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読書 その五十六 ウェスト

2011年03月31日 14時38分54秒 | 読書 (国吉康雄、回顧展カタログの翻訳)

"She Walks Among The Ruins", 1946. Oil on canvas (43 1/2 x 30 1/8 inches)
Menard Art Museum, Aichi, Japan

風景画の中のこの新しい関心は、1941年の夏にした長い西部への旅とつながっていて、
彼は全行程を運転して、カリフォルニアに行って戻って来ました。 多くの時間をコロラドと
ネヴァダで費やしました、そしてドラマチックな山岳地域や寂しそうな炭鉱施設そして荒廃し
見捨てられた町は彼に深い印象を与え、これらの戦争初年期の世界中での全般的破壊と荒廃に
あっていました。 その頃まではクニヨシの人物画は、ほとんどいつも室内でポーズをとっていました、
しかしそれ以来人物画のほとんど(そして多くの静物画まで)西部の山々や町をベースにした風景の中に表現されています。


"Empty Town in Desert",

This new interest in landscape is connected with a long Western journey he
made in the summer of 1941, out to California and back, driving the whole way.
Much of his time was spent in Colorado and Nevada, and the dramatic mountain
country and the lonely mining camps and desolate abandoned towns made a
deep impression on him, fitting in with the general destruction and desolation
throughout the world in these early war years. Up to then his figures had almost
always been posed indoors; but since then most of them (and even many still-
lifes) have been shown in landscapes based on the Western mountains and towns.


Kuniyoshi in his class teaching.
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読書 その五十五 変化

2011年03月28日 12時58分56秒 | 読書 (国吉康雄、回顧展カタログの翻訳)

"At Work", 1943. Casein on gesso panel. (19 x 14 inches)
Fukutake Shoten Collection. Yasuo Kuniyoshi Museum Okayama, Japan

1940年からのクニヨシの作品は、幅広い人間の同情心と世界の状況の認識を反映し、
題材とスタイルの両方に興味深い展開が見られました。 それはもはや単純な女性像、
簡単な静物画やシンプルな風景画に閉じ込められていませんでした。 
女性はいまだに彼の人物画の中心です、しかし彼女達は、より多くの連携と意義ある
設定のなかで表現されています。 
彼の静物画は、静物画以上の何かになって来ました。 
そして風景が、ほとんど全ての彼の絵の中に組み込まれました。


"Thinking Ahead", 1945. Oil on canvas. (16 x 12 inches)
The Phillips Collection, Washington, D.C.

Kuniyoshi's work since 1940 has shown interesting developments in both sub-
ject and style, reflecting broader human sympathies and an awareness of the
state of the world. It is no longer confined to the simple female figure, the simple
still-life, the simple landscape. Women are still the center of his figure paintings,
but they are shown in settings that have more associations and meaning. His
still-lifes have become something more than still-life. And landscape has entered
into almost all his pictures.


Kuniyoshi in his studio.
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悲しき日本

2011年03月27日 10時34分10秒 | 画家のツブヤキ


「25日午前、福島第一原子力発電所から半径20~30キロ圏内の住民に対して自主的に避難するよう要請した」、先日の新聞記事の一部だ、アメリカ、ドイツ、韓国などは当初から80キロ圏内の避難勧告である。 もしこれが国外で起こっていれば、もしこの地震・津波の想定外の被害がなかったら、日本政府も同じ80キロ圏内の避難勧告を自国民に要請したであろう、少なくとも半分の40キロ、でもそれが出来ない悲しい当事国としての現状があるのだろう。 しかし最初は同心円の避難勧告地域も、今は実際の観測データに基づいた避難勧告地域に出来れば変えるべきだろう。                   
                                      
自衛隊、ハイパー・レスキュー隊を含め現場では決死の修復作業が行われている福島第一原発から閉じ込められていた放射性物質が爆発事故によって外に出てきた。 昔は死の灰と言っていたが、目に見えない小さな粒子である。 濃度の差こそあれ既に世界中に飛散してしまったチリは、
ヨウ素131,セシウム134など聞き慣れない物質である、付着しているかどうか見えないし感じないのにどうやって洗い落とせるのか、又そんなものをマスクをしたり洗ったりするだけで本当に防げるのかよく分からない。 

見えない放射線に被爆すると遺伝子障害、白血症、甲状腺ガンなどを引き起こすとされている。
我が家ではNHKしか見えないが、ニュースを見たり解説を聞いていて、納得のいく説明が出来ないジレンマを感じる。 直ちに障害はないと言われても、もともと放射線がDNAに損傷を与えて起こるので、5~10年経ってみないと本当の事は誰も分からないのはみんな知っている。


Illustration by チップ姐さん

放射能とは放射線を出す能力のことで、放射能を持つ物を放射性物質と呼ぶのだが、放射能を
扱う単位も、我々の年代はキューリーだったがいつの間にかレムとかラドやグレイが増え、そして今はシーベルトにベクレルである。 ウイキペディアで調べてもよく分からない。 こういう時は、危機を回避するだけの知恵と知識が必要だ、何となく理解出来そうな情報をネットで探してみた。 「引用はご自由にどうぞ」と言うことなので中部大学の教授、武田邦彦工学博士のサイトのリンクを下記しました。 興味のある方は、ご覧下さい。

http://takedanet.com/



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日本の美

2011年03月22日 17時57分01秒 | 画家のツブヤキ


話してもなかなか通じないのが国際社会の関係である。 言葉だけではない、価値観、考え方の相違、歴史的なもの、宗教的なものと複雑な要因が多く、コミュニケェーションは容易でない。 親子、夫婦間の話をとっても真のコミュニケェーションは、やはりさほど容易なものではない。

「3-11」以後、ふり返って見ると、今回の地震・津波の被害の大きさと福岡原発からの放射能の恐怖に加えてもう一つの想定外の驚きがある。 それは日本の見せた成熟した先進国家の姿、美しい日本である。 人々がこの未曾有の大天災に対処している姿は、映像として全世界に伝わり、話す事だけでは出来ない説得力を持って世界中の人々の心の中に演出されていない事実が伝わり、真実を見た人は心を動かされたのです。


Photo: Alfred Eisenstaedt, (1898 - 1995). German-American photographer.

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読書 その五十四 反戦

2011年03月19日 21時40分27秒 | 読書 (国吉康雄、回顧展カタログの翻訳)

"Forbidden Fruit" 1950

クニヨシは、戦争の間、黙ったままでいる事が出来ました、そして彼を咎める人は誰も
いなかったでしょう;しかし彼は、彼が信じている側の為に発言することを選びました。
彼にとって民主主義の根本を信じることは、彼が完全に反対している政府への考えられる
忠誠心よりも重いものでした。

クニヨシは、オー・ダブリュー・アイ (OWI, Office of War Information)の為にポスターを
描きました、戦争によって制作された最も強烈なものの中に含まれていました。 1942年に
彼は、ユナイテッド・チャイナ・リリーフの援助のためにダウンタウン・ギャラリーで回顧展
を開きました。 彼は、パール・ハーバーの前より多くの演説をしました。 
彼はボランティアで日本への放送を、それも二回しました、それを彼自身の名前でする事を
主張しました。


"Torture", 1943. Drawing for War Poster. (40 x 28 1/2 in). Owned by artist

Kuniyoshi could have remained silent during the war and no one could have
blamed him; but he chose to speak out for the side in which he believed. To him
belief in the democratic cause outweighed any conceivable loyalty to a govern-
ment to which he was utterly opposed. He drew posters for the OWI, including
some of the most powerful produced by the war. In 1942 he held a retrospective
exhibition at the Downtown Gallery for the benefit of United China Relief. He
made more speeches after Pearl Harbor than before. He volunteered to broad-
cast to Japan, and did so twice, insisting on doing it in his own name.


Kuniyoshi at the bottom center.
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読書 その 五十三 パール・ハーバー

2011年03月18日 21時40分54秒 | 読書 (国吉康雄、回顧展カタログの翻訳)


その一方で彼に与えた戦争の衝撃は直接的で強烈でした。 日本生まれなので彼は、
決してアメリカ市民になることは出来ませんでした、しかしクニヨシは、それ以外では
彼自身長い間アメリカ人だと感じていました。 ほとんどの人々よりずっと前から、
1931年の満州への侵略と同じ早い時期から、彼は日本政府に反対していました、そして
彼の意見を隠したりしませんでした。

パール・ハーバーの後、彼は当然敵対国外国人として分類されました、そして彼の周知の
自由主義がなければ、事態は困難になっていたかも知れません。 そのようで、アメリカの
芸術家達の間で彼の位置は影響ありませんでした。 クニヨシがペンシルバニア・アカデミー
の審査委員を辞退すると申し出たとき、アカデミーは耳をもかしませんでした。
戦争の最盛期に彼は、カーネギー・インスティテュートで一等賞を授与されました。



On the other hand the impact of the war on him was immediate and strong.
Because of his Japanese birth he can never be an American citizen, but he has
long felt himself an American in every other respect. long before most of us, as
early as the invasion of Manchuria in 1931, he was against the Japanese govern-
ment and did not conceal his opinions. After Pearl Harbor he was of course
classed as an enemy alien, and things might have been difficult had it not been
for his known liberalism. As it was, his position among American artists was in
no way affected. When he offered to resign from the jury of the Pennsylvania
Academy, the latter would not hear of it. In the height of the war he was awarded
the first prize at the Carnegie Institute.



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読書 その五十二 デプレッション

2011年03月17日 19時42分39秒 | 読書 (国吉康雄、回顧展カタログの翻訳)


大恐慌の間とその始まりの頃、社会的意識の流れが若い世代の間で支配的であった時、
クニヨシは自由主義の賛同者であるのに、社会に関する内容をもったものを少し制作
しただけでした。 それとは逆に彼の絵の内容は個人的で道徳観念のないものでした。
しかし、1930年代の終わりに向かって、少しの作品が伸びて来た社会への自覚を見せ
始めました。 工場の沈滞と崩壊の雰囲気のあるデザーテッド・ブリックヤード(廃墟の
煉瓦工場)は、時期遅れの大恐慌を反映した、そしてトゥー・ワールドは嘲笑的な社会
コメントでした。


"Between Two Worlds", 1939. Oil on canvas. (24 x 40 inches)
Private Collection, Courtesy of Gallery Nii, Osaka, Japan.

During the depression and in its wake, when the school of social consciousness
had been in the ascendancy among the younger generation, Kuniyoshi in spite of
his liberal sympathies had painted little that had any social content. On the con-
trary, the content of his art had been personal and amoral. But towards the end
of the 1930's came a few works showing a growing social awareness. Deserted
Brickyard with its atmosphere of stagnation and decay was a belated reflection
of the depression, and Two Worlds was sardonic social comment.


Yasuo Kuniyoshi in New York, Photo. Arnold Newman

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読書 その五十一 組織力

2011年03月16日 22時14分24秒 | 読書 (国吉康雄、回顧展カタログの翻訳)

"Up Stream", 1922. Oil on canvas. (76.7 x 60.8cm). Denver Art Museum.

画家業の早い時期から、クニヨシは自由主義的芸術家の組織のメンバーでした。
初めのうち彼は、角に座って他の人に話させる傾向がありました。 しかし1930年代の
中頃から彼は、もっと活動的な役割につき始めました。 

アメリカン・アーティスツ・コングレス(アメリカ美術会議)が1935年に創立された時、
クニヨシは、実行委員会にいて、後に五人の副会長の一人になりました。 彼の政治に関する
見解は、進歩的なものでした、そして1936年にコングレス(米議会)によってアレンジ
された戦争とファシズムのシンポジウムで演説をしました。 それ以来、クニヨシはしばしば
公共の場で演説をしました。

1939年に彼は、アメリカン・グループ(非公式な進歩的芸術家の会)の会長に選ばれて、
会員や活動の増強を進めました。 彼自身の初期の苦労は、彼をアーティストによる組織と
協同運動、そして彼らのために一生懸命働く事を信じるようにしました。 こういった活動は
人として又芸術家として大きな意味を持っていると彼は感じます。 それらは彼にとって、
この国や芸術家の社会で普通に暮らす事は特別に重要な事は明らかでした。

アーティスツ・イクイティの最近の創立以来、共通な経済上の関心を基に、一方で芸術的
相違と他方でイデオロギーの相違で不測の困難を避け、クニヨシは重大な組織作りの時期の
間、その会長を務めました、彼が仲間のアーティストによって支えられていると評価する
証拠です。彼は、熱心に仕事をし熟練した外交手腕の大変良い取締役であることを立証しました。


"She's going", 1944. Oil on Canvas. (16 x 12in). Mead Art Museum, Amherst, Massachusetts.
Gift of Mr. & Mrs. James Schramm, Class of 1926

From his early career Kuniyoshi was a member of liberal artists' organiza-
tions. At first he had a tendency to sit in a corner and let other people do the
talking. But in the middle 1930' he began to play a more active role. When the
American Artists' Congress was founded in 1935 he was on the executive com-
mittee and later became one of five vice-chairmen. His political views have
always been liberal, and in 1936 he spoke in a symposium on war and fascism
arranged by the Congress. Since then he has often spoken in public. In 1939 he
was elected president of An American Group, and informal society of progressive
artists, and proceeded to build up its membership and activities. His own early
hardships have made him believe strongly in organization and cooperative effort
by artists, and to work hard for them. These activities, he feels, have meant much
to him as a man and an artist. It is evident that they have been of special im-
portance to him in making him feel at home in this country and in the community
of art. Since the recent founding of Artists' Equity, based on common economic
interests and avoiding the pitfalls of artistic differences on the one hand and
ideological differences on the other, Kuniyoshi has served as its president during
the critical organizing period - evidence of the regard in which he is held by his
fellow artists. He has proved to be an extremely good executive, hard-working,
skillful and diplomatic.


Kuniyoshi and others at the Artists Equity Ball, 1950, Dec.
B&W, 21 x 25cm, unidentified photographer.
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読書 その五十 サマー・ストーム

2011年03月15日 11時35分57秒 | 読書 (国吉康雄、回顧展カタログの翻訳)

"Refugees", 1939. Casein on board, (13 x 20 in), Private collection.
Photograph courtesy of Sotheby's

クニヨシの1930年代の風景画、ドランやセゴンザックらに近い感じで、ふさぎ込んだ憂鬱な、
それらは伝統的西洋の風景画でした。 彼の他の作品と比べると、それらはどちらかと言うと
平凡なもので;明らかにクニヨシは純粋な風景画家として作られていませんでした、彼の風景画では、
人間か動物のような形で、何かが起こっていなければなりませんでした。
1930年代の後半に、「サマー・ストーム」のなかに稲妻やおびえた馬で、これらの要素が再出現し始めました。 
この時から彼の風景画は、人間的要素か社会的コメントを含むようになったのです。


"Summer Storm" 1938, Oil. (26 x 38 inches), Detroit Institute of Arts.


"Horse", 1922. Photographed by Kuniyoshi (8 x 10 1/4 inches)
Collection of Sara M. Kuniyoshi.


His landscapes of the 1930's, They were landscapes in the Western tradi-
tion, somber and moody, with affinities to Derain and Segonzac. Compared to
his other work they were rather conventional; evidently he was not made to be a
pure landscapist; something had to be going on in his landscapes, some form of
human or animal like. In the late 1930's these elements began to reappear, as in
Summer Storm with its lightning and terrified horse. From this time on his land-
scapes have contained human elements or social comment.


Andrè Dunoyer de Segonzac: (July 7, 1884 - Sept. 17, 1974), French Painter.
アンドレ・デュノイヤー・デ・セゴンザック、フランス人画家
アンドレ・ドランは、読書その二十五アンドレ・ドランをご覧下さい。



上:"Creey-la-Chapelle, la route de Voulangis", Oil on canvas. 1935
下:"Les Poires", 1920




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頑張れ日本

2011年03月13日 21時02分15秒 | 画家のツブヤキ

"She Mourns" 1946, Gouache on paper, (26 x 20 1/4 inches)
Georgia Museum of Art, The University of Georgia, Gift of Alfred H. Holbrook

大変な事になったものだ。 想像を絶する事が現実に起こり、信じられない事が現実の映像として流れてくる、言葉では表しきれない大惨事である。 現場に足を踏み入れた目線での画像も尋常なものではない、全てがメチャメチャに壊されていて津波の恐ろしさを嫌と言うほど感じる。 

命からがら逃げてきた人たちの生の声が届くにつれて、また一段と悲しさが増し、涙を禁じえない。 しかしまだ予断は許されない、救助中の二次被害もあれば原発のメルト・ダウンの可能性もある。 生きている地球に住んでいる宿命だろう、そして生き残った人の宿命は再建である。


"Mother and Daughter" 1945, Oil on Canvas. (40 1/4 x 30 1/4 inches), The Carnegie Museum of Art.
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Massive Earthquake hit Japan

2011年03月11日 21時09分13秒 | 画家のツブヤキ
昨日は疲れていたので早く寝た、その代わり朝早く起きた。 まだ暗かったけれど、目が
さめたのでシャワーを浴び部屋を暖かくして携帯を見ると、友人からのメッセージがあった。
"Are you watching the TV?" 昨日の夜の発信だ、コンピューター・ルームに行ってネットで
日本のニュースを見ると「津波が東北を襲った」らしい、どこで、
いつ地震があったのだろうと思いながらテレビをつけるとNHKのニュースの実況中で、
この辺でやっと事の重大さに気が
ついて、テレビに釘付けになった。 外は少し明るくなって来ていた。

津波が家々を崩壊し広い畑のグリーンハウスの群ものみ込み、あっという間に一面を汚れた
海水で覆ってしまうパワー、止める事の出来ない自然の力の前に驚嘆の意を感じた。
火の海と化した気仙沼の映像も逃げ場の無い惨事で、頭の中が真っ白になってしまった。 
想像を絶する事が、なんと目の前で起きている事実に心を何とか平常にと努力しても、落ち
着いて何も考えられない状態になってしまう。

壊れたものは作り直す以外ない。 しかしこれからの救出復旧作業は容易ではないだろう。
地震を止める知恵も力もないのであるから、いかに被害を少なく対応していくか以外はない。
今後の為、この経験を生かし、「災い転じて福となる」にもっていけば幸いであろう。
瓦礫の表面にはうっすらと雪が積もっているのが見えた、まだ寒い日が続くだろうから、
被害地状況改善のためにみんなで素早く出来るだけの事をしてあげたいと思う。
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読書 その四十九 ウッドストック

2011年03月10日 11時22分50秒 | 読書 (国吉康雄、回顧展カタログの翻訳)

"Sara" 1938, クニヨシによるサラの写真

「もう一度私は、子供の頃の夢の海岸に触れました、この時は友達に迎えられ、もはや
不慣れな感じのない土地に戻ってきた喜びでした。」
1927年、クニヨシはニュー・ヨークのオースター・カウンティにあるウッドストックで
夏を過ごし始め、1929年にそこに家を建てました。
1932年の離婚後、1935年にサラ・マゾと結婚したクニヨシは、ほとんど全ての夏を
ウッドストックで過ごしました。 そこにはたくさんの友達がいました;彼のそこでの四ヶ月は彼の人生で重要な部分でした。
1935年にグッゲンハイムの特別奨学金で二人は、その夏をメキシコとタオスで過ごすことが出来ました、
しかし彼はその絵のような美しさに圧倒され何も描けないことが分かるのです。


"Girl with Accordion" 1941, Oil on Canvas. (40 x 30 inches)
Portland Art Museum, Portland, Oregon. Ella M. Hirsch Fund

"Once again I touched the shores of my childhood dreams, this time greeted
by friends and delighted to be back in a land that no longer seemed strange,"
In 1927 the Kuniyoshis had begun spending their summers at Woodstock in
Ulster County, New York, building a house there in 1929. After his divorce in
1932 and his marriage to Sara Mazo in 1935 he has continued to spend almost
every summer in Woodstock, where they have many friends; and his four months
there are an important part of his life. A Guggenheim Fellowship in 1935 en-
abled them to spend that summer in Mexico and in Taos; but he found their
picturesqueness overpowering and quite unpaintable.




1929年、ウッドストックにクニヨシが家を建てたとき、彼は40歳でした。 そしてその
40年後の1969年にロック・ミュージックの歴史的な大イベントがあるとは夢にも思わなかったでしょう。






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読書 その四十八 フロク・4 ドローイングーIII

2011年03月09日 21時33分43秒 | 読書 (国吉康雄、回顧展カタログの翻訳)

21-Backstage by Raphael Soyer:ラファエル・ソイヤー、「バック ステージ」
ラファエル・ソイヤーは、1899年にロシアで生まれ10歳の時にアメリカに来ました。
クニヨシと同じアート・ステューデンツ・リーグで学びました。 この「舞台裏」の作品は、
ソイヤーのステージ・シリーズの一つですが、一度見たら忘れないとても印象に残る作品です。


22-Winter in the Catskills by Doris Lee:ドリス・リー、「冬のキャッツキルス」
クニヨシの学友アーノルド・ブランチの二度目のワイフ、ドリス・リーの作品です。
ホルマークのクリスマス・カードに使われていそうな感じですね。


23-East Side Interior by Edward Hopper:エドワード・ホッパー、「東側の室内」
クニヨシと同じ様にロバート・ヘンライやケニス・ミラーに師事した、エドワード・ホッパー
は、ロイド・グッドリッチが力を入れて推していた画家で、ウィットニー美術館にはホッパーの作品がたくさんあります。 
クニヨシと同じ1952年にヴェネチア・ビエンナーレのアメリカ代表に選ばれたアーティストの一人です。


24-Merry-Go-Round by Reginald Marsh:リージナルド・マーシ、「メリーゴーラウンド」
やはり同じクニヨシの学友だった、リージナルド・マーシのこのエッチングは、コニー・
アイランドを描いたシリーズの一つです。 彼の作品は、独特の雰囲気を持っています。


25-Women Shopping by Kenneth Hayes Miller:ケニス・ヘイズ。ミラー、「買い物中の婦人達」
クニヨシのリーグでの先生だったケニス・ミラーは、1876年にニュー・ヨークのケンウッドで生まれています。 
当時のご婦人もやはりショッピングはお好きだったようです。


26-Merry-Go-Round by Howard Cook:ハワード・クック、「メリーゴーラウンド」
ハワード・ノートン・クックは、1901年にマサチューセッツ州のスプリングフィールドで
生まれています。 彼もリーグで学び、グッゲンハイム賞をもらっています。
同じメリーゴーラウンドを描いてもリージナルド・マーシとはひと味違うエッチングです。


27-Sleep by Alexander Brook:アレキサンダー・ブルック、「スリープ」
クニヨシのクロース・フレンドだったアレキサンダー・ブルックの作品です。 
どう言う事情で、こういったポーズで寝入ってしまったのか気になる処です。
三度結婚したアレックスの裸婦像は、経験豊かです。


28-The Social Graces by Peggy Bacon:ペギー・ベーコン、「ソーシャル・グレース」
アレキサンダー・ブルックの最初のワイフ、ペギー・ベーコンは幅広い面で活躍していた
売れっ子作家のパーティー・ゴーアー、彼女ならではの作品です。


29-Valse Brillante by Minnetta Good:ミネッタ・グッド、「ヴェールス・ブリルランテ」
ミネッタ・グッドは、カリフォルニアのアーティストで美術の勉強は独学だそうです。
ショパンの曲の楽譜なのでしょう、"valse"を辞書で引くと「フランス」(特に演奏会用の)
ワルツと出ていました。 フロク・4の終わりを飾るにはぴったりの音楽のようです。
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読書 その四十七 フロク・4 ドローイングーII

2011年03月08日 14時46分12秒 | 読書 (国吉康雄、回顧展カタログの翻訳)

11-Blue Valley Fox Hunt by John S. De Martelly:ジョン・デマーティリイ、「狐狩り」
ジョン・エス・デマーティリイのブルーバレーでのキツネ狩りのリソグラフは、作者に
よれば150時間を制作に費やしたそうです。ゆっくり時間をかけた内容の濃い作品です。


12-Escaped Bull by Jon Corbino:ジョン・コルビーノ、「脱出した雄牛」
ジョン・コルビーノは、1905年にイタリアのビットリアで生まれ、クニヨシと同じ
グッゲンハイム・フェローシップを2度受賞しています。 逃げた牛と言うより闘牛の牛
と言った感じで、同じ牛でもクニヨシの牛とはまったく別物ですね。


13-Frankie and Johnny by Thomas Benton:トーマス・ベントン、「フランキーとジョニー」
フランキーとジョニーと言うバラードが当時流行ったそうですが、その曲を元に描かれた
もので、ギャンブラーのジョニーが浮気でもしたのでしょう、愛人のフランキーにダンス・
ホールで撃たれてしまいます。 大惨事なのに何となく可笑しいリソグラフです。


14-Jockey Clothes by Lee Townsend:リー・タウンセンド、「騎手の衣服」
このリソグラフの作者、リー・タウンセンドはプロの調教師でもあり、若い頃左足に怪我を
するまでジョッキーの経験もあるそうです。 カウンティーフェアーで二度続けて優勝した
と言われるジョッキーの無造作に掛けられた衣類をメリハリのある作品に仕上げています。


15-Village Street by Thomas W. Nason:トーマス・ネーソン、「ヴィレッジ通り」
この木版画は、技術的にも良くできていて小さな町の住宅地の雰囲気が伝わって来る感じが
します。 ヴィレッジ・ストリートと名付けられたこの道の辺り、当時のサバーブなのかも。


16-Water Front by Charles Locke:チャールス・ロック、「ウォーター・フロント」
1899年にシンシナティで生まれたロックは、リーグのジョセフ・ペネルにリソグラフを
師事し、後に師の後を継いでリーグで教えます。 遠くにダウンタウンのマンハッタンが
見えているブルックリンのウォーター・フロント、イースト・リバーの東岸の波止場の風景は、
作者の家からさほど遠くなかったようです。


17-Airport by William Heaslip:ウイリアム・ヒースリップ、「エアポート」
ヒースリップは、1898年にカナダのトロントで生まれています。戦後、ニュー・ヨークに
移り、リーグでも学びます。 当時の夜の飛行場の雰囲気が伝わって来ます。


18-Delmonico Building by Charles Sheeler:チャールス・シーラー、「デルモニコ・ビル」
写真家でもあるチャールス・シーラーは、1883年にフィラデルフィアで生まれています。
新しいビルの白い壁に反射する強い光とビルの影、写真家ならではのとらえ方のようです。


19-Central Park at Night by Adolf Dehn:アドルフ・デーン、「夜のセントラル・パーク」
セントラル・パークの黒い木々のシルエットの間から、ニュー・ヨーク摩天楼のすばらしい
スカイラインが下の通りの明かりの中から浮かび上がる光景に興奮すると作者は語っています。
当時としては、最新の都会的なイメージだったのでしょう。


20-Subway Stairs by John Sloan:ジョン・スローアン、「地下鉄の階段」
ジョン・スローアンは、クニヨシの先生ケニス・ミラーと同じ時期にリーグで教えていました。
アッシュ・キャン・スクールのロバート・ヘンライの影響を受け庶民的作品が多い。
ちょっとした瞬間を上手く捕らえて、当時のニュー・ヨーク・サブウェーの様子を表現している。
背中を見せている帽子をかぶった男性の目線が気になる、若い女の子です。

この「フロク・4」で、クニヨシの暮らしていた当時のアメリカ東部の雰囲気が少しは
伝わってくれているとよいのですが。
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読書 その四十六 フロク・4 ドローイングーI

2011年03月07日 23時02分29秒 | 読書 (国吉康雄、回顧展カタログの翻訳)
MoMAの「19人の現存アメリカ画家」展の後を受け、当時活躍していたアーティスト達の
中から29人を選んで、1939年までのドローイングを集めてみました。


01-Peaches in a Bowl by Yasuo Kuniyoshi:ヤスオ・クニヨシ、「ボールの中のモモ」
クニヨシの作品には、少しキュービズムっぽいところがあり彼独特の空間を創っていて面白い。 
彼の黒く描かれた部分と白く残された部分の組み合わせと使い方は、物体の輪郭と立体感を
抜群のうまさで引き出しているように思う。


02-July Fifteenth by Grant Wood:グラント・ウッド、「7月15日」
グラント・ウッドのアイオワ州のローリング・ヒルスを描いたこの風景画は、夏の暑い光を受けながら
延々と続く穀物帯の雰囲気が想像出来ます。 濃く描かれたブロッコリーのような木々の作るパターンも面白い。


03-Duck Hunter by Arnold Blanch:アーノルド・ブランチ、「ダック・ハンター」
クニヨシの学友であるアーノルド・ブランチ自身、鴨猟は好きだったようです。 朝一で来たのでしょうか
空はまだ暗い感じです、猟犬はどこでしょう?
 

04-Hogs Near a Corncrib by Harry Wickey:ハリー・ウィキイ、「コーン納屋近くのブタ」
1935年に目を悪くしたハリー・ウィキイは、エッチングの制作を諦めオハイオ州の農場で
暮らしそこで接した家畜達を描いたリソグラフの一つです。


05-Pastoral, Puerto Rico by Irwin D. Hoffman:アーウィン・ホフマン、「プエルトリコ田園画」
1901年にボストンで生まれたホフマンの作品は、彼独特の曲線の持つしなやかさと強さを
うまく使って労働者達の表現が出来ていると思います。 植えているのは煙草の葉でしょうか?


06-Corn by John Steuart Curry:ジョン・ステュアート・カーリイ、「トウモロコシ」
広大なコーン・フィールドの緑、葉っぱのツヤまでが伝わって来そうな、その中に住んで
居ないと描けない作品、そんな感じがします。 コーンだけで一枚の絵にした処は、お見事。 


07-Jackie by John E. Costigan:ジョン・イー・コスティガン、「ジャッキー」
コスティガンの子供ジャッキーの絵、お父さんの牧場の仕事を手伝って疲れたのでしょうか? 
強い日の光よりまぶしいジャッキーの白い歯です。


08-Milton Pond, Thanksgiving Day by Lauren Ford:ローレン・フォード、「ミルトン・ポンド」
感謝祭の日、七面鳥を食べた後に出てきたのでしょうか、ポンドで楽しそうに遊ぶ当時の
子供達の様子がスケーティーなタッチで描かれています、大人達は暖かい家の中でワインでしょう。


09-Missouri Wheat Farmers by Joe Jones:ジョー・ジョーンズ、「ミズリーの小麦農夫達」
ウィート・バッグをヒモでトジている処で、農夫の着ているオーバーオール、帽子や靴が妙に
リアルで、麦袋の布の質感とバックグラウンドの対比のなかで力強い存在感を作っている。


10-Morning Train by Francis Chapin:フランシス・チェーピン、「朝の汽車」
オハイオ州ブリストルビルで生まれたフランシス・チェーピンは、チカゴで活躍しました。
道の曲がり角や坂道、回りの雑草や遠くの丘、それに空の雲まで曲線っぽく描かれ全体にとても
柔らかい雰囲気を創り上げている。 もうすぐ汽車が来るところのようであるが、馬の後ろに
いる人は、いったい何をしているのだろう、誰かを待っているのでしょうか?

コメント
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