータル・タイムは、三分間でした。

撮影中はモーガンの目に注意がいって気がつかなかったが、現像をしてみると鼻が異常に大きく歪な形をしているのに気がつき、迷ったスタイケンはモーガンの以前の写真を調べると、どれも大きく修正をしていたので、エンケに頼まれた二枚は可能な限りレタッチして、三枚目は鼻を少しぼかす程度でほとんど手を加えず、後日モーガンのところへ持っていきました。 案の条、修正した二枚は気に入ってくれましたが三枚目は"Terrible"といってモーガンが破ってしまいました。

頭に来たスタイケンは、長い時間をかけて修正を重ね遂に数年後に高い値段でモーガンに買い上げてもらった作品が、上の写真です。 この写真は後に、"dagger"(短刀)を持たせることでモーガンの真の性格を表したとも言われたりもしますが、彼は単に椅子の肘掛けを握っていただけです。


Edward Steichen, "Trinity Church", 1904 New York. Platinum print.

ミルウォーキーにいる頃に、自然の写真は木の枝や葉を撮影するよりは、その瞬間のムードや表情を捕らえる事の方が重要だと気がついた様に、ポートレイト写真では人々がカメラを意識したポーズではなく、モーガンが表した様な純粋な反応を目覚めさせる事が重要だと気がついたスタイケンは、後に雑誌ヴァニティ・フェアーで毎日の様にポートレイト写真を撮るときの為の貴重なレッスンになりました。


Edward Steichen, "The Flatiron Building-Evening", 1905. New York.
Platinum and ferroprussiate print.

スタイケンは、写真の評判と口コミで仕事も順調になり、少し大きなスタジオをまかなえる様になります。 丁度その頃、隣の293番地に広いスペースが空きます。 アメリカの道は合理的に表示されていて、一般的にアヴェニューは南北、ストリートは東西に走り、番地は道の片方が奇数の番号であれば反対側の番地は全て偶数で、1-ブロックが100番単位になっています。 だから291番地から293番地に移ると行っても同じビル内でホール・ウェイもエレベーターも同じでした。 

291の方は続きの小さな後ろの二部屋も同時に空いたので、フォト・セセッションの為の画廊としてもってこいのスペースでした。 最初は写真だけでは一年中運営出来ないと難色を示すシュティグリッツをロダンのドローイングやヨーロッパの新しい画家の紹介も出来ると説得しました。 そして1905年(明治38年)に発足したフォト・セセッションの小さな画廊は、後に「291」として知られる様になります。


Edward Steichen, "Moonrise - Mamaroneck", 1904. New York. Platinum and ferroprussiate print.

スタイケンは技術的にも色々新しい事を試みていました。 早くからカラー写真にも興味を見せていました。 後に商業写真の分野でも成功するスタイケンですが、写真に関わる全ての分野で熱心に努力研究を続けたからでしょう。


Edward Steichen, "In Memoriam", 1905. New York.

20世紀初頭前後は、まだプロのモデルでもヌードの時は顔を写さないかぼかして欲しいと頼む時代だったそうです。 スタイケンのこのヌード写真はロダンの影響でしょうか、彫刻の様にも見えます。
形体美と共に雰囲気を重視したスタイケンならではの作品だと思います。


Edward Steichen, "The Garden of the Gods", 1906. Colorado. Platinum and gum print.

コロラドで撮影されたこの写真は、「ガーデン・オブ・ザ・ゴッド」と名付けられています。 ガム・プリントとあるので作品にはかなり手を加えていると思います。 しかし当時の交通事情を考えても、スタイケンはかなり幅広い範囲で活動していたように思われます。

(スタイケンが、1904年にニューヨークで撮影したアルフレッド・スティグリッツと娘のキャサリンの写真のリンク)
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芸術鑑賞 017 エドワード・スタイケン 続き-1

2011年08月25日 20時53分47秒 | 芸術鑑賞
多くの若者が二十歳前後に人生に大きな影響を与える旅に出る事は、時代を問わず世界中どこでも同じように思われます。 スタイケンの場合それが当時の芸術の都パリへ行くことでした。

スタイケンはミルウォーキー・アート・ステューデント・リーグの学友 Carl Biorncrantz と一緒にニューヨークからフランスのスティーマー(汽船)Champlain の三等客室(steerage)で7~8日間かけて大西洋を渡りました。 現在のSFOとKIX間が11時間以上なので長くて疲れるなんて文句は言えませんね。 スティーレッジと聞くとアルフレッド・スティグリッツのスティーリッジ(The Steerage)の写真を思い出してしまいます。

途中での食事がひどいことを注意されていた二人は、パンとハム、チーズを持ち込んでしのいだそうです。 ここで面白いなと思ったのが、若い二人は自転車を一緒に船に持ち込んだ事です。 
フランスに着いてLe Havreからセーヌ川沿いに春の景色を写真撮影やスケッチをしながらパリまでサイクリングして行きました、なかなか粋なパリへの訪れです。

同じ三等客室で知り合った旅人の紹介で、モンパルナスの屋根裏部屋をすんなりと借りる事ができ、すぐに1900年パリ万博のロダン展示会場に足を運びます。



Edward Steichen, "Solitude - F. Holland Day", 1901. Paris. Platinum print.
パリでは、有名なジュリアン・アカデミー(Julian Academy)で学びますが、彼の好みに合わなく2週間ほどでやめてしまい毎日ルーブルに通ったそうです。 その後ロンドンで F. Holland Dayに会いデイの企画したNew School of American Photography展に出品します。

フレッド・ホーランド・デイ(1864-1933)は、早くから写真の芸術性を唱えた写真家です。 ボストンで移民の子供達に読み書きを教えました、その内の一人が後に予言者(The Prophet)で有名になったレバノン出身の詩人カーリル・ギブラン(Kahlil Gibran)でした。 出版事業にも手がけオーブリー・ビアズリー(Aubrey Beardsley,1872-1898)のイラストを出版したことでも知られています。 
彼はロンドンの後パリでも写真展を開き、その時はスタイケンの一年近くをかけて仕上げた自画像の作品(下の写真)が話題になりました。



Edward Steichen, "Self Portrait with Brush and Palette", 1901. Paris. Pigment print.
スタイケンが美術学校をやめルーブルに通っていた頃、イタリア・ルネッサンス期のチチアン(Titian)とも呼ばれていた画家ティッツィアーノ・ベェチェッリオ(Tiziano Vecellio)の作品、マン・ウイズ・グローブ(Man with Glove)に興味を感じ、この絵に対する写真家としての答えを出したいと考え約一年をかけて制作した作品です。 デイの服を借り鏡の前でポーズをとって、最初はガム・プリントで始め、それから他の粒子や接着剤とゼラチンを混ぜたりし、そのテクニックを何度も練習して制作したそうです。 これはスタイケンが芸術のみならず写真技術にも研究熱心で努力家、そして強い意志を持っていたことが伺われます。 よく見ると印画紙から色素を筆で洗い落とした後が分かります、何となく写真をベースにした絵画の様でもあります。



Edward Steichen, "Auguste Rodin", 1902. Paris. Platinum print.
1898年、ミルウォーキーの新聞にパリのクラブ(the Society of Men of Letters)が7年前にパリ市の為にロダンに制作を依頼した文豪バルザック(Balzac)の像が完成し、その彫刻に関する賛否両論がパリの街を賑わしている記事がありました。 注文を出したクラブにロダンの作品は拒否されるのですが、ミルウォーキー・ニュースペーパーでその複写を見たスタイケンは、今までに見た最もワンダフルなもので山に生命を吹き込んだように見えたと語っています。 そしてその彫刻を制作したロダンの住む街、パリに興味を持ったのでした。

スタイケンをパリに駆り立てたもう一人のアーティストは、モネ(Claude Monet)でした。 彼がミルウォーキーの公共図書館で読んだモネの本の説明でモネの風景画はアトリエの中でなく実際に風景を前にして描かれていること、そしてモネが風景画の中に光と空気を取り入れたことが書かれていました。 このことはスタイケンがカメラでやりたいと考えていたことと同じだと語っています。

スタイケンはパリでもポートレイト写真を撮っていました。 ある日ノルウェーの風景画家でパリ在住のフリッツ・タウロウ(Fritz Thaulow)の二人の子供の写真の依頼の件でポートフォリオを持って自転車で出かけます。 仕事の話が決まりお昼をご馳走になっているときの会話で、スタイケンがどんなにロダンの彫刻が好きかを話し出来れば会ってみたいと話したところ、なんとタウロウはロダンと親しく、パリ郊外のMeudonにあるロダンの家に、午後二人で自転車で尋ねて行くことになりました。



Edward Steichen, "Rodin - Le Penseur", 1902. Paris. Pigment print.
ロダンの家でローズに迎えられた二人は、ロダンがパリに行ってあいにく不在だが、もうすぐ帰って来ると知らされ庭で待っていると暫くして足早にロダンが戻って来たそうです。 ロダンに誘われ、ワインセラーからのワインと素晴らしい夕食を日本の提灯が吊された木の下で楽しんだのでした。

食事が終わってリキュールとシガーを楽しんでいる時、タウロウがスタイケンにポートフォリを持ってきてはどうかと話します。 ゆっくり時間をかけて見ていたロダンは、スタイケンの肩に手をかけ、
タウロウに「見ろ、情熱はまだ死んではいない」と言ったそうです。 そしていつでも写真を撮りに来てよいとスタイケンに伝えました。

結局、ロダンが普通仕事をしない日曜日の午後に、大理石、ブロンズ、クレイやプラスターで一杯のスタジオに一年通い構想を練ったそうです。 構図が決まるとロダンに「Victor Hugo」を背に「考える人」に向かってもらいました。 広角レンズもなく、大きな作品と材料で一杯のスタジオでの撮影には限度を感じ、技術的に不安はあったものの後に合成することで出来た作品だそうです。

スタイケンの"Rodin - Le Penseur"と名付けられたこの1902年の作品は、ロダンと彼の彫刻の偉大さを見事に表現した素晴らしい写真で深く記憶に残るイメージです。 しかしどうしてロダンなのだろうと不思議に思っていましたが、それが可能になったのは、スタイケンの情熱がロダンに伝わったからだと分かりました。

この写真を見たロダンは大変喜んでみんなに見せたそうです。 スタイケンは、これらはロダンの写真ではなくロダンへの写真だと語っています。

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芸術鑑賞 016 エドワード・スタイケン

2011年08月21日 13時58分32秒 | 芸術鑑賞


Edward Steichen "The Spiral Shell", 1921. France.
このスパイラル・シェルの写真は、1963年に84歳のエドワード・スタイケンが出版した本(A Life in Photograph)の表紙に使われています。 多分スタイケン自身の一番のお気に入りの一つだと思います。 エドワード・ウェストンの光をすき通す様な繊細で優雅な貝の写真は英語の単語"fragile"がピッタリ合いそうですが、スタイケンの硬くて重そうな貝はまるで南部鉄びんのようで貝の持つ時間の重みまで含めて表現されているように感じます。



Edward Steichen、"To my mother Marie Kemp Steichen, 1854-1933, with homage, gratitude, respect, admiration, and love."
エドワード・スタイケンは、彼の母親からの影響が強くあったと彼自身語っています。 スタイケンの家族は彼がまだ3歳の時、若いスタイケンを自由で平等そして好機の土地で育てようと、ルクセンブルグから1881年アメリカに移ってきます。 



Edward Steichen、"Self Portrait", 1898. Milwaukee. Platinum print.
スタイケンの父親は、ミシガン州ハンコックの銅山で働いていましたが健康を害し母親がMillinery Shopを開いて生計をたてます。 ミリネリイ(millinery)と言う耳慣れリい単語が出てきたので辞書を引くと、やや古語らしく婦人帽子類(販売製造業)とあった。 1889年に一家はウィスコンシン州ミルウォーキーに移ります。 (ビールの世界三大生産地「ミュンヘン、サッポロ、ミルウォーキー」と言う昔の宣伝文句を思い出した、語呂合わせがよいのでツイ覚えてしまっていた。)



Edward Steichen, "Self Portrait with Sister" 1900. Milwaukee. Platinum print.
スタイケンが15歳の時に学校を止めリソグラフ工房(American Fine Art Company of Milwaukee)で4年間の実習生(Lithography apprenticeship)になり、会社の近くにあったフレンドリイなカメラ・ショップでスタイケンが16歳の時に初めてお金を母親からもらって中古のカメラを手に入れました。 最初のロール・フィルム50枚の中、写っていたのはたった一枚だけでした。 スタイケンはそのことに関して父親は絶望的でしたが、妹のリリアン(Lilian)がピアノに向かったその一枚の写真はとても素晴らしく49枚失敗の価値があると母親は褒めてくれたとふり返っています。 この写真のオシャレな帽子もお母さんの手作りでしょう。 同じく1896年にミルウォーキー・アート・スチューデント・リーグ(Milwaukee Art Students League)を発足、創始者の一人でリーグのプレジデントになりました。



Gertrude Kasebier, "Portrait of Edward Steichen Wearing an Overcoat and Gloves", 1901.
Platinum print. The Museum of Modern Art, New York. Gift of Knox Burger.
ティーン・エージャーのスタイケンは写真が創り上げるイメージにおいて光の重要性に気がついていました、黄昏時(たそがれどき、Twilight)の与える不思議なムード、そして常に変化し続ける光とそのミステリーな影の作り出す感情的なもの、場所、事物、人の本質が与える感情を写真の目標にした、気がつかない印象派と語っています。 1899年にスタイケンの作品が初めてフィラデルフィアの写真サロンで展示さ、1900年(明治33年)には、アメリカの市民権を得て3年後にクララ・スミス(Clara Smith)と結婚し二人の娘キャサリン(Katherine)とメアリー(Mary)がいます。



Edward Steichen, "The Little Round Mirror", 1901.(printed 1905)
当時はソフト・フォーカスの絵画風写真が主流でしたが、タイトルがなければ見逃してしまいそうな「小さな丸い鏡」、最初の自画像の写真にも小さな長方形の額縁が壁に掛けてありました。 この繊細な感覚でのバランスと構図がスタイケンの写真の魅力の一つのように思えます。
彼は三脚の足を揺らしてカメラを振動させたり、レンズを水で濡らしてボカシをだしたりして撮影段階での工夫のみならず現像の段階でもシルバーとプラチナ・ペーパー以外にも印画紙のコーティングの素材を変えてみたりして色々と工夫を続けた様です。



Alfred Stieglitz Collection, 1907. Platinum print. The Metropolitan Museum of Art. New York.
"Frank Eugene, Stieglitz, Kuehn, and Steichen Admiring the Work of Eugene".
リソ・ショップで4年間続いた研修期間が終わり収入も悪くないときにヨーロッパ行きを決意します。
見習い期間を終えたスタイケンは、週50ドルの収入があったそうですから当時としてはかなりの高給でしょう。 ヨーロッパ行きを家族に話すと父親はクレイジーだと思いますが母親が旅費を援助して21歳を迎えた数週間後にリーグの友人とパリに出発します。
1900年にスタイケンは、ニューヨーク経由でパリにいきますが、その時にクリアレンス・ホワイトの紹介でアルフレッド・スティグリッツにニューヨークで会っています。 スティグリッツは、盗んでいるようで申し訳ないといいながら一枚5ドルで三枚スタイケンの写真を買ってくれました。 スタイケンはパリに行くけれど写真は続けるとスティグリッツに約束したのです。
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芸術鑑賞 015 エドワード・ウェストン 続き・2

2011年07月16日 22時57分18秒 | 芸術鑑賞

Edward Weston. "Bodega Coast", 1937.
「ボデガ・コースト」は、北カリフォルニアのボデガ・ベイの海岸の写真です。 海岸をテーマにするアーティストは多いですね、やはり海岸線の地形、海に波、水平線に空と雲、役者が揃っているからでしょう。 ウェストンのこの海岸の写真も光と影の美しさを波の白さと浜辺の暗さでドラマテックに写し出していると思います。

世界大恐慌は裕福であった妻フローラ・シャンドラーの資産にも大きく影響しウェストンも経済的に大変な時期をすごします。 1937年に待望のグッゲンハイム・フェローシップを写真家として初めて受賞したおかげでアメリカ国内を旅して写真を撮ることが出来たのです。 この時の多くの風景写真にもウェストンのスタイルがよく感じられます。

 
Edward Weston. "Hill and Telephone Poles", 1937.
"Nature must not be recorded with a viewpoint colored by psychological headaches or heartaches..."
ウェストンは、自然を偏見の目で写しては駄目だと言っています。 この何処にでもあるようなカリフォルニアのバック・ロードの風景も彼の目にかかっては、不思議な雰囲気を持つシュールなイメージに変わってしまうようです。


Edward Weston. "Mono Lake", 1937.
シェラ・ネヴァダのヨセミテ国立公園の東にあるモノ・レークは、はけ口のない湖で塩分の強い水で独特のエコ・システムを持つ事でよく知られています。 1941年からロス・エンジェルスへモノ・レークに流れるべき水を引いたので湖面が極端に下がり大きな環境問題になりました。


Edward Weston. "Cracked Earth, Borego Desert", 1938.
"I get a greater joy by finding things in Nature, already composed, than I do from my finest personal arrangements. After all, selection is another way of arranging...
自然の中にあるものから何かを見つける事のよろこびは、誰にでもあるでしょう。 ウェストンは、干上がって出来た土の亀裂の中に、そんなものを見つけたようです。


Edward Weston. "Zabriskie Point, Death Valley", 1938.
"I am no longer trying to 'express myself', to impose my own personality on nature, but without prejudice, without falsification, to become identified with nature, to see or know things as the are, their very essence, so that what I record is not an interpretation - my idea of what nature should be- but a revelation, a piercing of the smoke screen..."
ウェストンは、自然に対しもはや自己主張をしようとはしないと語っています。 自然をありのままに見てありのままを知る事で自然と同調し、写真に自己の解釈を入れないようにしたようです。
私は、自然とは不思議にバランスの取れた美しい状態にある、いかにそれを取り出すかはアーティストの技量であると思います。 要は、チャンとすれば自ずとよい作品が生まれると言う訳だ。


Edward Weston. "Gulf Oil, Port Arthur, Texas", 1941.
テキサス州ポート・アーサーにあるガルフ・オイルの精錬所の写真です。 工場のタンク、パイプや煙突はこの時代のパワーのシンボルとして多くのアーティストがテーマにしています。 人工的な機能美や形体の面白さは見逃せないモティーフだったのでしょう。


Edward Weston. "Santa Fe Engine", 1941.
ロコモービル・エンジンも又おおくのアーティトが創作テーマのサブジェクトに選んでいます。
チャールス・シーラーのダイナミックで力強いエンジンの写真「パワー・ウィールス」(1937年)と比べると、ウェストンの「サンタ・フェ・エンジン」は以外に精密機械的にとらえているように感じました。


Edward Weston. "New York", 1941.
当時のニューヨークの高層ビルは、やはり多くのアーティストがテーマに選んでいます。 そして多くがアメリカ産業パワーの象徴のように雄大に力強く表現していますが、ウェストンの「ニューヨーク」は高層ビルの壁や窓の作るテクスチャーの形やパターンの面白さをうまく表現していると思います。


Edward Weston. "Comics, Elliot Point", 1944.
"Art must have a living quality which relates it to present needs, or to future hopes, opens new roads for those ready to travel, those who were ripe but needed an awakening shock..."
ワシントン州のエリオット・ポイントの壊れたベンチにサンデー・ペーパーのコミック・ページが無造作に置かれています。

ウェストンは、1940年台にパーキンソン氏病(Parkinson's Disease)になっています。
その後は、息子達の手を借りて写真プレートの整理に時間を費やしたようです。


Edward Weston (1886 - 1958)
エドワード・ウェストンは、ニューヨークでなくカリフォルニアに移って芸術活動を続けたアーティスト達のパイオニアでもあるのかも知れません。 ボヘミアンからヒッピー、ヤッピーと続くカリフォルニア文化の流れの一部のような気がします。 余談ですが彼は、 ベジタリアン(菜食主義者)でもあったようです。

エドワード・ウェストンは、本質的にアメリカン・フォトグラファーそれも特にカリフォルニアン・フォトグラファーと言えるでしょう。 彼は、1958年1月1日にカーメルでなくなっています。 72歳でした。
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芸術鑑賞 014 エドワード・ウェストン 続き・1

2011年07月15日 23時41分28秒 | 芸術鑑賞

Edward Weston. "Self-portrait", 1915. Gelatin silver print. (16 x 11.4cm).
エドワード・ヘンリー・ウェストン(Edward Henry Weston)は、1886年(明治19年)3月24日にシカゴ郊外ハイランド・パークで医者の父と女優の母の二人目の子供として生まれています。 

5歳の時に母を亡くしたので、ウェストンは9歳年上の姉に面倒を見てもらったようです。
父親は再婚しますが新しい母にも子供がいたので、彼は姉とよりクロースになりました。


Edward Weston. "Lake Michigan, Chicago", 1904.
エドワード・ウェストンが18歳の時に撮った写真、「レーク・ミシガン、シカゴ」。
1902年、彼が16歳の時に父親から初めてのカメラ、Bull's-Eye #2を買ってもらいます。


Edward Weston. "Self-Portrait with Camera", 1915. Gelatin silver print. (11.6 x 7.6cm).
引きこもりがちだったウェストンにカメラは、ちょうど良いギフトだったようです。 すぐに中古の5x7インチ、ビューカメラを買ってシカゴ近辺やミッド・ウエストの農場などへ活発に撮影に出かけるようになりました。 彼の写真は当時の写真専門誌にも掲載されました。

1906年、20歳の時、結婚してカリフォルニアに引っ越していた姉の近くのトロピコに移ります。
1908年の夏に小学校の先生をしていたフローラ・シャンドラー(Flora May Chandler)を紹介されます。 彼女はウェストンの姉のベスト・フレンドで7歳年上でしたが、翌年に二人は結婚し4人の息子が出来ます。


Edward Weston. "Japanese Fighting Mask", 1921.
ウェストンは、1911年にロス・エンジェルスの郊外トロピコ(Tropico)、現在のグレンデール(Glendale)、に彼自身のThe Little Studioと名付けたポートレイト・スタジオを開きました。 多分日系移民が近所に住んでいたのでしょう。 当時としては着物や剣道の防具などは、まだとても珍しかったと思います。


Edward Weston. "The Ascent of Attic angles", 1921
屋根裏部屋は壁が斜めになっているので造形的にはとても面白く多くのアーテイストがモチーフとして選んでいます。 若い頃や貧しい頃に使われた部屋のイメージも強くノスタルジックな感じがあります。 しかし屋根裏部屋の窓からの景色は、どの家でも一番よいのです。 このブログの中では、ナイルス・スペンサーの作品(The Dormer Window)があります。(読書 その三十六 フロク・3-中 学友)


Edward Weston. "Margrethe Mather with Phlox", 1921.
"the first important person in my life, and perhaps even now, though personal contact has gone, the most important."
1913年の秋にウェストンの評判を聞いてスタジオに尋ねてきたマーガレッタ・マーサー(Margrethe Mather)は、ロス・エンジェルスの写真家で、ウェストンは彼女から今までに知らなかった自由な発想のアートやライフ・スタイルなど大きな影響を受けたようです。 その後、彼女はスタジオのパートナーとして制作をしました。 ウェストンのシェルや野菜果物シリーズやフィギュアに関心を持ち始めたり、それに下の"Washbowl"のような作品など、彼女の影響がおおいにあったようです。


Edward Weston. "Tina Modotti", 1921. Palladium print. (24.1 x 19.1cm).
イタリア人で写真家、あるいは女優だった?ティーナ・モドッティとは、上記のマーサーと同じようにロマンチックな関係にあったようです。 ウェストンがヌード写真の勉強をしているときモデルになっています。 3年間ほど家族から離れメキシコで制作や展覧会をした時には、彼女と一緒でした。
ここでは紹介していませんが、メキシコのピラミッドや壁画、フォーク・アートなど多くの写真を残しています。


Edward Weston. "Telephone Lines, Middletown, Ohio", 1922.
ウェストンの姉夫婦が、オハイオ州のミドルタウンに移った後に尋ねて行った時に写したものです。
義兄に旅費を工面してもらい、当時写真活動の中心だったニューヨークに行った彼は、そこでシュティグリッツやチャールス・シーラー、そしてポール・ストランド会うことが出来きたうえ、彼らから高い評価を得たのでした。 
読書その六十五フロク・5-C 画家・写真家、チャールス・シーラー(写真家、画家)


Edward Weston. "Armco Steel, Ohio", 1922.
このミドルタウンで写したアームコ・スティールの写真が、ウェストンのスタイルが当時ポピュラーだったソフト・フォーカスのピクトリアリズム(Soft-focus Pictorialism)から、シュティグリッツ達の推していた自然光のストレイト・フォトグラフィー(Straight Photography)へと移行していった節目になったようです。 


Edward Weston. "Washbowl", 1925.
アッシュ・キャン・スクールの影響が伺えるような作品ではないかと思います。 ウィンストンは、普通では写真に撮らない場所にも造形美を見つけています。 このような素直な目が、後に有名になった、シェルや野菜・果物シリーズを創り上げた感受性と創造力の元になっているのでないでしょうか。


Edward Weston. "Bedpan", 1930. Gelatin silver print. (24 x 18.1cm).
この作品も上の「ウオッシュボゥル」と同じように人工的造形美をモチーフにした写真ですが、何故かマルセル・デュシャンの「レディーメード」を思い浮かべさせる写真です。
 

Edward Weston. "Nude", 1925.
"I want the stark beauty that a lens can so exactly render, presented without interference of artistic effect".
エドワード・ウェストンは、ヒューマン・フィギュアーの中にも上の「ベッドパン」と同じような造形美や官能的カーブを見いだしています。 後の「ペッパー」(ピーマン)などの野菜・果物シリーズの中でも同じようなとらえ方をしています。 これがウェストンのクリエートした写真のとらえ方、表現方法のスタイルではないでしょうか。


Edward Weston. "Nude", 1925. Tina Modotti, with Seneca View Camera.
ウェストンのヌード作品には、女性の形体美に対するアプローチがユニークなところがあります。
この頃はまだフィギュアの中でも造形的なものが優先されているように思います。


Edward Weston. "Shells", 1927.
1927年にウェストンは、ロス・エンジェルスのアーティスト、ヘンリエッタ・ショアー(Henrietta Shore)に出会います、彼女が長年描いていた貝(Nautilus)のペインティングの影響があったとウェストン自身のノート(daybook)に残されています。

グレンデールのスタジオで撮影されたこのシェル・シリーズの作品は、8x10のコンタクト・プリントで、組み合わせられた造形美と共に貝のテクスチャー(質感)や光沢などを素晴らしい写真技術でとらえています。 モティーフを自分で創り上げるやり方は、クニヤスも彼の静物画でよくやってまいしたが、一種の彫刻的シンボルのようなものでしょう。 


Edward Weston. "Two Shells", 1933 gelatin silver print from a May 1927 negative.
メキシコからカリフォルニアに帰ってきたウェストンは、最初はグレンデールに戻りますが、その後1928年に息子のブレット(Brett)と一緒にサン・フランシスコにスタジオを開きます。 その翌年、展覧会で知り合った仲間の影響でカーメルに移ります。 ここで野菜・果物のシリーズやポイント・ロボスの風景で多くの印象に強く残る作品を制作しています。

この写真は余りにもポピュラーで昔から何気なく見ていたので、この貝が二つの貝を組み合わせたものだとタイトルを調べて始めて気がつきました。 長い間「随分ユニークなオブジェクトで面白い形をした一個の貝」だと勝手に思い込んでいました。


Edward Weston. "Cypress Root, Seventeen Mile Drive", 1929.
1928年にはサン・フランシスコでアンセル・アダムス達と写真クラブF/64を創立しています。

カリフォルニアのモントレーにあるセブンティーン・マイル・ドライブは、有名なプエブロ・ビーチ・ゴルフコースも近くにある風光明媚な道として知られています。 太平洋からの強い風で海岸や道の両脇に植えられたサイプレスの木が変形しているのをよくみかけます。 


Edward Weston. "Cypress, Point Lobos", 1929.
1929年にウェストンは、ソニヤ・ノスコイアック(Sonya Noskowiak)と出会い、又々5年間ほど助手、モデル、愛人の関係になります。

現在のポイント・ロボス近辺のカリフォルニア・コーストには、外来種のユーカリ(オーストリア原産)が海岸を走っているハイウェー・ワン(Hwy-1)の道沿いに多く、サイプレスの木は少なくなって来ているように感じます。 サイプレスの木も南ヨーロッパが原産地だから昔スパニッシュが防風林として植えたのかも知れません。


Edward Weston. "Pepper No. 30", 1930.
この上下の写真は、ウェストンのポピュラーな「ペッパー」シリーズからのものです。 前回のキャベツ、そして有名なアーティチョーク・ハートの断面など彼ならではの目で植物の中にある造形美を引き出しています。


Edward Weston. "Pepper No. 35", 1930.
当時ウェストンのヌード・モデルでパートナーそしてラバーのSonya Noskowiak が持ってきたピーマンを使ったように、彼の制作過程には多くの女性の影響があったようです。 こういった一連の静物写真のクロース・アップでウェストンは、芸術家の目を通しての美をカメラの技術でとらえ表現したと言えるでしょう。 


Edward Weston. "Point Lobos", 1929.
ウェストンは、モントレー・カーメルの近くにあるポイント・ロボス近辺でもよく撮影しています。
海に浮かぶケルプ(海草)の写真もよく知られていますが、上下の写真は風化による自然の造形美に目を当てています。 時間によって削られた曲線美と表面のパターンを自然光の中でうまくとらえています、多分長い時間をかけてこの一枚を写したのでしょう。 


Edward Weston. "Eroded Rock No. 50", 1930.
こちらも何処でもありそうな、うまく波で洗われ自然の彫刻作品となった岩にたまった海水と海岸の黒っぽいペブルのバックグラウンドでひきたてたウェストンのスタイルが感じられます。


Edward Weston. "Nude, Charis Wilson", 1936. Gelatin silver print. (24.1 x 19.2cm).
He wrote: "A new love came into my life, a most beautiful one, one which will, I believe, stand the test of time."
1934年初頭、ウェストンは、カーメルのシャリス・ウィルソン(Charis Wilson)に出会います。 数多い女性関係の中で若くて知的な彼女は特別でした。 二人は12年間程一緒でした、その間1939年から1945年までは結婚しています。 シャリスは単にモデルのみならず写真集の文章を担当しウェストンの制作のアシストをしました。

ウェストンのヌード・シリーズの作品の中でも傑作のこの写真は、構図のすばらしさに加え影を大変上手に利用しています。 彼自身も書いているようにまさに時間のテストに耐えられる芸術写真だと思います。 我が家にも一枚プリント・アウトして額に入れて飾ってありますが、見飽きません。
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芸術鑑賞 013 エドワード・ウェストン

2011年06月17日 07時34分00秒 | 芸術鑑賞

Edward Weston. "Self-Portrait with Camera", 1908. Platinum print. (14.6 x 8.6cm).


Edward Weston. "Shell", 1924.


Edward Weston. "Succulent", 1930.


Edward Weston. "Cabbage Leaf", 1931.


Edward Weston. "Driftwood Stump", 1937.


Edward Weston. "Sand Dune, Oceano", 1936.


Edward Weston. "Tomato Field, Big Sur", 1937.


Edward Weston. "China Grove, Point Lobos", 1940.


Edward Weston. "Pelican, Point Lobos", 1942


Edward Weston. "Circus Tent, Mexico", 1924.


Edward Weston. "Church Door, Horitos", 1940.


Edward Weston. "Armco Steel, Ohio", 1922.


Edward Weston. "Bathers, Claremont", 1919.


Edward Weston. "Nude", 1923.


Edward Weston. "Charis Wilson, Nude", 193.


Edward Weston. "Jose Clemente Orozco", 1930.


Edward Weston. "Costumed Woman, Tropico", 1916.


Ansel Adams. "Edward Weston", 1945.


Edward Weston. "Grass Against Sea", 1937.

エドワード・ウェストンは、彼自身の作品について多くは語らなかったそうです、たぶん写真からの語りかけだけで充分だと思ったのでしょう。 そこで今回の前半は、写真のクレディットだけで、解説なしでゆっくりと写真芸術を楽しんで下さい。 

我々現代人は、往々にしてインフォーメーション・ハイウェーを飛ばしている車の中から景色を見ている様で、とにかく全てにスピードが速い、はやく行けば色々見えるかも知れないが、はやすぎて肝心な処が見えなくなる可能性があります。 芸術鑑賞も同じだ、毎日のペースをスローダウンしてゆっくり存分楽しみたいものです。

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芸術鑑賞 012 ポール・ストランド 続き

2011年06月09日 01時35分38秒 | 芸術鑑賞

Paul Strand, "Mr. Bennett", Vermont, 1944.
ポール・ストランドのポートレイト「ミスター・ベネット」、彼の肖像写真は、何故か表情が独特で不思議な感じのする人物像が多い気がする。 1902年、ポール・ストランドが12歳の時に父親からカメラを与えられました。 その2年後にエシカル・カルチャー・スクール(Ethical Culture School)で、ルイス・ハインに写真を学びました。 その課外授業の時にフォト・セセッション画廊「291」で、アルフレッド・スティグリッツ、ガーチュルード・カセビァー、ジュリア・マーガレット・キャメロン、クリアレンス・ホワイト等の作品に接しています。 


Paul Strand, "Susan Thompson", Cape Split, Main. 1945.
このポートレイトは、バックの室内の暗さをうまく利用して人物を浮かび上げています。 メイン州ケープ・スプリットの「スーザン・トンプソン」とあります。 手を拭いてしわになっている白いエプロンと何とも言えない表情とポーズが印象的です、家庭の主婦でしょうか? 


Paul Strand, "The Camargue", France. 1951.
フランスのカマルグ地方の、この風景写真も又何となく寂しいのである。 一人で黙々と働く漁夫にこの風景である。1935年にソビエト連邦に行き,その後40年代後半になって制作した社会主義的フィルムの関係などでアメリカを去ることになりましたが、その影響が彼の写真にも現れているのでしょう。


Paul Strand, "Market Day", Luzzara, Italy, 1953. 
1953年(昭和28年)当時のイタリアのルッザーラ町でのマーケットの風景。 


Paul Strand, "The Family", Luzzara, Italy, 1953. Gelatin Silver Print, (24.2 x 19.4cm).
同じくイタリア、ルッザーラでの「ファミリー」と名付けられたファミリー・ポートレイト。
この写真は、ほぼ10年前のオークションで約$184,000ドルで落札されています。


Paul Strand, "Landscape", Sicily, Italy, 1954.
1954年、イタリア、シシリーの風景写真。


Paul Strand, "Tir a'Mhurain", South Uist, Hebrides, 1954.
ポール・ストランドは、1954年に三ヶ月間をスコットランドの西岸沖のヘブリディーズ諸島にあるサウス・ユーイスト島ですごしています。 タイトルは何と発音して良いか分かりませんが少なくとも意味は解りました。 Tir a'Mhurain (the title is Gaelic for "Land of the bent grass" one of the Gaelic names for Uist). タイトルに関心が行ってしまいましたが、この白黒の風景写真からは空と水の色が感じられるようです。


Paul Strand, "Georges Braque", Varangeville, France. 1957.
ポール・ストランドは、キュービズムの影響を受けたとどこかで読んだことがあるが、キュービストのジョージ・ブラックのポートレイトを見て、なるほどと思った。


Paul Strand, "Waterwheel and Colossi", Gurna, Upper Egypt. 1959.
エジプトのグルナ、「水車と巨像」


Paul Strand, "Oil Refinery", Tema, Ghana. 1963.
ガーナのテマ、「オイル精錬工場」


Paul Strand, "Couple", Rucar, Rumania. 1967.
ローメニアの若いカップル。


Hazel Kingsbury, "Paul Strand", 1952. ヘーゼル・キングスベリー、「ポール・ストランド」。
ポール・ストランドは、フランス、メキシコ、アフリカなど海外での写真集を出版しました。
1976年3月31日に85歳の時、フランスで亡くなりました。
Strand published a series of books including Time in New England (1950), France in Profile (1952), Un Paese (1954), Mexican Portfolio (1967), Outer Hebrides (1968) and Ghana: An African Portrait (1976). Paul Strand died on 31st March, 1976.

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芸術鑑賞 011 ポール・ストランド

2011年06月06日 02時09分03秒 | 芸術鑑賞

Paul Strand, "Wall Street", New York, 1915.
1915年の「ウォール・ストリート」と名付けられたこの写真は、ポール・ストランドの代表的な作品です。 早朝の長く低い影と出勤する人々のシルエットと窓の影が、建物の大きさ、組織の強大さを強調していて重圧な雰囲気の中に一日の始まりのエネルギーを感じます。 


Paul Strand, "City Hall Park", New York. 1915. the son of immigrants from Bohemia (now Czech Republic), was born in New York City on 16th October, 1890.
社会主義的傾向の強かったポール・ストランドの写真で、特にこういった風に人を写した作品からは、独特の雰囲気を感じてしまいます。 彼は、1899年(明治32年)現在のチェコ共和国の
ボヘミアから移民の両親のもと、ニューヨークで生まれています。


Paul Strand, "Abstraction, Porch Shadows", Twin Lakes, Connecticut, 1916.
ポーチの白い丸テーブルの上にフェンスの黒い影、当たり前のようですがよく出来ています。
ポール・ストランドの写真は、時間を超えて伝わる要素があるようです、普遍的美的感覚でしょうか?


Paul Strand, "Still Life, Pear and Bowls", Twin Lakes, Connecticut. 1916.
1916年の「梨とボールの静物」写真、ここでも当たり前の白いカップやボールの曲線面と黒い影で構成されたコンポジションを、自然にごく当たり前のように写している。


Paul Strand, "Akeley Motion Picture Camera", New York. 1922.
チャールス・シーラーと短編フィルムのプロジェクトを1920年代に立ち上げたポール・ストランドが使っていたモーション・フィルムのカメラでしょうか, その内部の丸いカバーに磨かれた金属の光沢、ここでも機械の持つ造形美をうまく引き出しています。


Paul Strand, "Rebecca", New York City, 1922.
これだけ顔をズームアップしたポートレイトは珍しい。 タイトルがなければ性別も分からないくらいアップしているので、状況もどうなっているのか分からない奇妙な写真である。彼のポートレイトは、皮膚の感覚が金属で出来たように硬く、表情も同じ様に硬いものが多いように感じる。


Paul Strand, "Iris", 1928.
何処の裏庭にもありそうなアイリスの葉、その薄い葉の作る優雅な曲線、指を切りそうなシャープなエッジ、しかしストランドの静物の写真に関してはどちらかと言うと静かな感じで目立たない。


Paul Strand, "Toadstool and Grasses", Georgetown, Main. 1928.
これも何処の裏山にでもありそうな草の中のケッポリであるが、キノコの白とバックの黒のバランスが良いし、キノコの丸い形と草の細い線が綺麗だ。 何かを訴えているのか、何かの物語があるのかよく分からないけれど、確かにカエル君の椅子ですね。


Paul Strand, "Alfred Stieglitz", Lake George, 1929.
ポール・ストランドの写したアルフレッド・スティグリッツ、彼の好みの場所、レイク・ジョージでの写真です。 これもかなりのアップで、耳から長い毛が出てきているのが見えます。 木のふしが、丁度大きなヘビの目のように見えます。


Paul Strand, "White Horse", Ranchos de Taos, New Mexico. 1932.
牧場のゲートのそばに一匹だけで立っている白馬、高い空の彼方には雲があり雷雨でも来そうな空。
ニューメキシコのタオス牧場の「ホワイト・ホース」です、これも何となく寂しさを感じる写真です。


Paul Strand, "Boy", Hidalgo, Mexico. 1933.
ポール・ストランドのポートレイトは、何故か厳しい表情の顔が多いような気がする。


Paul Strand, "Women of Santa Anna", Mexico, 1933.
ポール・ストランドの写真に出てくる人物には、何とも表現出来ない寂しさの様なものが漂っている感じを受けるのは、筆者だけでしょうか?


Paul Strand, "Ranchos de Taos Church", New Mexico. 1931.
1931年、ニューメキシコの「ランチョス・デ・タオス・チャーチ」の写真、最初の「ウォール・ストリート」と名付けられた作品と同じで、ポール・ストランドは、建物の重圧な存在感をキャプチャー出来る写真家でもある。

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芸術鑑賞 010 ルイス・ハイン 続き

2011年05月28日 20時12分55秒 | 芸術鑑賞

In 1930-31 recorded the construction of the Empire State Building which was later published as a book, Men at Work (1932).
ハインは、金銭的に苦労したらしく1930~31年にエンパイアー・ステート・ビルディングの建設現場での危険な記録撮影の仕事を引き受けています。 実際に同じ高さにいる事を想像すると間違いなくチビリそうになるのが、この上下の写真です。 いかに慣れていると言っても、よくまぁこんな所でお昼を食べて一服する気になれるものです。


His works mostly portray working people who slave for modern industry. Empire State Building construction began is 1930 and employed about 3400 people who mostly were immigrants from Europe. ハインの作品の多くは、近代産業の奴隷として働く人々のポートレイトです。エンパイアー・ステート・ビルディングの建設は1930年に始まり3400人を雇用しました、その多くはヨーロッパからの移民達でした。


"Raising the Mast, Empire State Building", 1932. Silver print. (10-1/2 x 13-7/16inches)
Yale University Art Gallery, Gift of Lisa Rosemblum.
「エンパイアー・ステート・ビルディング、旗柱を立てる。」 1932年


"Power house mechanic working on steam pump" 1920.
電力会社のメキャニックがスティーム・ポンプの仕事をしています。


Joseph Severio, peanut vender, age 11 [seen with photographer Hine]. Been pushing a cart 2 years. Out after midnight on May 21, 1910. Ordinarily works 6 hours per day. Works of his own volition. All earnings go to his father. Wilmington, Delaware.
デルウェアのウイルミントンでピーナッツを売る11歳のジョセフ・セヴァリオとハイン。 
彼はもう2年間この仕事をしていて、1910年5月20日には真夜中を過ぎても仕事をしていました。 全ての収益は彼の父親にいきます。


A boy making melon baskets in a basket factory. Evansville, Indiana.
インディアナ州エヴァンスビルのバスケット工場でメロン用のかごを作っている少年。


"If I could tell the story in words, I wouldn't need to lug around a camera." ~Lewis Hine
「もし私が言葉で話を伝えられるなら、カメラを引きずり回す必要はなかった。”と言っています。
ルイス・ハインの功績は、彼の死後にやっと評価し始められました。 ハインは、結果的に彼の写真と出版だけでは十分な収入が得られなかったのでしょう、1940年1月に自宅を手放さなければならず、その11ヶ月後の11月3日に66歳で貧しいなか亡くなったそうです。

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